辺境伯からの手紙 — 帳簿の噂は国境を越える
精算交渉から一週間。わたくしは実家のヴァルディエン公爵邸に戻っていた。
書斎の窓から見える庭園は、春の盛りを迎えていた。白い藤の花が棚から垂れ、薔薇の蕾が日ごとに膨らんでいく。けれど屋敷の空気は重い。使用人たちが目を伏せて通り過ぎる。精算騒動の余波は、実家にも確実に及んでいた。
毎日のように手紙が届く。ほとんどは宮廷の貴族からだ。
ある者は精算を「痛快だ」と褒め、ある者は「恐ろしいことをした」と暗に非難した。共通しているのは、どの手紙にも帳簿の話が出てくることだ。王太子殿下の断罪の場で悪役令嬢が帳簿を取り出した——この一件は、宮廷を超えて王国中に広がっているらしい。
「お嬢様」
侍女のマリアが、不安そうな顔で声をかけてきた。精算騒動以来、彼女はわたくしの側を離れない。忠実な侍女だ。
「お父様がお呼びです。書斎で」
父の書斎に行くと、ヴァルディエン公爵——父は重厚な執務机の向こうで眉を寄せていた。公爵としての威厳はあるが、目元に疲れが見える。
「リゼル。王都の情報だ」
父が手紙を差し出した。宮廷に残した人脈からの報告だ。
「精算の回答期限は二週間後だが——宰相閣下は第三案に傾いているらしい。しかし王太子派の一部が反発している。聖女を支持する教会の一派もだ」
「予想の範囲です」
「それと——お前の婚姻について、いくつかの家から打診が来ている」
わたくしは黙った。精算で名を上げた公爵令嬢。帳簿で王家を追い詰めた女。それを面白がって近づいてくる者もいるだろう。
「どれもお断りしてください。わたくしは今、婚姻を考える気はありません」
父が頷いた。この人は、わたくしの判断を信頼してくれる。
書斎を出て、自室に戻った。机の上には、精算用の旧い帳簿の写しと、まだ白紙のままの新しい台帳が並んでいる。精算が終わった後のことを、わたくしはまだ考えていなかった。
王都に戻るか。実家で静かに過ごすか。
帳簿を閉じた後のわたくしには——何が残るのだろう。
「お嬢様、お手紙が届いております」
マリアが銀盆に載せた封書を持ってきた。今日で三十通目くらいだろうか。
けれど、この一通は違った。蝋印が見覚えのない紋章——翼を広げた鷹と、剣を交差させた意匠。宮廷の貴族家ではない。
「アルヴェスト辺境伯家の紋章です」
アルヴェスト辺境伯。北東部の国境地帯を治める領主だ。王都からは馬車で八日かかる辺境の地。わたくしは直接の面識がない。
辺境から——わたくしに?
封を切った。羊皮紙の手触りが、宮廷のものより粗い。辺境の紙だ。
手紙の文面は、宮廷の社交辞令とは全く違った。飾り言葉がない。軍人の文章だと、すぐにわかった。
『ヴァルディエン公爵令嬢 リゼル殿
唐突な書状をお許しください。
先日の精算騒動の詳報が、辺境にも届きました。三年分の貢献を項目別に台帳化し、鑑定書付きで精算を求めたと聞いております。
率直に申します。私は今、領地経営に行き詰まっています。農地の収益は下がる一方。鉱山はあるが、運営のノウハウがない。軍事は私の専門ですが、経済は素人です。
王都の商会には何度か顧問の派遣も打診しましたが、恥ずかしながら辺境への長期常駐を引き受ける者はおりませんでした。短期の助言だけでは、根本的な解決にならないこともわかっています。
そんな折、あなたの王都での活躍を耳にし、思ったのです。この人なら、数字で領地を立て直せるのではないかと。
もしお時間があれば、一度お会いできないでしょうか。条件は対等に。雇用ではなく協力として。
アルヴェスト辺境伯 クレイグ・フォン・アルヴェスト』
手紙を読み終えて、わたくしは椅子の背にもたれた。
条件は対等に。雇用ではなく協力として。
三年間の婚約期間中、王太子殿下からこの言葉を聞いたことは一度もなかった。殿下にとって、わたくしは婚約者という名の部下だった。貢献は当然のもので、感謝は不要なものだった。
この辺境伯は——面識もないわたくしに、対等を申し出ている。
経済は素人です、と正直に書いてある。自分の弱みを見せた上で、協力を求めている。虚勢がない。飾りがない。
わたくしは手紙をもう一度読んだ。今度は、帳簿を読む目で。
行き詰まっている領地。鉱山はあるが運営ノウハウがない。農地の収益は下がる一方——。
数字が頭の中で動き始めた。鉱山の潜在収益。農地の改善余地。交易路の可能性。まだ何も見ていないのに、帳簿の項目が浮かんでくる。
——ああ。これだ。
帳簿を閉じた後のわたくしに、何が残るか。
帳簿を開く力だ。
「マリア」
「はい、お嬢様」
「返書を書きます。インクと便箋を——上等のものではなく、普通のもので構いません」
「普通の、ですか?」
「ええ。辺境伯の手紙に社交辞令は要りませんから」
マリアが便箋を持ってきた。ペンを取り、インクに浸す。
何を書くべきか——迷わなかった。
『アルヴェスト辺境伯 クレイグ殿
お手紙、拝受いたしました。
わたくしは帳簿を読むことと、帳簿を書くことが得意です。それ以外の取り柄は、あまりございません。
それでも構わないのであれば、お会いしましょう。条件は対等に。
リゼル・ヴァルディエン』
ペンを置いた。インクが羊皮紙に染みていく。乾くのを待つ間に、新しい白紙の台帳に手を伸ばした。
表紙を開く。まだ何も書かれていない最初のページ。
新しい帳簿を開く時が来たのかもしれない。




