63 第1章:漆黒の過去(愛華と黒木の出会い)
第3節:仮面夫婦の誕生
華やかな讃美歌の響きと、白を基調とした洗練されたチャペル。純白のウェディングドレスに身を包んだ愛華は、ガラス細工のように儚げで美しい笑みを浮かべながら、ゆっくりとバージンロードを歩んでいた。
参列者たちの祝福の拍手、友人たちの羨望の眼差し、そして何よりも――隣に立つ佐藤一真の、胸の奥から溢れ出るような幸福に満ちた表情。
一真は、緊張で少し強張った手で愛華の細い指を包み込み、誓いの言葉を立てた。
「愛華……俺は一生、君を幸せにする。どんなに苦しいときも、君を守り抜いて見せるから」
「ええ、一真さん……。私も、あなたを一生支え続けますわ」
愛華は潤んだ瞳で一真を見つめ返し、可憐に微笑んだ。
だが、そのベールの内側、彼女の冷酷な瞳の奥に宿っていたのは、新婚の喜びなどでは断じてなかった。そこに蠢いていたのは、予定通りに仕掛け(トラップ)が完了したことに対する、反吐が出るほどの不気味な優越感と嘲笑であった。
一真にとって、この結婚は人生で最も輝かしい幸福の到達点であった。
しかし、愛華と黒木宗一郎にとって、この挙式は単なる「完全犯罪の公式なスタートライン」に過ぎなかったのだ。
法的な婚姻関係を結ぶことによって、愛華は一真が遺すであろう巨額の特許権利の正当な第一相続人となり、同時に一真のプライベートや健康状態のすべてを「妻」という絶対的な特権を用いて完全にコントロールする権利を手に入れたのだった。
「おめでとう、一真。君のような優秀なエンジニアが素晴らしい伴侶を得たこと、我が事のように誇らしいよ」
披露宴の最奥、最高級のVIPテーブルに腰を下ろしていた黒木宗一郎が、優雅にシャンパングラスを掲げて一真に声をかけた。黒木は表向き、一真の所属する会社の主要株主であり、若き天才エンジニアを温かく見守る「慈悲深いパトロン」としての仮面を被っていた。
「黒木会長……! お忙しい中、お越しいただき本当にありがとうございます」
一真は深々と頭を下げ、黒木の差し出す手を両手で強く握り返した。
自分が血の滲むような思いで書き上げている次世代AIインフラ特許の価値を真に理解し、巨額の研究資金を提供してくれる大恩人――一真の純粋な瞳には、黒木がそのように映っていた。
その一真のすぐ隣で、愛華は黒木の視線と一瞬だけ交差させた。
黒木の冷ややかな瞳が「完璧にこなせ」と命じ、愛華の妖艶な瞳が「お任せください」と応える。
新郎である一真のすぐ目の前で、妻と首謀者が交わした密かな合図に、純粋な天才エンジニアが気づく術など存在するはずもなかった。
こうして、地獄のような「仮面夫婦」の生活が幕を開けた。
新居として選ばれたのは、一真が開発の成功報酬とローンを組み合わせて手に入れた都心の高級マンションであった。
だが、一真が連日のようにオフィスや書斎に籠もり、技術開発の最終フェーズに向けて命を削るコード作成に没頭する一方で、その新居は愛華にとって「黒木との密会の巣窟」へと成り果てていた。
「一真さん、今夜も遅くなるのね……。お仕事、本当に大変でしょうけれど、無理はなさらないでね」
愛華は一真を送り出す際、健気な妻を演じて温かいお弁当やドリンクを手渡した。
しかし、一真が玄関のドアを閉め、エレベーターで降りて行ったわずか数分後――愛華は可憐な妻の仮面を即座に脱ぎ捨てた。
彼女はクローゼットから露骨で艶やかな高級ランジェリーを取り出し、身を包むと、手慣れた手つきで暗号化されたスマートフォンを操作した。
「……黒木様。一真が出かけましたわ。……今夜は、うちへいらっしゃいますか?」
数分後、プライベート地下駐車場から直接つながるエレベーターを通じて、黒木宗一郎が堂々と一真と愛華の愛の巣へと足を踏み入れてくる。
一真が妻のために買った高級ソファーの上で、黒木と愛華は平然と体を重ね、泥沼の蜜月を貪った。
「フフ……一真ったら、私が渡した特製のビタミン剤を『愛華の愛情だ』と言って、毎日嬉しそうに飲んでいますわ……」
ベッドの上で、愛華は黒木の逞しい胸にすがりつきながら、甘く不気味な声で囁いた。
「くく……哀れな男だ。己の命を縮める毒とも知らずにな」
黒木は満足げに低く笑い、愛華の滑らかな背中を撫で上げた。
一真の体調を不自然に思わせず、確実かつ徐々に蝕んでいくための「工作」――それこそが、愛華に与えられた最も冷酷な役割であった。
一真が毎日欠かさず口にしていたサプリメントや、愛華が夜食として差し入れるスープやハーブティー。その中には、黒木が裏社会の特殊なルートを通じて手に入れた、無味無臭の「微量毒素」と「重金属化合物」が巧妙に混ぜ込まれていた。
それは即効性の毒ではない。
血液検査でも一般的な病死や過労死の症状(急性心不全や内臓不全)として処理されるよう、数ヶ月から数年をかけてゆっくりと器官を破壊していく、極めて精密に計算された極毒であった。
「……うっ……最近、妙に体が重いな……。頭痛も引かない……」
書斎のデスクで、一真は頻繁にこめかみを押さえるようになっていた。
キーボードを叩く指先がかすかに震え、視界が急に暗転するような感覚に襲われる。
「一真さん……大丈夫!? やっぱり働きすぎよ……! ほら、私が淹れた温かいハーブティーを飲んで、少し休んで?」
「ああ……ありがとう、愛華。君がいてくれて、本当によかった……」
一真は自分の体を心配して涙ぐむ妻の姿に胸を打たれ、感謝の言葉を述べながら、その毒入りのハーブティーを飲み干した。
飲むたびに自分の細胞が破壊され、寿命が削り取られているとも知らずに。
愛華は苦しそうに呼吸を整える一真の背中を優しく擦りながら、心の中では冷ややかにカウントダウンを刻んでいた。
(……ええ、そうよ一真。もっと苦しみながら、私に感謝して死んでいきなさい。あなたが死んで、その特許が黒木様の手渡った時……私は数千億の富を手に入れて、本当の天国へ行くのだから……)
一真の純粋で誠実な愛を利用し、その命を一口ずつ食い千切っていく毒婦・愛華。
そして、その陰で巨大な網を広げ、天才の命と成果のすべてを掠め取ろうと冷酷に待ち構える暗黒のフィクサー・黒木宗一郎。
狂った愛と死の罠が張り巡らされたこの「仮面夫婦」の日常の中で、前世の俺(一真)は知らず知らずのうちに、暗く冷たい破滅の深淵へと引きずり込まれていっていたのだった。




