66 第2章:冷血の対価(一真毒殺と過去回想の裏側)
第1節:病室の密約
白く冷たい無機質な壁に囲まれた、総合病院の最上階個室。窓の外には鉛色の夕暮れが広がり、刻一刻と迫り来る夜の闇が、病室の床に長い影を落としていた。
ベッドの上に横たわる佐藤一真の肉体は、すでに自力で起き上がることすら困難なほどに衰弱しきっていた。意識は朦朧とし全身を駆け巡る激しい頭痛と、内臓を内側から焼き尽くされるような鈍い灼熱感。かつて次世代AIインフラの特許開発に没頭し、徹夜を重ねてもびくともしなかった屈強なエンジニアの体躯は、今や見る影もなく痩せ細り、点滴のチューブと心電図モニターのコードに繋がれた痛々しい抜け殻のようになっていた。
(おかしい……どうして、俺の体はこんなにも急激に……)
朦朧とする意識の中で、一真は必死に思考を巡らせていた。
医師からは「過労による免疫力の低下と、それに伴う急性肝機能障害、および不可逆的な神経系の疾患」と告げられていた。だが、どれだけ休養を取り、薬を投与されても、体調が好転することは一度もなかった。それどころか、日を追うごとに症状は悪化し、指先の感覚が失われ、呼吸をするのさえも苦しくなっていゆく。
その病室の静寂を切り裂くように、軽やかな足音が響いた。
「――お疲れ様、一真。……そんなに苦しまないで。もうすぐ、すべてが終わるから」
ふわりと漂ってきたのは、一真が愛してやまなかった妻・愛華の纏う上品な香水の香りだった。
愛華はまるで献身的な良き妻そのものの優しい笑みを浮かべ、手にしたおしゃれな魔法瓶のポットとカップをベッドサイドのテーブルにそっと置いた。
「愛華……来てくれたのか……」
一真は枯れ果てた声帯を震わせ、愛しい妻の顔を見上げようと、かすかにまぶたを持ち上げた。
愛華のその表情は、日々の看病に疲れ果てながらも夫を案じる、あまりにも美しく、儚げなものであった。一真はその姿を見るだけで、胸の奥から温かいものが込み上げてくるような錯覚を覚えた。
「体が辛いでしょう? 大丈夫よ、私がついているからね。ねえ、少し温かいスープを持ってきたの。これを飲めば、少しは楽になるから……さ、口を開けて」
愛華は魔法瓶のカップに液体を注ぎ、スプーンですくい取ると、優しく一真の唇へと近づけた。
一真にとって、その優しさは荒涼とした砂漠に見出した最後の救いだった。妻が自分のために作ってくれたスープなのだから、疑う理由など1ミリも存在しなかった。一真は信頼しきった瞳で愛華を見つめ、言われるがままにその液体を口にした。
だが――。
それが、すべての終わりを告げる引き金だったとは、当時の彼は知る由もなかった。
愛華が持っていた魔法瓶のカップから注がれたのは、温かいスープではなく、無味無臭の強力な神経毒と重金属化合物のカクテルだったのだ。
実のところ、そのスープに致死量の毒物が混ぜ込まれていたのは、この日の夜だけではない。一真が彼女を信じ切って口にしたそのスープに、数週間前から微量ずつ、しかし確実に致死量の毒物が混ぜ込まれていたのだ。体内に蓄積された毒素が神経系と内臓を徐々に麻痺させ、病院での診断結果を完全に「病死」へと偽装するための、恐るべき周到な計画の一部だった。
「ごくっ……」
喉を通った瞬間、それは温かいスープの感触ではなく、焼けた鉄を飲み込んだかのような猛烈な激痛へと変わった。
「っ……!?」
一真の喉から、掠れた悲鳴が漏れた。
全身の血管が一斉に逆流するかのような凄まじい衝撃波が脳内を駆け抜け、視界が真っ白に弾けた。耐え難い苦痛に突き動かされるように、一真はベッドから転げ落ちるように床へと崩れ落ちた。
「がはっ……! はぁっ……、はぁっ……!」
床に這いつくばり、痙攣する両手で冷たいリノリウムの床にしがみつきながら、一真は信じられない思いで頭上を見上げた。
そこには、先ほどまでの「献身的な優しい妻」の仮面を剥ぎ取った、氷のように冷徹な眼光をたたえた愛華が立っていた。
彼女は冷ややかな微笑みを浮かべたまま、スプーンをテーブルに置き、見下ろすように一言を発した。
(なぜだ……愛華……? 俺たちは、夫婦ではなかったのか……?)
混濁する意識の中絞り出すような一真の想いを察したかのように、愛華は冷たく言い放った。
「私が愛していたのは、あなたじゃないわ。黒木様が持っている莫大な富と、この世のすべての権力よ。……あなたが命を削って作り上げたその特許の暗号化キーを黒木様に差し出すこと。それが、私に与えられた最初で最後の「仕事」だったのよ」
脳裏が激しく鳴り響いた。
妻の口から語られた言葉は、一真の築き上げてきた人生のすべてを木端微塵に粉砕するのに十分すぎるほどの破壊力を持っていた。愛していなかった。最初から、自分は「特許を生み出すための道具」として利用されていたに過ぎなかったのだと。
朦朧とする意識の中で、一真の耳に、スマートフォンの画面が放つ電子音が飛び込んできた。
暗黒のフィクサーである黒木宗一郎からの着信が表示されたのを、彼は鮮明に覚えている。
愛華は躊躇ことなくその電話に出ると、スピーカーフォンに切り替え、苦しみにもがく一真の声を、黒木に聞かせていたのだ。
『――ご苦労だったな、愛華。佐藤君の技術者としての執念には敬意を払うが、時代を作るのはいつだって勝者だ。彼の遺した知的財産は、我がグループが責任を持って世界最高のビジネスへと昇華させる……』
電話の向こうから聞こえてきたのは、冷酷で圧倒的な自信に満ちた黒木宗一郎の声だった。
自分が命を削って開発し、人類の未来を変えると信じて疑わなかった技術のすべてが、こうして自分の目の前で、妻と仇敵の手によって掠め取られ、冷笑の対象にされている。
全身の細胞が、苦痛と怒りで絶叫していた。
(許さない……絶対に、許さない……!)
しかし、どれほど魂が叫ぼうとも、毒物に侵された肉体は急速に機能を停止し、視界は容赦なく暗黒の底へと沈み込んでいった。冷たい床の感触が遠ざかり、心電図のモニターが単調な電子音とともに一直線の冷たい直線を描く。
その瞬間、前世の佐藤一真の肉体は完全に絶命した。
だが、物語はそこでは終わらなかった。
肉体は死を迎えたものの、一真の胸の内に渦巻いていたあまりにも強烈な執念、裏切りに対する凄まじい憎悪、そして復讐の炎は、消え去るどころか、その場に新しく産声を上げようとしていた「赤ん坊の肉体」の深淵へと、魂ごとトランスファーを果たしたのだった。
あの病室の夜、愛華が冷酷な笑みを浮かべて見下ろしていた足元で、新しい「佐藤一真」の復讐劇の歯車は、音を立てて回り始めたのである。
すべての真実が回収され、一真が毒殺されたあの暗黒の夜の全貌が、いまひとつの円環となって結ばれた。
妻の裏切り、黒木の陰謀、そして三人の愚かな男たちを操る冷酷なスキーム。そのすべての原点が刻まれた過去の記憶を胸に秘め、ベビーベッドの中で冷徹な眼光を光らせる一真は、いよいよ復讐の最終決戦へと向けて、すべての準備を整え終えるのだった。




