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婚約破棄されたので、お預けした全てを精算させていただきます  作者: 凪乃


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8/10

復縁の使者 — 精算は債権であって感情ではありません

 辺境伯への返書を書いた翌朝、予想通りの客が来た。


 応接室に通されたのは、王太子付きの侍従長と、王家の法務顧問。二人とも硬い表情だった。


 この応接室は、ヴァルディエン家の歴代当主の肖像が壁に並ぶ部屋だ。祖父が選んだ重厚な家具、母が嫁入りの際に持ち込んだ花瓶。どれもわたくしの家の歴史を刻んでいる。来客用の部屋だが——今日ばかりは、わたくしの領分であることを示す砦にも見えた。侍従長の視線が、壁の肖像画を一枚一枚追い、居心地悪そうに椅子の位置を直した。法務顧問は膝の上の書類に目を落としたまま、顔を上げようとしない。


「リゼル様。王太子殿下からのお言葉を伝えに参りました」


 侍従長が切り出した。わたくしは紅茶のカップを置き、背筋を正した。


 マリアが淹れてくれた紅茶は、ヴァルディエン家お気に入りの茶葉だった。白磁のポットから注がれた琥珀色の液体は、花に似た甘い香りを湯気とともに広げていた。その温かさで落ち着いた指先を、今は膝の上に揃えて置く。


「殿下は、先日の精算交渉について深く憂慮されております」


「ご憂慮はごもっともです。あの金額ですから」


「……その上で、殿下は一つの提案をお持ちです」


 法務顧問が書類を差し出した。手が微かに震えている——この提案が通らなかった場合の展開を、法律家として計算しているのだろう。


「精算請求を全額取り下げていただければ、婚約の再締結を正式に申し入れる用意がある、と」


 復縁。


 その言葉が空気の中に留まった。磁器のカップから、紅茶の香りが細く立ち上っている。


 予想していた。王太子側が最初に打つ手として、最もコストが低い選択肢だ。精算を取り下げさせるために、婚約という餌をちらつかせる。帳簿を知らない者の発想だ。


「お断りいたします」


 間を置かずに答えた。声は静かだった。紅茶のカップを置いた時と同じ調子で。


 侍従長が目を見開いた。法務顧問はペンを落とした。ペンが床の石畳に当たる硬い音が、沈黙に穴を開けた。


「リゼル様、これは王太子殿下ご自身のお言葉です。どうかもう一度——」


 侍従長の声が微かに裏返った。


「侍従長」


 わたくしは紅茶に口をつけた。香りの良いダージリン。実家の紅茶は、宮廷のものより格段に美味しい。


「精算は債権であって、感情ではありません」


 その言葉は、三年間の帳簿が教えてくれたことだ。数字に感情を混ぜれば、帳簿は狂う。


 カップを受け皿に置いた。磁器が鳴る小さな音が、応接室に響いた。


「婚約を復縁しても、精算額は一枚も減りません。なぜなら、精算の根拠は婚約期間中に提供した資産と役務の対価であり、今後の婚約関係とは無関係だからです」


 法務顧問の顔が強張った。法律の専門家として、わたくしの言い分に反論できないことを理解したのだろう。


「もう一つ、付け加えます。仮に復縁した場合、わたくしは再び殿下に同等の支援を行うことになります。その支援もまた帳簿に記録されます。つまり——将来二度目の破棄があれば、精算額は倍になるということです」


 侍従長の呼吸が一瞬止まった。


「それから」


 わたくしは書類を侍従長に返した。羊皮紙の王家の紋章が、午後の陽射しに光った。


「殿下にお伝えください。わたくしが精算を求めているのは、殿下を困らせたいからではありません。三年間、わたくしとわたくしの家が提供したものの正当な対価を求めているだけです」


 立ち上がった。椅子を引く音が、歴代当主の肖像の前で小さく鳴った。


「正当な対価を支払う意思がおありなら、いつでも交渉のテーブルにお戻りください。ただし——」


 振り返った。


「感情を交渉材料にするのは、二度目はございませんので」


 扉が閉まった。応接室に、紅茶の香りだけが残った。


 使者たちが帰った後、マリアが心配そうに訊いた。


「お嬢様、本当に復縁なさらなくてよろしいのですか」


 マリアの指先が、片づけたカップの取っ手に触れたまま離れない。声には心配だけでなく、もっと柔らかい、祈りのような響きがあった。この侍女は、わたくしが三年間の婚約で一度も泣かなかったことを知っている。だからこそ、今になって涙を見せやしないかと——怖いのだろう。


「マリア。あの方は三年間、わたくしの名前を呼ぶことすら稀だったのですよ」


 窓の外を見た。空は晴れていた。庭の薔薇が、午後の光に揺れている。


「復縁する理由が、どこにもありませんわ」


 翌日、わたくしはアルヴェスト辺境伯への返書を発送した。


『お会いしましょう。対等な条件で』

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