値札のついた花嫁
エリナが婚礼の支度部屋に入ったとき、鏡の前には見知らぬ女が座っていた。彼女はエリナの母が遺した真珠の髪飾りをつけ、仕立て屋が三か月かけて縫った花嫁衣装の裾を踏んでいる。
「誰ですか、あなた」
女は振り向かず、侍女に手袋の皺を直させた。
「今日からあなたの代わりになる者よ。カロリーヌ・ヴェスタ。覚えておいて」
エリナは扉の取っ手を握ったまま、部屋の奥に立つ父を見た。男爵オルデンは娘の目を避け、机に置いた紙を指で叩いた。
「婚礼の契約を変更した。おまえは伯爵夫人にはならない。カロリーヌ嬢がセドリック伯爵に嫁ぐ」
「セドリックは承知しているのですか」
「まだ知らせていない。式の直前に話せば済む」
父の言葉はあまりに軽かった。エリナは一度だけ息を整えた。伯爵との婚約は、家同士が決めたものではない。三年前、港の検疫所で疫病が広がったとき、薬品の配達を続けていたエリナと、検疫官だったセドリックが出会い、二人で望んだ結婚だった。
「私たちが結婚すると決めたんです。父上に相手を替える権利はありません」
「権利ならある。婚礼の費用は誰が出したと思っている」
父は紙を持ち上げた。上質な羊皮紙には商会の印章が押されている。
「ヴェスタ商会は借金を肩代わりしてくれた。代わりに、伯爵家との縁を望んでいる。おまえの結婚より家の存続が大切だ」
「借金?」
「余計なことを聞くな。おまえには別の嫁ぎ先を用意した」
父が告げたのは、六十を過ぎた商会主の名前だった。先月妻を亡くしたばかりで、領内の工場で働く少女を何人も住み込みにしている男だ。エリナは聞き違えたかと思った。
「その人は、カロリーヌの父親でしょう」
「だからこそ安心だ。娘を伯爵家へ入れ、おまえを自分の後妻にする。両家の関係が深まる」
カロリーヌがようやくこちらを見た。エリナの髪飾りを指で揺らし、笑う。
「父は若い奥様を欲しがっているの。あなたには悪いけれど、伯爵様は私のほうがお似合いよ。港で荷車を押していた人より、社交界に慣れた私のほうが」
「髪飾りを外してください」
「何ですって?」
「母のものです。あなたには差し上げていません」
カロリーヌは立ち上がり、わざと髪飾りを床に落とした。真珠が三粒、石の床を転がる。エリナが拾おうとすると、女はそのうちの一粒を靴で踏んだ。
「ごめんなさい。古いものだから壊れやすいのね」
エリナはしゃがみ、残った真珠を拾った。踏まれた一粒にはひびが入っている。母が亡くなる前、娘の婚礼の日につけてほしいと渡した飾りだった。エリナは壊れた珠も手の中へ収めた。
「あなたが何を欲しがっているのか、よく分かりました」
「伯爵様よ。あなたにはもう関係ないでしょう」
「違います。私が嫌がるところを見たいんです」
カロリーヌの笑みが消えた。
父が机を叩いた。
「無礼を言うな。式が終わるまで、この部屋から出ることは許さん」
扉の外から鍵を掛ける音がした。父とカロリーヌが出ていったあと、エリナは一人で床に座り込んだ。花嫁衣装を奪われたことより、セドリックがこの話を知らないことが恐ろしかった。彼は他人の決めたことに従う男ではない。だからこそ、婚礼の最中に知らされれば、その場で商会主と衝突するだろう。
窓の外には婚礼の鐘楼が見える。街の慣習では、新郎新婦が鐘を三度鳴らして初めて婚姻の誓いが公に告げられる。鐘を鳴らすのは新郎新婦自身。誰も代わることはできない。子どものころから知っているその決まりを、エリナは初めて頼もしく感じた。
だが、鐘楼への扉には警備兵が立っている。父は娘を閉じ込めたうえで、鐘を鳴らす役まで奪うつもりなのだろうか。
エリナは手元の真珠を見た。母は生前、鐘楼の管理人だった。鐘が壊れた冬、修理工が来るまで毎日上って、錆びた歯車に油を差していた。幼いエリナも何度か連れていかれた。
あの鐘楼には、表階段とは別に、祭具を運ぶための細い通路がある。
彼女は窓へ近づいた。隣の建物との間には、雨樋一本分の隙間しかない。通路の入口は向こう側の倉庫にあるはずだ。ここから直接行くのは無理だが、下の中庭には馬車が出入りしている。
窓を開けようとしたとき、背後で小さな金属音がした。扉の鍵が回ったのだ。
エリナは振り向き、真珠を握りしめた。入ってきたのは警備兵ではない。婚礼用の黒い上着を着たセドリックだった。彼は扉を閉めるなり、部屋の惨状を見渡した。
「君の父上が、花嫁が体調を崩したと言っていた。僕の婚約者は、誰かに閉じ込められると熱を出すのか?」
「どうやってここへ?」
「君が遅れるときは必ず理由がある。父上の説明が雑すぎたから、侍女に聞いて、鍵も借りた」
彼はエリナの前に膝をつき、握りしめた手をそっと開いた。ひびの入った真珠を見ると、顔つきが変わった。
「誰がやった」
「カロリーヌよ。父は私を、あの人の父親に嫁がせると言ったの」
セドリックは立ち上がりかけ、すぐに踏みとどまった。
「今すぐ婚礼を中止する。君を連れて帰る」
「待って。私を連れて逃げたら、父は借金の責任をあなたに押しつけるわ。ヴェスタ商会が何を買い取ったのか、まだ分からない」
「それでも君をここに残すつもりはない」
彼はまっすぐエリナを見た。
「僕が結婚したいのは君だけだ。商会の娘でも、誰かが用意した花嫁でもない。港で荷車の車輪が外れたとき、薬箱を抱えたまま僕を怒鳴りつけた君だ」
「怒鳴っていないわ。急いで、と言っただけ」
「三回も」
こんな状況なのに、エリナは笑いそうになった。セドリックはそのわずかな変化を見て、彼女の手を握った。
「君が望むなら、僕はこの式を捨てる。でも、君が自分の結婚式を取り戻したいなら、一緒に取り戻そう」
エリナは彼の上着を掴んだ。逃げれば命は守れるかもしれない。だが、父が金で人の人生を動かせると思ったままなら、今度は屋敷で働く誰かが売られる。
「式を取り戻したい。それと、父が何を売ったのか確かめたい」
「分かった。僕は君の味方だ」
廊下から足音が近づいた。父の怒鳴り声がする。
「伯爵を探せ! あの男にまだ契約書を見せるな!」
セドリックとエリナは顔を見合わせた。契約書。父は何かを隠している。
扉の外で鍵が激しく鳴った。セドリックはエリナを窓際へ導き、低く言った。
「ここから出よう。君が知っている道を教えてくれ」
エリナは窓の下に止まった馬車を指さした。幌を掛けた荷台には、鐘楼へ運ぶ予定の祭具箱が積まれている。
「道はあるわ。ただし、この格好では目立つ」
セドリックは自分の上着を脱ぎ、彼女の肩に掛けた。
「では、僕の花嫁には少しの間、僕の服を着てもらおう」
エリナは最後に支度部屋を振り返った。机には、母が花嫁衣装に合わせて縫ってくれた小さな布袋が残されている。針仕事が得意ではなかった母は、縫い目を何度もほどき直し、娘に見せるたびに笑っていた。袋の中には婚礼の日に渡すための短い手紙が入っている。エリナは急いで机へ戻り、布袋を取った。セドリックが驚いたように尋ねる。
「忘れ物か?」
「ええ。これは、置いていけない」
セドリックは理由を聞かず、彼女が戻るまで窓枠を支えてくれた。エリナは布袋を上着の内側にしまった。母が手紙に何を書いたのか、まだ読んでいない。婚礼が終わるまで開けないと決めていたからだ。
父は母の形見も、娘の結婚も、家の借金を返すための品物だと思っているのだろう。けれど、この手紙だけは父の帳簿に載らない。エリナは窓の向こうに見える鐘楼を見た。母が毎日上った階段を、自分も上る。そこで初めて、誰にも命じられずに自分の名前を告げたい。
扉が開いたのと、エリナが窓枠に足を掛けたのは同時だった。




