辺境伯の求婚 — 仕事仲間ではなく、生涯の伴侶として
精算が終わった夜。
夕食の席で、クレイグはいつもより口数が少なかった。食事は辺境の素朴な料理——鹿肉のロースト、根菜のスープ、焼きたての黒パン。王都の宮廷料理より飾り気がないが、味は正直だ。この土地の料理は、見た目で嘘をつかない。
「明日の会議の準備をしなくては」
わたくしが席を立とうとすると、クレイグが言った。
「少し——庭を歩かないか」
不意の誘いだった。仕事の話なら執務室で十分だ。庭を歩く理由は——仕事ではないのだろう。
「ええ。良い夜ですから」
辺境伯の館の庭に出た。
星が見えた。
王都では、夜会の灯りが明るすぎて星が見えなかった。宮廷の窓から見上げる空は、いつもシャンデリアの残光で白んでいた。
ここでは違う。空一面に星が広がっている。大きな星、小さな星、星の川のようなもの。天文の帳簿があったとしたら、何千行の記録になるだろう。
庭の石畳を歩いた。昼間は領民が行き交う中庭も、夜は静かだ。噴水の水音がかすかに聞こえる。花壇には辺境の野花が咲いていて、甘い匂いが夜風に混じっている。
「リゼル殿」
クレイグの声が、いつもより低かった。
「お疲れではないですか。今日は長い一日でしたわね」
「ああ。だが——話したいことがある」
辺境伯がわたくしの隣に立った。いつもより少し近い。いつもは肩幅一つ分の距離を保つ人だ。軍人の礼節。それが今夜は——半歩、近い。
「精算が終わった。王太子との関係も完全に切れた」
「ええ」
「あなたは自由だ。どこへでも行ける。実家に戻ってもいいし、新しい領地を開拓してもいい。経済特区の設立許可があれば、どこの領主とでも契約できる」
事実の整理だ。彼らしい。感情の前に、事実を並べる。
「……そうですわね。選択肢は増えました」
「その上で——」
クレイグがわたくしに向き直った。
月明かりの下で、軍人の無骨な顔が——柔らかく見えた。いつも剣を握る大きな手が、行き場をなくしたように体の横で握られている。
「リゼル殿。わたしは——あなたに求婚したい」
心臓が、一つ跳ねた。
知っていたのかと問われたら——わかっていた、と答えるだろう。
地図を広げた時のあの距離。ギルド連合との契約後に二人の影が重なった時の沈黙。年度決算の後で帳簿に載らないものについて言いかけた言葉。全て——帳簿には記録しなかったが、わたくしの記憶には残っていた。
けれど、知っていることと、言葉で聞くことは違う。
「仕事仲間としてではなく。経営パートナーとしてでもなく」
クレイグの声が、夜の庭に響いた。
「わたしの——生涯の伴侶として」
夜風が庭の花を揺らした。遠くで虫の声がする。噴水の水音が、妙にはっきり聞こえる。
三年間の婚約を思い出した。
殿下はわたくしに求婚しなかった。婚約は両家の取り決めだった。政治的な契約だった。殿下がわたくしを選んだのではなく、家がわたくしを差し出したのだ。
今、目の前の男は——自分の言葉で、自分の意思で、わたくしを選んでいる。
「……クレイグ様」
「急かすつもりはない。考える時間が必要なら——」
「いいえ」
わたくしは遮った。
「考える時間は——もう十分にありました」
クレイグが目を見開いた。
「この一年間、わたくしはあなたの隣で帳簿を開いてきました」
一つずつ、数えるように言った。帳簿の項目を読み上げるように。
「あなたは一度もわたくしの仕事を軽んじなかった。一度もわたくしの判断を疑わなかった。一度も——わたくしの名前を呼ぶことを惜しまなかった」
三年間の婚約では得られなかったもの。
対等。信頼。名前を呼ばれること。
帳簿につけていた三年間——殿下がわたくしの名前を呼んだ回数は、片手で数えられた。この人は、最初の手紙から「リゼル殿」と名前で呼んでくれた。
「クレイグ様」
わたくしは辺境伯の——クレイグの顔を見上げた。月明かりに照らされた、無骨で、正直で、温かい顔。
「お受けいたします」
クレイグの目に光が宿った。大きな手が、わたくしの手を——帳簿を抱える手を、そっと取った。
剣だこのある掌。温かくて、硬くて、わたくしが今まで触れたどの帳簿の表紙とも違う手触り。
「……ありがとう」
その一言が、わたくしが今まで聞いた中で一番温かかった。金貨七十一万枚の精算交渉の中で、どんな数字よりも。
しばらく、そのまま立っていた。手を取り合って。星の下で。
「ただし」
わたくしは付け加えた。
「条件があります」
「……条件?」
クレイグが少し緊張した顔をした。軍人が戦場で不意打ちを受けた時の顔だ。
「はい。結婚しても、帳簿はわたくしが管理します。クレイグ様の帳簿整理の腕前では、まだ一人には任せられませんわ」
クレイグが笑った。声を上げて笑った。軍人の朴訥な笑い声が、夜の庭に響いた。
「——了解した。帳簿はあなたに任せる」
「永久に、ですわよ」
「永久に」
わたくしたちは庭に立って、星を見ていた。
手はまだ繋いだままだった。帳簿を持つための手が、今は別のものを握っている。
新しい帳簿の——最も大切なページが、今夜書き始められた。




