39 第2章:候補1・弁護士神条の失脚(法的手法の逆用)
第4節:弁護士会からの電話
港区の高級タワーマンション、その冷え切った空気が支配するリビングルーム。
フチなし眼鏡を曇らせ、血走った目を限界まで見開いたエリート弁護士・神条は、自分が作り上げた完全犯罪の要塞がデジタルデータの奔流によって一瞬にして瓦解していく現実の前に、立ち往生していた。
手元のスマートフォンが、けたたましい電子音を立てて絶え間なく震え続けている。
クラウド上に厳重に隠蔽し、誰にも破られるはずのなかった「偽造遺言状の全データ」「署名の合成ログ」「愛華との密約書」の数々が、今や日本弁護士連合会の内部ネットワーク、裁判所の意見箱、そして巨大なSNSのパブリックサーバーへと一斉に拡散され、法曹界の全域を揺るがす大スキャンダルへと発展していたのだ。
「そんな……バカな……! 私が何年かけて構築した法的防壁が、たった数分で……すべて一般に公開されただとう……!?」
神条は掠れた声を震わせ、自分の端末を凝視した。
画面に表示されているのは、弁護士会の緊急通知システムやクラウドストレージの管理者アラートだけではない。次から次へと表示されるのは、同僚の弁護士たちや法曹界の有力者からの冷酷なメッセージの数々だった。
『神条、お前、正気か!? 遺言状の捏造データがネットに流出しているぞ!』
『弁護士会が緊急の懲戒部会を招集した。お前はもう終わりだ……』
『警察のサイバー犯罪対策課が、すでに君の端末のIPアドレスを特定して動いているという噂だぞ……』
神条の脳裏から、かつてのエリートとしての誇りも、冷徹な知性も、すべてが泡のように消え去っていう。
彼が頼りとしていた「法律」という絶対的な武器が、今や他ならぬ自分自身を処刑するための鋭利なギロチンの刃となって、その喉元に突きつけられていた。
――ピリリリリリリリッ!!!
その時、ひときわ大きく、耳障りな電子音がリビングの静寂を切り裂いた。
神条の個人スマートフォンではなく、彼が所属する国内最大手の法律事務所の代表番号から直接かかってきた「緊急直通回線」の着信音だった。
「っ……!」
神条の全身の産毛が一斉に逆立った。
心臓が狂ったように跳ね上がり、冷たい汗が背中を伝って滝のように流れ落ちる。事務所の所長、あるいは懲戒委員会の代表からの緊急着信。それを無視すれば、いかなる理由であれ弁護士としての社会的生命は即座に断絶される。
神条は震える指でディスプレイをスワイプし、耳元へとスマートフォンを押し当てた。
「……もしもし、神条です……!」
その声は、かつてのスマートで気高いエリート弁護士の面影など微塵もない、怯えに満ちた聞き苦しいうめき声のようだった。
『――神条、君ね。今、どこにいる』
電話の向こうから聞こえてきたのは、彼が長年恐れ、敬ってきた事務所の代表パートナーである老弁護士の、氷のように冷え切った声だった。怒号すらない。ただ、一切の感情を排した、底知れぬ失望と殺意の篭もった低い声だった。
「せ、先生……! あれは、違います! あれはすべて何者かによる悪質なハッキングであり、デジタルデータの捏造工作なのです! 私がそんな愚かな真似をするはずが――」
『言い訳はいい』
代表の冷徹な一言が、神条の弁解を容赦なく遮断した。
『すでに弁護士会の緊急懲戒委員会、および当事務所のコンプライアンス監査チームが、君がクラウド上に保存していた当該データを詳細に解析した。遺言状のメタデータに刻まれた作成者ID、電子署名の合成履歴、そして君が個人名義で管理していた裏取引の記録……そのすべてが君の端末および君のアカウントから発信された動かぬ証拠であると、すでに法的な裏付けが取れている』
「そ、そんな……! 待ってください、先生! 私はまだ、法的な手続きの途中であって、その、裏には色々と事情が――」
『事情だと? 殺人事件の被疑者および遺産詐欺の主犯格として共謀していた疑いが持たれている弁護士に、これ以上の弁明の余地など残されていない』
電話の向こうで、冷たい紙がめくられる乾いた音が響いた。
『先ほど、弁護士法第65条および当事務所の規約に基づき、臨時理事会が全会一致で可決した。――神条、君の弁護士資格を、本日この時刻をもって即時「停止」とする。同時に、当事務所からの懲戒解雇、および警察への刑事告発の手続きが正式に開始された』
「なっ……!? 弁護士資格の……即時停止……だと……!?」
神条の足元から、文字通り床が抜け落ちたかのような衝撃が走った。
弁護士にとって、その資格の剥奪や停止は、社会的死を意味する。ましてや、自らが犯した偽造と恐喝の罪によって即座に資格を奪われ、犯罪者として警察に引き渡されるとなれば、彼の人生のすべては終わりを迎える。
「待ってください、先生! お願いだ、見捨てないでくれ! 私にはまだ、あのタワーマンションの資産と、保険金の……!」
『見苦しいぞ、神条。君の築き上げてきたキャリアは、その強欲さと浅はかな工作によって、たった今、自壊した。これ以上、事務所の名を汚すような真似はするな。……警察の捜査員がすでに君の現在地へと向かっている。おとなしくそこで待つことだな』
プツッ――と、冷酷な切断音が耳元に響いた。
「あ……あ……あ……っ!」
神条は力なくスマートフォンを取り落とした。
高級な端末が床のフローリングの上に無残に音を立てて転がり、そのままスルスルと滑っていく。
崩れ落ちるようにその場に膝をついた神条は、両手で自分の頭を抱え、文字通り泥水をすするような情けない声を上げて身悶えた。
「終わった……私の弁護士人生が……社会的地位が……すべてが……すべて、あの女と、あのデータのせいで……っ!」
先ほどまでの冷酷で傲慢な脅迫者の姿はどこにもない。
そこに残されていたのは、自らの犯した罪とデジタルの罠によって破滅へと叩き落とされた、一人の惨めな犯罪者崩れの男の姿だけだった。
ソファの傍らで、その光景を呆然と見上げていた愛華は、恐怖のあまり声を出すこともできず、ただガタガタと震えながら縮こまっていた。陣内が社会的失脚を味わったのに続き、あの頼みの綱であった「弁護士・神条」までもが、一瞬にして地獄の底へと転げ落ちていく。
――その様子を、ベビーベッドの特等席から冷徹に見下ろしていた俺(佐藤一真)は、小さな赤ん坊の胸の内で、静かに、そして圧倒的な愉悦に浸りながら勝利の笑みを浮かべていた。
(第一の男、弁護士・神条。完全失脚、完了だ)
お前が愛華を脅し、俺の遺産と生命保険金を掠め取るために使ったすべての法的知識と悪知恵は、そのままお前自身を永遠の社会的追放へと追い込むための最上のブーメランとなった。
警察の捜査員がこのタワーマンションに到着するまでのカウントダウンは、すでに始まっている。
リビングの静寂のなか、男の泣き叫ぶ声と、震える女の呼吸音だけが、虚しく響き渡り続けるのだった。




