誰そ彼のワルツ
「暇すぎる。許せねぇな。心理的安全性が担保された冒険に出よう」
「うーん。小人閑居して不善をなす」
そうして我々は冒険に出たのであった。
*
親の書架にあった「SLAM DUNK」の影響で中学からバスケットボール部に入部したのは良いものの、集団スポーツに向かぬ陰険たる性根と生来の運動能力欠如により、三年もの間辛酸をぺろぺろした我が身である。
高校では是非もなく帰宅部を選択し、運動部女子特有の超攻撃的人間関係も解消され死ぬまでハッピー! かと思いきや、そうは問屋が下さない。
高校でバスケを続けている学生を見れば「私は逃げた側だ」と謎の卑屈を起こす。上手な選手を見れば発作的に、胸を掻きむしるようになってしまった。
なにより、暇すぎて退屈なのだ。
我らの高校は平均よりちょっと下の、東大に受かるより我が高校入試で落ちる方がはるかに難しと謳われる「みんなおいでよバカだ高校」であるため、特別授業なんざない。16時に全ての授業が終わる。小学生と下校時刻を共にするのだ。
集団下校する小学生ズに圧倒されつつ、「我が花の女子高生ライフはこれで良いのだろうか?」と空虚な問答を強いられる気持ちを想像して欲しい。
勉強してろと宣う輩は一度高校へ入学し直し文系クラスに入れ。文系で人心を学べ。
バイトしてろ? 卒業後は死ぬまで労働だ、在学中から労働など御免である。私はモラトリアムを存分に謳歌したい。働きたくないでござる!
朋友たるスマヒョは使い過ぎて親から使用制限がかけられた。さながら四肢をもがれた天使である。
「よかったですね。その天使、翼残ってますよ。汚ねぇサモトラケのニケだ」
呑気に宣う我が学友。お互い入学前のSNS交換スタートダッシュを決めそこね、数センチほどクラスで浮いていたところを互いに認知、固い握手を交わした。
私の悪ノリにどこまでもついてくる調子乗りであり、彼女の名前から「君は未来人だな?」と問えば「馬鹿をおっしゃい。ところで今日は和暦何年の何月何日ですか?」とラリーを返す。
我らはいつもの帰宅経路とは反対の道に歩を進めた。見知らぬ小径を見ればちょっとのぞいて踵を返し、未知の場所に出ればそそくさと元来た道へ戻る。
「毎度冒険に誘われるたび思うのですが、この町内散策のどこが冒険ですか。険しを冒すところが全くない」
「本当に冒険に出てどうする。とうにフロンティアは失われたのだよ」
「……コンキスタドールは御免なので、かまいやしませんが」
傾きかけの看板をレトロだなんだと撮影し、シャッター街を凱旋する。バブルの遺産たる二階建てのビル群も、流石に息切れ気味だった。老朽化のため閉店、建物の倒壊恐れありキケン! の張り紙が視界の端をうろちょろり。もちろん近づかない。怖いもの。
「何やら聞こえませんか?」
学友が耳に手を添える。私もそれに倣うと、どこからともなくピアノの音が聞こえた。小人が囁くような微かな旋律しか聞こえないため、曲を類推できない。よほど遠くから聞こえているらしかった。
私と学友は目配せした。
冒険の目標が決まったのだ。
「いざ行かん、ピアノが鳴る方へ!
軒先で音楽のお裾分けをもらって、今日の冒険は完了である!」
「ピアノ練習しているお宅を見つけて冷やかすだけでしょう? 嫌な趣味ですねぇ。お供しますよ」
そば耳立てて、音の方角へ。旧市街地を抜け、国道に沿いとことこり。
もちろんヘンテコで妙ちくりんな置き物があれば、記念撮影も忘れずに。置き物たぬきのふぐりの愛嬌に敗北を喫する。陸橋の下をくぐり、国道に別れを告げた。
「よくもまぁ旧市街地の方まで音が響いていましたね。同じ箇所で間違えますし。ご近所迷惑甚だしい」
「冒険に彩りができたからいいじゃないの」
「……このピアノ、なんの曲か分かりました?」
「私は中学音楽成績1の猛者だぞ。さっぱりわからない」
「当てたら奢りますよ」
「カールを頼む」
ピアノを追ってついに住宅街へ。入口にはかつて隆盛を誇ったセントラルプール跡地が。親の課金欲を煽った広告の子供の笑みには亀裂が走り、空っぽになったプールは黒いゴミ溜まりができている。あまりの荒廃っぷりに思わず合掌。
太陽はすっかり傾き、昼と夜が交錯する誰そ彼逢魔時。随分遠くまで来たものだ。
たぬきのふぐりの愛嬌に勝てず、管を巻いていた学友が黙りこくっていることに気づく。
どうした我が友よ。
「ここのセントラルプールって、改修されて別施設になってませんでしたか?」
いつも無礼な顔をしている学友の、かくも険しき表情におののき思わず空笑い。
「そんな、思い違いじゃあ、」
ないかい、と言いかけたところで眼前の景色が豹変していた。セントラルプール跡地は消え去り、1階建ての古本屋兼ホビー店に変わっていた。掲げられたクジラマークが白々しい。
嘘を看破され、無理に取り繕ったような変わり身である。
「は?」
そう言いつつ学友を見やると、彼女は背後に首を巡らせ息を呑んでいた。つられて見やると、背後のライオンズマンションが二階建てのモデルルームへと姿を変えている。
「は?」
周囲の光景も跡形なく変化していた。
誰が停めているかわからない月極駐車場は雑草生い茂る平たい売地に、寂れた整体屋はお隣さんと見た目そっくりなクローン戸建に。
傾斜の激しい土地に建ったマンション群が、平地の閑静な住宅街へ姿を変えていた。
そして、先ほどよりも近しい場所から例のピアノが聞こえていた。
「はぁ?」
一歩引いたところで観察していた内なる私が、「なんと凡庸な驚き方であろうか」と静かに失望していた。
*
私と学友は驚きと混乱の坩堝に陥り激しく騒ぎ立てていたが、怜悧な頭脳を持つ私は気がついた。
「友よ、ひとっ子ひとり見当たらんのは、いくら田舎でも、おかしくないかい?」
「……確かに、徘徊老人も全身ブランド野郎もいないのは、妙ですねぇ」
学友があごに手を当て所感を述べる。その仕草が妙に様になっていた。
「人肌が恋しい。ホビー古本店に入らないか」
「前面的に賛成です」
我々は自動ドア前に立つもドアが開かぬ。入口に刻まれたる文字は「年中無休・営業時間10:00〜25:00」。もれなく営業時間中である。
店内も灯りが煌々とし、姿をはっきり視認できないがお客の姿も窺える。
学友は止めたが、私は破廉恥学生故自動ドアへ手をかけた。
「自動ドアのなんと固きこと。あまのいわとを思わせるぜ」
「私たちはアメノタヂカラオノカミではありません。入店は諦めた方がいいですね。ほら、看板をご覧なさい」
友が指すホビー古本屋の看板には笹谷支店と書かれていた。笹谷には市内を我が物顔で疾走する飯坂電車が近くにある。飯坂電車にさえ乗れれば帰還できるのだ。
返ってきた現実感に私は安堵し、同時に萎えた気持ちになった。
「なーんだ、無事帰れてしまうではないか」
「さようですか、私は帰りますさようなら」
「いやん待って寂しいじゃないのサ」
我々はホビー屋を辞した。ピアノの音が私たちの背後をついてくる。
ふと思い立ち、スマヒョを取り出し電源をつける。が、バッテリー切れを起こしたらしく画面は黒々として、私のニキビ顔を映すばかりである。
今度こそ私はがっくりしてしまう。
「最悪のタイミングで電池切れた!
クソッ、SNSで『驚異! 現代の不可思議に遭った女子高生!』ってリアルタイムポストで大バズり、インフルエンサーの仲間入りをはたして巨乳の可愛いメスにちやりほやりされたかった!」
学友の反応がない。脇を歩く奴の方を見れば、スマヒョを注視した状態で固まっている。
「どうした我が友よ」
「……念の為マップを確認しようとしたら、バッテリーが切れました」
「それはまた、嫌なタイミングで……」
「学校を出た時、充電は90%以上あったんですよ? 最新機種なんです、先月買ったばかりで、」
友人の会話を遮るようにピアノの旋律が乱れた。直後、足音がした。怒りのまま踏みしだいたような、強烈な音だった。
気のせいだろうか、足音が我々の方へ迫っているかのように感ぜられた。
私と学友の視線が交差する。
次の瞬間にはふたりで競歩の如く歩き始めた。
「安心したまえ! ここは四方を山に囲われたクソ田舎、私は幼少のみぎりより山の形と名前を叩き込まれている!
山さえ見えれば方角が分かる! 帰れる、帰れるのだ!」
「ここがクソ田舎でよかったと、今日ほど思ったことはありませんね!」
我々は普段ひた隠している健脚を披露するも、似たような家々の風景が続くばかりで飯坂電車の踏切の音すら聞こえない。
しまいには疲れ果て、道路の片隅に座り込む。スカートがはだけようがお構いなしだ。学友が持っていたペットボトルのお茶を分け合い、ほぅと一息。
例の足音は止んでいたが、ピアノは鳴り止むことがない。
「私からも、元気が出る知恵を開陳して差し上げましょう。ま、親戚からの受け売りですが」
「頼むよ。我々に今不足しているのは水分と、希望だ」
私が空のペットボトルを振ると、同意するように学友がまばたきした。
「日本では年にだいたい10万人が行方不明になっているそうです。その過半が数日のうちに発見されて、残りはほぼ年内中に発見されるんだそうです。見つからないなんて、ほんの数パーセントに過ぎない。
良かったですね。確率上、我々は誰かに見つけてもらえそうですよ」
「これだから数学的な話は信用ならん」
ピアノの音がしとどに降ってくる。そろそろ間違えるフレーズの頃だ。私は立ち上がり、スカートについた砂を払う。
「確率は当てにしてないが、君は当てにしているよ。我が親友」
私が立ち上がるよう学友に手を差し伸べる。学友は私の手を取らず、擦り切れた笑みを浮かべた。
「見つからない数%、その数少ない人々こそ驚異に魅入られし稀人と云えるのでしょうね」
「……どうした、疲れたのか?」
「さ、答え合わせの時間です。この曲はなんでしょう?」
学友が天を指す。雰囲気の異なる友に気圧されながらも、私は努めておどけてみせる。
「今はどうでも……」
「何の曲?」
学友の強い言葉に息を呑む。
頭がいつもより一回転回るのが遅い気がする。何故だか気ばかり急いて手汗がにじむ。
眼前の人物は誰だ?
「……どうぶつのお医者さんだか、そんな感じのタイトルじゃなかったか?」
「残念」
見開かれた学友の目は黒々として、私さえも映していなかった。
「あなたは間違えた」
仕損じられるピアノ。より近くから聞こえる怒気をはらんだ足音。
私は咄嗟に目を閉じ耳を塞いでしまう。
ほんの少しの出来事だったと思う。足音の気配が去り、目を開けば座した学友が姿を消していた。
周囲を見渡す。
広がるは夕日によって赫々と染まった見慣れぬ家々、血溜まりを連想させるアスファルトの道路ばかり。
学友がいない。
私の脳裏に閃く幼少期の原風景。
かくれんぼだ、その時も夕暮れだった、幼稚園の友達数名と、私は鬼だ、60秒きっちり数え切ったのち、振り返った、誰1人としていない、茫漠とした、空白だ、閑散とし、すうっと興奮が冷めていく、空々とした、孤独感、誰もいない、ただ、ひとりぽっち!
しとどに降り注ぐピアノの音に、私の絶叫はかき消された。
アスファルトに爪を立て、爪が傷つこうとも、爪と肉の間隙から血が流れようと、私は叫ぶ。
かくれんぼとは、追体験だ。孤独の追体験、異国にひとり降り立った時、流刑の忌むべき記憶、こことは違う世界へ降り立った者の視座、今の私だ!
やおらにピアノから放たれる不協和音。指先がタタラを踏んだ音。
総毛立つ。
先ほどよりも克明に、落雷にも似た足音が私の元へ迫り来る。
私は学友の名を叫びながら駆け出していた。泳ぐように家々が私の脇を通り過ぎていく。
私は探す。学友の痕跡を。学友のしゃんとした後ろ姿を。後毛のない、整えられた学友の茶色い髪を。学友がまれに見せる、爽やかな笑い声を。
見つからない、聞こえない!
学友がいない!
足音が私を追い立てる。「怖い」という二文字が頭をぐるぐると巡り、他の思索を許さない。
当てどなく走った道の最果てT字路のどんつきにある家へたどり着いた。ピアノはその家から漏れ聞こえていた。私は導かれるようにその家へと歩を進めた。入らざるを得なかったのだ。
その家は、私の生家だった。
我が家は息が詰まりそうなまでに徹底した庭の手入れをしていない。我が家では洗濯物を外へ干さない。我が家は笹谷にない。我が家に楽器の類はなく、ピアノの音が聞こえるはずがない。
私はすでに正気を失っていた。
あらゆる違和感を握りつぶし、藁に縋る思いで玄関の扉を開く。
「きーくん! お父さん、お母さん!」
玄関からまっすぐ廊下が伸び、奥にリビングが見える。廊下右手に階段、その階段降りてすぐの左手は障子の部屋。
間取りが生家と異なっていた。
私はローファーを脱ぎ捨てる。
部屋の形は違えど、リビングから私が愛用しているクッションが見えたのだ。
「友達が迷子になっちゃった」
ストッキングから伝わる、生家と異なる廊下の触感。気付かぬふりしてホワイトオークがプリントされた長い廊下を歩く。
「不安で泣いてるかもしれない。お願い、友達を助けて!」
階段の前を過ぎ去ろうとしたその時、大きな音を立てて障子が開かれる。
ピアノと、奏者に邂逅した。
重い物を置くにはふさわしくない畳の間。小学生にも上がっていないような女の子が、ピアノの前に座していた。女の子は質素な白ワンピースを身につけ、一本おさげが首輪の如く垂れている。
その年頃の子供にそぐわない緊張感と恐怖を滲ませて女の子は奏でる。
そんなに体をこわばらせては、出る音も出なくなるというのに。
彼女は震える指先でピアノを奏で始めた。
全て予定調和。約束された結末。例の場所に辿り着き、そして例の過ちを繰り返した。
ダンッ、ダンッ、ダンッ、ダンッ!
足音が降ってくる。2階から降りてくる。この家の支配者がやってくる。
ダンッ、ダンッ、ダンッ、ダンッ、ダンッ!
もう逃げられない。
私は本能的な部分で理解する。
この足音に追いつかれたら最期、言葉にするもおぞましい目に合うだろう。
血が引いていく。指先が冷える。目の前が真っ暗になりそうなほどの恐怖が胸を占めた。
ダンッダンッダンッダンッ!
それ以上に、私は怒りに燃えていた。
私は畳の部屋に入り、首切り役人を待つ罪人のようにうなだれた女の子のわきに立つ。
ダンッッ!
足音が1階へ降り立つと同時に、私は怒鳴った。
「ピアノが弾けないくらいなんだ!
どけ、見ていろ、音楽1を叩き出した私の本領を発揮してやる!」
女の子の反応を見ずに私は勝手に白黒の板を叩き始める。どこを押せばどんな音が出るかなど知らん。ドもレもミも、全部同じ音に聞こえる。
「私の方が圧倒的に下手だ、ところがどっこい生きている!」
ピアノの不得手が原因で自尊心が削られている女の子を通し、私はバスケがド下手くそだった過去の自分自身を見ていた。
ドリブルが下手、パスも取れない、ましてやシュートも決められない。
体育館倉庫でひとり、膝を抱えて泣いていた自分とピアノの女の子がリンクする。
私は鍵盤に両手を振り下ろす。
怒鳴り過ぎて肩で息をしていたが、女の子がごく控えめに、ひとつの黒い鍵盤を指していることに気づく。
祈るような気配に押され、鍵盤を叩く。女の子から安堵の空気が漂った。すると今度は別の鍵盤。私は従う。これを数回繰り返して気づく。
ゆっくりと、私は例の曲を奏でていた。
ワンフレーズ弾き終わったのちにほうとため息をついた。
「曲になってる……!」
女の子は鍵盤を指し続ける。私はそれでも弾き間違えるが、女の子は根気強く教えてくれる。
私の口から本心がこぼれる。
「楽しい。楽しいね」
思い出す。
今では苦い思い出ばかりのバスケも、はじめの頃はドリブルしているだけでとても楽しかったのだ。ドリブルというより鞠つきだったが、跳ね返ってくる音が、ボールの触感が、面白くて仕方なかった。
「どうして忘れてたんだろう」
女の子自身が苦手としていたフレーズに入る。相当苦心しながらも、ふたりでぶきっちょな旋律を奏でた。
「一曲弾くのって、こんなに大変で、楽しいんだね」
足音の気配は霧散していた。代わりに女の子の気配が強くなっている。
空間の雰囲気で私は全てを察する。
「そうか。弾けたから、帰れるんだ」
女の子は黙然とする。肯定以外のなにものでもなかった。
頭をかいて呻吟する。
私には帰るべき家がある。待っている家族がいる。探すべき学友がいる。
頭を抱え、首をめぐらし、思い詰め、結局言ってしまう。
「……また君と演奏がしたい時は、どうすればいい?」
女の子から驚きの空気が漂う。女の子は考え込んだ末に、私の携帯を指差した。
*
我が学友は例のホビー兼古本屋の、自動販売機脇でうずくまっていた。私の気配に気がつくと、学友は面を上げ目を見開いた。目元にはうっすら涙のあとがある。
「や。健勝か?」
私は座る学友を抱きしめた。
「無事でよかった……。私だけ帰ってきてたら、どうしようかと思ったの」
素の言葉と共に涙がこぼれそうになる。学友の前でメンヘラごっこはやるまいと涙を堪えれば鼻汁が出てきた。これなら素直に泣いといた方がかわいかったと痛く後悔する。
ずびずび鼻を啜っていると、学友がそっと私を押し退けポケットティッシュを差し出してきた。まだ学友に垂らしていなかったというのに無礼なやつである。
我々は無言のまま、そのホビー屋を後にする。駐車場にはいかちいアルファード君や真っ赤なフェラーリ君がヤンキィ座りしていた。これこそ田舎の原風景である。
私と学友は、戻ってこれたのだ。
我々がぽつらぽつり話始めたのは飯坂電車に乗ってからである。生意気にも程々の乗客がおり、我々は立たざるを得なかった。
学友に何があったか問われ、答えようと口を開いて気がついた。あのヘンテコ空間の記憶が恐るべき速度で失われつつあるのだ。私が呼び寄せられた家の姿は既に細部があやふやで、女の子の顔などとても思い出せない。
学友も似たような状態であるらしく、気がついたらあのホビー屋の入り口前に立っていたらしい。
お前は間違えたなどという無礼千万な問答も覚えていないという。腹立たしいことこの上ない。
「スマヒョを女の子に指を指されて、それから?」
友人の問いに私は応える。
「スマヒョ出したら、女の子が私のスマヒョをぽんって触ったんだ。したら女の子が消えた。代わりにスマヒョからピアノの音が聞こえたんだ。よくわからないし、帰るかぁって」
「……それで?」
「音のなる方へって歩いて擬似実家にたどり着いたから、音が小さくなる方小さくなる方へって歩いた。
気がついたらサティの子供服売り場にいた。すごく驚いた」
友人は呆れたような眼差しを私に向けている。
「さらっと言ったが、道中大変だったんだぞ? ディズニーランドが生えて推しが手招きしてくるわ、スタミナ太郎が無料で営業してるわ。
誘惑を振り切るのにどれほど苦心したか。こっちメインの話にしたいくらい」
「……驚異は対象に『寄る』」
「ごめん何か言った?」
「いえ何も」
学友は吊り革へ持たれ、深々とため息をついた。私、なんかやっちゃいましたか?
気だるげな学友に、ふと思い立った疑問をぶつける。
「聞こえてきた音楽のタイトルってなんだったんだ?」
「……ノミのワルツ」
学友が何度目かのため息をついた。
のちに知ったのだが、ノミのワルツとは世界で愛されているピアノの名曲である。日本では「猫ふんじゃった」という名で親しまれている。
*
さて、後日談である。
親から冒険が禁じられた。
曰く、ピアノ事変の日、見守り管理アプリから私の発信が2時間程消えていたのだという。復活したと思えば高校から遠い笹谷のサティからの発信。念のため、何があったか確認するは親の義務と言えよう。
ありのまま語るを憚った私が、咄嗟についた嘘が不味かった。
「実はそのぉ、彼氏ができてぇ。その日は放課後パーリーで朝までナイトしよってなってぇ」
嘘は即座にめくられた。
くだらない嘘の代償として、1週間学校から家まで寄り道禁止。さらに中学生のきーくんがわざわざ高校へ来て、共に下校することと相なった。中学生に送り迎えされる高校生。
私の威厳は地に失墜した。
つらい。
ピアノ事変を境に、バスケを見ることが辛くなくなった。私に合わなかっただけだと、割り切れるようになった。
それはそれとして、なにかしら傑出している同輩を見ると、羨望と僻みがトグロを巻く。
ピアノ事変ほどの大きな出来事を乗り越えても私の底意地悪さは更生できなかったのだ。
とてもつらい。
ピアノ練習アプリを携帯に入れた。
アプリのインストールには親の同意が必要なため申し出ると、母からは訝しがられ、弟からは3日で飽きるだろと暴言を浴びせられる。ピアノ事変を知る学友はひじの裏みたいな表情をされた。
みんな好き放題言いやがって。
兎にも角にも、毎日一回はアプリを起動するようにしている。飽き性のため、やって精々30分程度。上手くなる兆しは見えない。
携帯バッテリーの減りが格段に早くなった。慌ててバッテリー使用量を確認すれば、ピアノアプリが原因らしい。
平均使用時間が1日に5時間を超えているらしいのだ。
計算が合わない。
私はスマヒョをベッドへ放り投げ、そのまま自身も布団へダイブ。
深く考えることをやめた。ほら、バックグラウンド再生なるものかもしれないし。
目を閉じると、聞き馴染みのある不協和音が聞こえてくる。
「相変わらずのぶきっちょさんめ」
拗ねたように、スマヒョの電源が落ちた。
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