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68 第2章:冷血の対価(一真毒殺と過去回想の裏側)

第3節:狂い始めた歯車


佐藤一真という人間の肉体が病院の冷たい床の上で絶命した瞬間、その魂は消え去るどころか、驚異的な執念と憎悪のエネルギーに導かれるように、奇跡的なトランスファーを果たした。

産声を上げた赤ん坊の肉体。その脳組織は物理的には未発達の赤子のものでありながら、中に宿る意識は、数々の最先端コードを叩き上げてきた前世の天才エンジニア・佐藤一真のそれであった。


目を開ければ、そこはかつて自分が愛し、信じ切っていた妻・愛華が暮らす高級ペントハウスのベビーベッドの上だった。

肉体は自分の思い通りに動かない。言葉を発することすらできず、ただミルクを飲み、泣くことしかできない無力な赤ん坊の姿。しかし、その内側にある精神は、かつてないほど冷徹に、そして狂おしいまでに鋭く冴え渡っていた。


(……肉体は赤ん坊だが、頭脳と知識は俺のものだ。……待っていろ、愛華。そして、黒木宗一郎……)


赤ん坊の小さな胸の内で、熱い復讐の炎が静かに、しかし確実に燃え上がった。

一真がまず最初に行ったのは、この超高級タワーマンションに張り巡らせられたスマートホームのネットワークシステム、および愛華や彼女を取り巻く男たちのプライベート・スマートフォンに対する、密かなるハッキングの敢行だった。


最新鋭の暗号化セキュリティなど、前世で世界最高峰の分散型暗号処理システムを設計した一真の敵ではなかった。彼は、ベビーベッドの特等席でわずかな手足の動きや視線のコントロールを利用し、部屋の防犯カメラ、通信回線、暗号資産のウォレット、そして裏社会の連絡網に至るまで、すべてのシステムへのバックドアを完全に構築し終えていた。


その日から、「小さな復讐者」による極秘の工作が幕を開けた。

一真が狙ったのは、黒木が用意した「三人の見栄えの良い小道具」――弁護士の神条、役員の陣内、そしてパーソナルトレーナーの陸斗の三人が、お互いに対する不信感から自滅へと向かうよう、裏で巧妙に糸を引くことだった。


三人の男たちは、それぞれが自分の欲望と保身に駆られ、愛華との関係や特許の利権を独り占めにしようと画策していた。しかし、彼らの足並みは、一真が仕掛けた絶妙な「情報のリーク」と「心理的揺さぶり」によって、音を立てて狂い始めていた。


ある日の夜遅く、ペントハウスのリビングルーム。

愛華の密会相手の一人であり、法的な隠蔽工作を一手に引き受けていたはずの弁護士・神条が、荒い息を吐きながら大理石の玄関ホールに足を踏み入れていた。他的な余裕はすでに消え失せ、その顔には生々しい焦燥と恐怖の色が貼り付いている。


「どうしたの、神条さん? そんなに慌てて……」

ソファに腰掛けて優雅にワインを傾けていた愛華が、冷ややかな視線を向けた。

神条は乱暴に自分の髪をかきむしり、持っていたブリーフケースから一枚の書類の束を乱雑にテーブルへと叩きつけた。


「ふざけるな、愛華! いったいどういうことだ!? 私が検察や警察の目を誤魔化すために作った裏のスキームのデータが、なぜか匿名で私の弁護士事務所のメインサーバーに送り付けられてきたんだ!『あなたの不正はすべて把握している』ってな!」


その言葉に、愛華の表情からわずかに余裕が消えた。

「……なにを言っているの? そんなの、私たちが仕組んだことじゃないわよ。それに、データなら私だって……」

「嘘をつけ!」

神条は激昂し、声を荒らげた。

「私たちが裏でどんな密約を結び、一真をどうやって追い詰めたか、そのすべての音声データや証拠書類のコピーが、なぜか陣内のところにも同時にばら撒かれているんだ! この計画は一体どうなっている! 私の弁護士としてのキャリアも、社会的信用もすべておしまいじゃないか!」


神条が怒りに任せてテーブルを叩いた拍子に、彼の腕から外れかけた高級腕時計が床へと転がり落ちた。

その時――テーブルのすぐ脇、ベビーベッドから見下ろす絶妙な角度に、その腕時計の「裏蓋」が転がり向いた。


ベビーベッドの特等席からその光景を冷徹な眼光で見下ろしていた俺(一真)は、視線を鋭く研ぎ澄まし、その裏蓋に刻まれた微細な金属の刻印に焦点を合わせた。

そこには、熟練の職人によって彫り込まれたような、流麗な筆記体の文字が刻まれていた。


――『 Aika 』

――さらにその下に、小さな日付とともに「Always with you」という甘いメッセージが添えられている。


心臓が、ドクンと激しく脈打った。

(『 Aika 』……愛華への記念刻印……だと……!?)

見間違いようはずもなかった。それは、神条が身につけている高級腕時計の裏蓋に、愛華の名前が刻まれているという動かぬ証拠だった。


これを見た瞬間、俺の脳裏を強烈な電撃が走り抜けた。

(間違いない……! この高級時計は、愛華が神条に贈ったものだ! いや、あるいは二人が深い関係になった記念に、互いに贈り合った特製品か何か……! つまり、神条は単なる近所の弁護士なんかじゃない。愛華の愛人であり、この家に出入りする『真の男』の一人だ!)


頭の中で、パズルのピースが音を立てて噛み合った。

神条がこれほどまでに保身に走り、パニックに陥っているのは、一真が裏のハッキング端末から「神条の不正蓄財データ」と「愛華と神条の密会記録」を、陣内や陸斗、さらには警察の匿名窓口へと同時にバラ撒いたからに他ならなかった。


「ふざけるな、愛華! 私がいつお前を裏切った!? この書類が必要だと言い出したのはお前の方だろうが! まったく……これだから女の浅知恵は厄介なんだ」

神条は吐き捨てるようにそう言うと、冷ややかな視線を愛華――そして、ベビーベッドの中にいる俺へと向けた。


「……もういい。この計画はここまでだ。こんなところで証拠をバラ撒かれたのでは、私の弁護士としてのキャリアもすべておしまいだ。これ以上お前に関わっていたら、私の身が持たない」

「なっ……! ちょっと待ってよ、神条さん! 私たち、共犯同士じゃないの……!」

「共犯? ふざけるな。私はお前の保身や遺産作りのために、人生を棒に振るつもりはない。そもそもだ……」


神条は冷笑を浮かべ、まるで目の前にあるすべての状況を嘲笑するかのように、決定的な言葉を叩きつけた。

「私はね、愛華。君の愛人としてその肉体を抱き、法律の裏技でこの計画に協力してはいたが――最初から、お前がいつか自分以外の男にも同じように裏切りを見せる女だということは分かっていた。お前のスマホに保存されている黒木との連絡記録も、いつ警察に渡るか分かったもんじゃない。私は降りる。勝手に二人で破滅するんだな」


ガチャリ、と重い足音を残して、神条はペントハウスの扉を激しく閉めて去っていった。

残された愛華は、顔面蒼白になりながら震える手でスマートフォンを掴み、叫び声を上げた。

「待って……! 神条さん、戻ってよ……!」


その様子を、ベビーベッドの中から一真は冷徹なまでの笑みを浮かべて見つめていた。

(いいぞ……。一人目の駒が、完全にパニックを起こして逃げ出した。神条の離脱は、この完全犯罪の法的防壁が崩壊したことを意味する)


神条だけではない。

もう一人の駒である陣内もまた、一真が社内データベースから仕掛けた「裏金工作データの暴露メール」によって社内で完全に孤立し、取締役会から解任寸前の追い詰められた状態にあった。会社の不正の責任をすべて一人で被せられると察知した陣内は、今やパニックに陥り、黒木や愛華を逆恨みして暴走を始めていた。

さらに、三人目の駒である陸斗も、愛華が自分を捨てて黒木という巨大な権力者へ乗り換えようとしていることに気づき、嫉妬と暴力に狂ってタワーマンションのロビー周辺をうろつき、いつ突入してきてもおかないほどの殺気を放っていた。


三人の男たちが、お互いに対する猜疑心と恐怖心から、まるで蜘蛛の巣にかかった虫のように激しくもがき苦しみ、勝手に自滅していく。

そのすべての混乱と不信の種を、裏でスマートフォンの画面を操作して植え付けていたのは、他でもないベビーベッドの中に眠る「小さな復讐者」――佐藤一真その人であった。


「ふふっ……あははっ……」

愛華は神条に去られたリビングで、恐怖と焦燥に駆られながら頭を抱え込んでいた。

彼女はまだ気づいていない。

自分たちが完全犯罪の証拠として、あるいは最高の後継者として甘く見ていたこの赤ん坊こそが、自分たちの足元をすくい取るすべての災厄の源泉であり、地獄への道案内人であることに。


狂い始めた歯車は、もはや誰にも止めることはできない。

神条、陣内、陸斗が次々と崩壊し、泥沼の共食いを繰り広げる中で、いよいよすべての元凶である黒木宗一郎自身が、このペントハウスへと足を踏み入れる「運命の時刻」が刻一刻と迫りつつあった。

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