花(その2)
ブルブルと、バイブレーションの音が鳴る。友美のスマートフォンが鳴っているらしく、小さなカバンからブランド物のカバーの着いたスマ―トフォンを取り出した。
「もしもし?」
友美が電話に出たタイミングで、暁人は観葉植物の向こうにあるカウンターに目がいった。ドリンクを受け取ろうとしている女子が、電話をしているのが見えた。
友美が、電話越しに席の場所を指示する。店内にいると分かったのか、友美はその場で立ちあがり、カウンターの方を振り向いた。
電話を耳に当てたまま、頭の上の方にまで上げて手を振る。それに答えるように、カウンターにいた女子が手を小さく振り返した。
「花菜こっち」
友美が花菜を呼ぶ。恥ずかしそうに、花菜はこちらに近づいてきた。
花柄の白いガウチョパンツの裾から、綺麗なくるぶしが覗いていた。白いスニーカーが、店内の木目の床にコツコツと鳴る。二の腕の見えたトップスから伸びる細く白い両手には、オレンジジュースと黒い日傘が握られていた。
「遅れてごめん」
懐かしく優しい声が響いた。思わず、暁人はじっと彼女を見つめてしまう。
その視線に気づいた花菜は、暁人を見てニコリと微笑んだ。クリっとした双眸が、細くなり長いまつ毛に隠れる。目尻には、わずかに皺が寄った。
少し大人びてはいるものの何も彼女はなんら変わっていない。清楚な雰囲気を纏った黒い髪が、彼女の肩ほどにまで伸びていた。艷やかな唇が、わずかに動く。
暁人は、自分の頬が赤くなっていることに気づく。それを隠す余裕など、暁人にはなく、あたふたと取り繕うように頬をかいた。
「大丈夫?」
友美が、心配そうな素振りで花菜に訪ねた。花菜は、友美と目を合わせて一度小さく頷くと、日傘の柄をテーブルに引っ掛けて、友美の横に座った。
トップスが、キュと締める脇に少し肉が寄り色っぽい。ゴクリと、思わず暁人は固唾を呑んだ。ただ、以前から細身なイメージだったが、無駄な肉がまったくないほど、花菜はほっそりとしていた。
「久しぶりだね」
じっとこちらを見つめる瞳に、暁人は大きく頷く。ぽっかりと、自分の口が開いていることに気づいて、暁人は慌てて口を閉じた。
「山中くん? じゃないか‥‥なんて呼んでたのかな?」
小さな顔が、コクリと横に傾く。サラサラとした髪が、それに合わせて流れた。
「なんだっただろう? 覚えてないよ」
「なんでもいいでしょ。私は、昔から山中だけど」
溶けたシャーベットを吸い上げながら、友美は花菜の方を見る。
んー、と唇をツンと尖らせながら花菜は少し考えた。
「じゃ、暁人くんでいいかな?」
下の名前で呼ばれて、暁人はドキリとした。たぶんはじめて呼ばれたな、と思いつつ平静を装う。
「なんでも、いいよ」
ストローをすすると、ほんのりとオレンジの苦味を帯びた水が口に入ってきた。
「あざといねぇ」
友美が口端を上げる。それに怒ったのか、花菜は肘でコツンと友美の脇を突いた。
「分かってますよ。なーちゃんがそういうことをしないことくらい」
冗談を含ませた笑みが、花菜を見つめる。暁人の視線に気づき、友美はゴホっと咳払いをした。ごめん、ごめん、いつものノリだから。花菜の汚名をすすぐように、友美は慌てて言い訳をした。
「それで、同窓会だろ?」
友美の表情を見ていない素振りで、暁人は話題を戻す。花菜のまん丸とした目が、パチリと動いた。
「うん。同窓会」
花菜は、姿勢を正し、ふっと息を吸い上げる。彼女の小さな胸がスッと膨れた。息を吐き出すと、緩やかなに萎んでいった。
「大原が開きたいって言ったんだって?」
うん。花菜が頷く。
「みんなが大学に入ったり、就職したりする前にね。もう一度集まりたいの。もちろん、暁人くんも」
花菜の目が、アーモンド状に細くなる。暁人は、その瞳の奥に吸い込まれそうになった。
「でも、俺なんかが行ってもさ、」
「できるだけ、みんなに集まってほしいの」
友美が割って入る。前のめりで机に乗り出した友美を、花菜が横目で静止した。
「友美‥‥ありがとう。でも、無理になんて言えないよ」
真っ直ぐに暁人を見つめたまま。期待を孕んだ花菜の目は、どこか懇願しているようにも思えた。
「みんな忙しいって言ってたじゃん。来れないやつもいるんだろ?」
友美が、やぶさかに首を立てに振る。
「何人集まるか。正直わかんない。クラスの半分くらいが、来てくれればいい方かもしれない。それでも、」
友美がテーブルを手で軽く叩く。花菜の静止を振り切るように、暁人の方に顔をグッと近づけた。
「どうしても開きたいの。できるだけ早く。お願い」
友美は頭を下げる。耳に掛かった髪が、垂れ下がり机の上を撫でた。一瞬だけ、暁人は友美の瞳に光るものを見た気がした。
「そう言われても」
暁人は、うろたえ気味に腰を引く。友美の頭は、一向に上がらない。
「春樹くん?」
花菜がその名前を出した瞬間、暁人は思わずピクリと肩を揺らした。こちらをじっと見つめたまま、花菜の瞳は確信めいた色をしている。
友美が頭をあげて、花菜の方を見た。一瞬、友美と視線を合わせて、花菜はまた暁人へと視線を戻した。
「そうだよね。行きたくないよね」
花菜の声は震えていた。揺れる瞳には、薄い膜が張られている。きっと、全部知っているんだ。暁人は、直感的にそう思った。
春樹がやった確証はなかった。ただ、あの時の彼の反応から、暁人自身がそう感じただけだ。それでも、その当時の自分の感覚が、当たっていたことを目の前の花菜が証明している。
「行きたくワケじゃないよ」
暁人は、思った言葉を口にした。
花菜の表情が少しだけ、明るんだ気がした。
「でも、春樹には会いたくないんでしょ?」
友美の視線が逸れる。その表情を花菜が悲しげに見つめていた。
「うん。会いたくないけど、」
暁人は、脳内で言葉を拾い集める。
「自分でも不思議なんだけど、春樹に対して別に怒ってるわけじゃないんだ。ただ、会うのが‥‥怖いのかも」
妙に自己分析の出来ている自分がいることに、暁人は驚いた。日常的に春樹から嫌がらせを受けていたなら、そうは思わなかったかもしれない。あまりに突発的だったあの日の出来事に、恐怖としか伝えられる言葉が見つからなかった。
「怖いか‥‥」
言葉をうまく飲み込んだ友美は、少しうつむきながら呟いた。乱れた髪を耳にかけると、銀のイヤリングが光る。
「会ってもどう接していいか分からないし。今、あいつがどう思ってるのかも分からない‥‥」
「二人は仲良かったよね?」
花菜の眉に掛かった前髪が、小さく揺れた。ほんの少し傾いた首元に一本の筋が伸びる。
「小学校の頃は、春樹とジュンと三人でよく遊んでた。中学に入って、クラスが別になって、春樹がバスケ部に入ったりして、それからはだんだん遊ばなくなって行ったけど」
思い出す春樹は、いつだって笑っていた。ギクシャクしだした中学時代の彼を思い浮かべるのが難しい。ただ、暁人の脳裏にはあの日の春樹の表情と言葉がこびりついている。
「あんた達、三人がよくツルんでたのを覚えてるわ。小学校の頃は、生徒も全然少なかったしね」
友美が懐かしそうに目を細めた。
「中学になって、少し根暗だった俺らと、距離を置くようになったから。アイツは、モテたかった、というか。違うグループに行きたかったんだと思う。イケてるグループってあったじゃん。そういうのに憧れたんだと思う。それで部活も運動部に入って、髪型も変えて。俺らと合うような趣味もなくなっちゃったし」
暁人は、春樹の当時の行動が決して悪いことのようには感じられなかった。当時は、どうしてなのか、という思いももちろんあったが、中学生デビューを果たしたい春樹の気持ちも分からなくもなかった。
「ジュンも変わってたしな」
何気なく言った暁人の言葉を、友美が否定する。
「ジュンは、服装や見た目は変わったけど、中身は変わってないよ。未だに、デートでゲームショップに寄られることあるし」
「最悪だなアイツ」
「山中でも分かんじゃん! なんでアイツわかんないかな」
ノロケを見せられ、暁人も口端が緩む。変わっていないジュンの話を聞いてなんとなく暁人は安心した。
「話せば、昔に戻れそう?」
花菜の瞳がゆらりと揺れる。その奥に、どことなく切なさが鎮座している。
簡単に出来るなんて言えない。むしろ、限りなく出来ないに近いような気がする。
暁人は、あまりに綺麗な花菜の瞳から視線を反らした。淀んだオレンジが、カップの中で沈殿していた。
「分からない。分からないけど」
頑張る、それに近い言葉を自分の中に探す。口に出して約束できるほど自身はない。今、自分がこうしてここにいるだけで、本当はすごく驚いている。
「そうだよね。ごめんね」
花菜は、オレンジジュースを口に含んだ。透明なストローの中を、橙色の液体が駆け上がっていく。
ストローを離した柔らかな唇に、暁人は魅せられる。艷やかさを纏った透明な赤が、色っぽく濡れていた。
「次は、ちゃんと日程を決めてから。もう一度、暁人くんに聞くね。それでダメなら諦める」
自分の決意を確認するように、花菜は深く頷いた。
「ごめん。俺の為に時間取らせて」
「ううん。大丈夫、私が好きでやってることだから」
首を横に振る花菜の表情が少しだけ曇る。わずかに上がっていた口角を、暁人は意味深に感じた。
「そうだね。日程を決めないと」
神妙な面持ちで、友美は花菜に同意する。
すぐに、なにかを思い出したように顔が華やいだ。そういえば、と花菜の方に顔を向けた。
「なーちゃん、明後日の花火大会行かないの?」
「一人で行ったって仕方ないじゃん」
ムスッと、薄い皮がピンと張ったように、花菜の頬が膨らんだ。
「一緒にいこうよ」
「ジュンくんはどうするの?」
「ジュンも一緒に行けばいいじゃん。それに、なーちゃん浴衣着たいでしょ」
「そりゃ、まぁ‥‥ うん」
花菜の表情が、帳を下ろしたように暗くなる。小さく縦に揺れた花菜の瞳に、寂しさのようなものが滲んでいる。
その空気を察っして、友美はパンっと手を軽く鳴らした。声色がわざとらしく明るくなる。
「それなら、みんなで一緒に行こうよ。山中も来るでしょ?」
「俺も?」
「ジュンも来るんだからいいでしょ? 私達とお祭り行くの嫌なわけ?」
嫌なわけはないが、誘われたことが驚きだった。脅迫めいた友美の押しに、暁人は黙って頷く。
「よし。それじゃ明後日、みんなで花火大会ね!」
「時間は、どうするんだ?」
「そっか。まぁ、また連絡するね。なーちゃんは、予定があるなら合わせるけど、どう?」
「ううん。大丈夫だよ」
友美は嬉しそうに机に置いたスマートフォンを手に取る。ジュンに連絡を入れているのかもしれない。そんなことを思いながら、暁人は花菜の方に視線をやる。
瞼を閉じたまま、胸に手を添えていた。まるでお祈りをするように、小さな胸をなでおろす。ほんの少し釣り上がった唇の隙間から、そよ風のような息が漏れ出る。
開かれた目には、薄っすらと涙が浮かんでいた。
天女。そんな雰囲気を帯びた花菜に、暁人は思わず見入ってしまう。
暁人の視線に気づき、花菜は慌てる様子もなくその目を反らした。細く流された目尻が、色っぽく端麗に暁人の心を犯していく。
隠す素振りなど一切せず、花菜の瞳から一滴の雫がこぼれた。目尻から流れた水滴が、なめらかな頬を伝い、細い顎のラインにかかり落ちる。
ぱっ、と涙は机の木目にぶつかり砕けた。
何かが弾け飛んだ。放射状に広がった波紋は、暁人の中の柔いものをくすぶる。
ガランと、椅子が引かれた。立ち上がった花菜を、暁人が見上げる。
「今日は、ありがとうね。また、花火大会で会おうね」
明るさに満ちた瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめる。
隣も友美も立ち上がると、空になったドリンクを手に取る。
「山中は帰んないの?」
「帰るよ」
暁人は立ち上がると、自分と花菜の分のドリンクを手に取った。
「ありがとう」
ニッコリと笑った花菜に、照れながら暁人は小さく頷いた。