87 第6章:決着(エピローグ)
第3節:新たな謎のコード
夜の静寂が、緑豊かな郊外の平屋を包み込んでいた。
リビングからは、養父母が楽しそうに明日の旅行の計画を話し合う穏やかな声がかすかに漏れ聞こえてくる。俺を真の家族として受け入れてくれた心優しい養父と養母。彼らが与えてくれた温かな家庭こそが、前世で孤独と裏切りの末に死を迎えた俺が、この新しい人生でようやく掴み取ったかけがえのない宝物だった。
だが、自室の小さな学習机の前に座る俺(一真)の表情には、少年の子供らしい愛らしさは微塵もなく、冷徹なまでのエンジニアの鋭さが宿っていた。
カーテンを締め切った部屋の中、小型ノートPCの液晶ディスプレイが、無数のプログラミングコードと暗号化シグナルの光を青白く反射させている。
『カタカタカタカタッ、カタッ――』
小さな指先が、大人用のキーボードを熟練の速度で打鍵していく。
俺が画面上で監視していたのは、前世の俺が遺し、現在は『佐藤一真記念基金』によって厳重に保護されている「次世代AIインフラ基幹特許」のグローバル・トラフィックログだった。そして同時に、黒木宗一郎が失脚する直前まで世界中に張り巡らせていた、ダークウェブ最深部の監視ノードでもあった。
日本の司法によって黒木や愛華、そして神条や陣内といった国内の害虫どもは排除され、無期懲役の判決を受けた。彼らの表面上の資金も特許権も、すべて没収・還流された。
しかし、俺の監視AIは、数日前からインターネットの地下水脈において、不気味で異常な波形を検出していたのだ。
『警告:ダークウェブ・ノード0914経由で、未認証のプロトコルによる侵入試行を検知。試行元:暗号化分散サーバー(推定地域:東欧・北米多段プロキシ)』
「……来たか」
俺は小さな唇を噛み締め、画面に表示された複雑なネットワーク経路を多重解析していった。
黒木宗一郎という男は、日本の政財界のフィクサーにとどまらず、世界規模のサイバー犯罪組織や海外の武器カルテル、違法データブローカーたちの「巨大な資金洗浄のハブ」として機能していた。黒木が逮捕されたことで、彼が握っていた膨大な裏金と、不完全な状態で海外サーバーへ転送されていた前世の俺の特許アルゴリズムのコピーが、野放しのまま裏社会に遺されてしまったのだ。
そして今、その「黒木の遺産」を回収し、自分たちの兵器として完成させようとする新たな敵が動き始めていた。
画面に浮かび上がったのは、何十層もの高度な量子暗号によってプロテクトされた、見たこともない特殊な「謎のプロトコルコード」だった。
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[TARGET_ALGORITHM: SATO-AI-INFRASTRUCTURE-v4.2]
[STATUS: INCOMPLETE_COPY_DETECTED]
[INJECTING_PAYLOAD: OMEGA-CODE-09]
[EXECUTION: OVERRIDE_GLOBAL_NODES_...]
「これは……俺が前世で組み上げた分散型AIコアのアーキテクチャだ。だが、何かが違う……」
俺の目に、強い警戒の光が走った。
相手は単に特許データを盗み出そうとしているだけではなかった。彼らは、俺が前世で設計した「データを保護し、不正アクセスを遮断するための安全制御プログラム」を力任せに書き換え、世界中の金融ネットワークや国防インフラを一瞬で麻痺させる『悪質な攻撃型バックドア(サイバー兵器)』へと悪改変しようとしていたのだ。
さらに、その異常なコードの末尾には、黒木グループの隠し口座から自動送金されたと思われる数百億円規模の暗号資産のIDと、不気味なエンブレムのデジタル署名が刻み込まれていた。
『――シンジケート《オメガ》』
それは、黒木が自らの帝国のバックボーンとして密かに裏で提携していた、海外の巨大サイバーカルテルのコードネームだった。
「黒木の残党どもと海外のカルテルが手を組み、俺のアルゴリズムを最悪の兵器に仕立て上げようとしているのか……!」
前世の俺が、血の滲むような努力と純粋な情熱を注いで生み出したAI技術。
それは世界中の安全を守り、人々の暮らしを豊かにするために作られたものであり、決して殺戮や国際的なサイバー恐喝の道具として使われていいものではなかった。
『ピピッ――』
画面の中央で、謎のコードが不気味に明滅し、基金のメインサーバーの第1次防衛ファイアウォールに対して、攻撃的なプロビング(探索)を開始した。
「舐めるなよ、海外の泥棒どもが……。このプログラムの親が誰だと思っている」
俺の小さな指先が、キーボードの上を弾むように舞った。
前世で世界最高峰と謳われた俺の天才的なハッキング・テクニックが、一瞬にして発動する。俺は自作の防衛カウンター・コード『ヴァルキリー』を起動し、基金のサーバーへ侵入しようとしていた不審なパケットを瞬時に逆トラッキング(逆認知)し、相手の海外サーバーのポートを一瞬で焼き切る勢いで強烈なカウンター・アタックを打ち込んだ。
『ガガガッ――!』
画面上の赤い侵入警告が、一瞬で「ACCESS DENIED(拒否完了)」へと切り替わり、相手の接続は強制切断された。
だが、勝利の余韻は訪れなかった。
切断される直前、相手のサーバーから送られてきた最後の応答ログに、一瞬だけ以下のような文字列が表示されたのだ。
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[RESPONSE: MASTER_KEY_NOT_FOUND]
[NOTE: SEARCHING_FOR_THE_CREATOR'S_LEGACY_IN_JAPAN...]
(……奴らは諦めていない。それどころか、「マスターキー」が日本に存在していることを確信して、本格的な探索を開始しようとしている……!)
冷たい汗が、俺の小さな首筋を伝い落ちた。
彼らはまだ、自分たちが探している「マスターキー」が、日本の地方で静かに暮らす数歳の幼児の頭の中に記憶されていることなど知る由もない。だが、彼らが黒木の遺産を追い、日本国内のネットワークを探索し続ければ、遅かれ早かれ俺の周囲に危険が及ぶ可能性がある。
俺がこの新しい人生で手に入れた、温かい両親、平和な毎日、そして幼い子供としてのささやかで幸せ。
黒木の残党と、世界規模の暗黒カルテル《オメガ》。
彼らがその泥靴で俺の新しい人生を踏みにじろうとするならば――俺は「小さな天才児」の仮面を被ったまま、裏の世界で彼らを完膚なきまでに叩き潰すまでだ。
「宗真ー? もう遅いから、そろそろパジャマに着替えて寝ましょうね」
扉の外から、養母の心優しい声が聞こえてきた。
「はーい! お母さん、今お着替えするよ!」
俺は瞬時に冷徹な表情を消し、無邪気で可愛らしい少年の声で返事をした。そして、専用PCの画面を暗号化ロックし、静かにノートPCを学習机の奥深くへと仕舞い込んだ。
過去の復讐劇――毒殺された前世の恨みと、黒木や愛華たち国内の悪魔たちへの制裁は、完全な形で完結した。
しかし、俺の遺した圧倒的な技術と、この小さな体に宿る天才的な知性を巡る物語は、新たなスケールの「世界を相手にした知能戦」へと、静かにその幕を開けようとしていた。
部屋の明かりを消し、ベッドに入りながら、俺は暗闇の中で静かに決意を固めた。
(来たいなら来い、世界のハッカーども。お前たちがどんなコードを仕掛けてこようと、俺の平穏な家族と未来は、この俺が守り抜いてみせる)
幼い少年の胸の中で、未来への確固たる覚悟の炎が、どこまでも静かに、そして力強く燃え上がっていたのだった。




