今さら出てきて
机の上に置いたスマートフォンがブルブルと振動した。パソコンに表示されたゲーム画面を閉じ、暁人は明るくなったスマートフォンを覗く。
緑色の通知欄に『新規友達追加』と表示されていた。
通知をタッチすると、昼間ジュンに入れられたアプリが立ち上がる。
『牧野友美』
そう表示されたアイコンは、ジュンの物と同じだった。
暁人は、友達追加のボタンをタッチする。すると、一人しかいなかった友人の欄に、同じアイコンの人物がもうひとり加わった。
その画面を見つめながら不思議な気持ちになった。こんな風に、誰かと繋がれるなんて想像でなかった。薄くらい部屋で、ずっと過ごしていくんだろう、と思っていた。
パソコンの画面の灯りだけが照らしていた暗い部屋に、今はオレンジの小さなLDEが灯っている。
わずかに開いたカーテンの隙間からは大きな月が見えていた。
この一握の中に懐かしい何かがある気がする。じっと、二人の友だちを眺めながら「また遊ぼう」とジュンの言った言葉を胸の中で繰り返す。
ジュンが、本当にそう思っていなかったとしてもいい。嘘であったとしても、暁人の心は確かに救われた。
手の中のスマートフォンが振動する。バイブレーションの音は、暁人の肌に殺された。
新着のメッセージが表示される。
『友美に教えたから。追加よろしくな』
ジュンからの簡素なメッセージに、暁人はすぐに返信する。
『うん。追加したよ』
何気ない暁人の返信に、すぐに既読がついた。間髪を入れずに、柄でもない可愛らしいウサギのスタンプが返ってきた。
このスタンプには、返事をすべきなのだろうか? アプリでのコミュニケーションを知らない暁人は困った。どうするべきか迷っていると、部屋のドアがコンコンと鳴った。
思わず、手に持ったスマートフォンを滑らしそうになる。無理に掴んだ衝撃で、アプリの画面が閉じられた。
ドアの向こうで、ガチャガチャと音が聞こえる。暁人は、それがなんのかすぐに分かった。ヘッドホンをしていたせいで、最近は全く気にもしていなかった音だ。気がつけば置かれていて、もう合図なんか出していないと思っていた。
暁人は、スマートフォンをポケットしまう。椅子から立ちがり、ドアを開けようと決意した。
床に散らばっていたペットボトルは、昼間のうちに片付けた。だから、足の踏み場には困らない。
真っ直ぐにドアの前まで行き、一度大きく息を吐く。ドアの向こうにまだ人の気配を感じた。
ドアノブに手をかける。ひんやりとした感触が右手を伝った。重たく感じるレバーを引いて、ドアを開く。
廊下の灯りがまばゆく部屋に差し込む。伏せた視界に、食膳の上に置かれた夕飯が湯気を立てていた。
その食膳の奥に、赤いスリッパが見える。母の足だ、と思いながら暁人は視線をゆっくりと上げた。
「暁人?」
突然、部屋から出てきた息子を見て、母は目を丸くしている。驚きのあまり、床にスリッパを擦らしながら一歩後退した。
「どうしたの?」
何度も目を泳がせながら、母は言葉を絞り出した。全く状況が把握できていない様子で、じっとこちらを見つめている。
「このあいだ階段から落ちて、それで、」
自分でも、どうして部屋から出たのか分からない。なんと声を掛けるべきなのか。ただ、ジュンと友美が助けてくれて、二人と話すことで少しだけ心が楽になった。そのことの成り行きを、母に説明しなければいけないような気がした。
「まだ、どこか痛むの?」
言葉を遮るように、母は暁人の肩を勢いよく掴んだ。
わずかに体を揺らされ、背中が少し痛む。それでも、暁人は表情には出さなかった。
「体は大丈夫だよ」
「お医者さんは、大丈夫だって言ってたのに、まだ痛むのかと思った」
母の目から大きな雫がこぼれ落ちる。安心した様子で、母は息を吐いた。こんな自分を未だに心配してくれていたんだ、と暁人の手に力がこもる。
「ごめん、心配かけて」
そんなことしか言えなかった。
きっと、まだこれからも心配をかけ続ける。そんなことを思うと胸が痛む。今の自分をメチャクチャに引き裂いてしまいたいほど、どうしようもない現状が腹立たしく悲しい。
暁人は、ドアノブに手をかけた。扉を閉じて、遮ってしまえば、楽になれるそんな風に思った。
冷たいドアノブが、暁人の動きを鈍らせる。力を込めた手で、じりじりと鉄の球体は熱を持ち出した。
「ジュンちゃんにね、病院で謝られたの」
「え?」
まるで、秘密ごとを話す子どものような目をしながら、母は言う。握りしめたドアノブから、暁人の手が離れた。
「どうして? って聞いても、理由は教えてくれなかったわ。責任を、感じているのかもしれないね」
うつむきがちになった母は、驚くほどに小さかった。嗚咽まじりの言葉を詰まらせながら、顔を上げて、真っ赤な目で暁人の顔をじっと見つめた。
大きくなったのは、ジュンだけじゃないことを暁人は知る。その小さな母に、どれだけの心配をかけ続けたのか、罪悪感が信じられないほどこみ上げてきた。
震える母の肩に、手をかけてやることも出来ない。
もどかしさを噛み殺すように、暁人は奥歯をグッと噛みしめた。
「なにしてんだよ」
隣の部屋のドアが開いた。暁人が声のする方に視線をやると、賢人が鬼の様相でこちらに向かって来ていた。
「この後に及んで、なんで母ちゃんを泣かせてるんだよ」
大きな手が、暁人の胸ぐらを掴み上げる。力づくに引き寄せられた弾みで、暁人の足が床の食膳にぶつかった。大きな音を立てて、食膳の中の料理が引っくり返る。
「賢人なにやってるの?」
奇声のような声を母が上げた。聞く耳を持たない賢人は、暁人をグッと引き寄せる。
「今さら出てきてなんだよ? あんたは、この家でいないことになってんだよ」
大人びた弟の顔は、暁人よりわずかに高い位置にある。怒りがあらわになった瞳に、恐怖で顔を引きつらせた自分が映り込んでいる。
「なぁ? なんか言えよ。なんとか言えよ兄貴!」
賢人の右手がグッと握り込まれる。黙りこくる暁人に見かねてた賢人の目の奥で、何かがプツりと切れた。
無言のまま、右手がスッと振り上げられる。
殴られる。そう思った瞬間、暁人は目を瞑った。
「やめて」
甲高い母の声が、廊下に響く。暁人を掴んでいた手が、スッと離された。
暁人は、ゆっくりと目を開ける。目の前には、振り上げられた賢人の右手を、母が必死に掴んでいた。
「やめて、賢人。お願いだから。お願いだから」
首を何度も振りながら、母は賢人の胸の中でそう言った。
母に押さえられた賢人は、冷静さを取り戻したのか、その場で力なく肩を落とした。
「ごめん‥‥ ごめん‥‥」
暁人は、そう繰り返しながら部屋の中へと逃げ込む。ドアが、バン、と大袈裟に閉まった。
その場に暁人は、座り込む。ドアにもたれかかりながら、賢人に掴まれた胸のあたりに手を添えた。ヒリヒリとした痛みをシャツ越しに感じる。熱を持った肌が、悲鳴を上げるように赤く腫れていた。
ドア越しからは、賢人と母の会話が聞こえてきた。
「お願い賢人、暁人もう少しで出てきてくれそうなの」
「もう兄貴はいいじゃねぇかよ」
「でも」
「母ちゃんだろ? 食器とか兄貴の使ってたモノを、別の場所にしまうようにしたの。兄貴の存在をなかったことにしようとしてたのは、母ちゃんじゃねぇかよ」
母の泣く声が廊下から聞こえてくる。賢人は、何も言うことなく階段を降りて行った。ドンドン、としっかりとした音が遠ざかっていく。
丸めた膝を肘で寄せる。暁人は三角座りをしたまま、その声をしばらく聞いていた。
やがて、ドアのすぐ向こうで、ガチャガチャと食器の音が聞こえだした。母が、こぼれた料理を掃除しだしたらしい。
暁人は、グッと足の指を曲げた。ポキポキと乾いた音を立て靴下に皺が寄る。窓の外から伸びる月灯りの黄色い光が、靴下の皺をはっきりと見せた。
分かっている。こんな状況になったのは、全部自分でせいだって。どうしようもない思いを抱えながら、暁人はスクっと立ちがり、ベッドの中へと潜りこむ。
薄いタオルケットを頭から被り、身をかがめた。こみ上げてくるものを堪えきれず、小さくした体が震える。
濡れた頬を枕にこすりつけ、外にいる母にはバレないように声を殺した。
しばらくして母が階段を降りていく音が聞こえた。もう堪えなくてよくなった声が、暁人の喉を震わせた。甲高い嗚咽が、静かな部屋に響く。
それと同時に、ブルブルと腿のあたりに振動を感じた。ポケットに入れていたスマートフォンが震えている。身からタオルケットを剥がしながら、暁人は起き上がった。潤んだ瞳をこすりながら、画面に表示された『友美』と書かれた一件の通知をタッチした。




