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第一章 味のしないガム


 重い身体を引きずって、会社に向かう。つり革に捕まり、電車に揺られる。

自分は何がしたいのか、できるのか、分からない。そんな日常という毒から逃れる方法が、推しの配信を見ることだ。

 耳にイヤホンを押し込み、スマートフォンをタップし、配信ボタンを押す。シンデレラのような煌びやかなドレスを着て、髪は金色で動くたびにキラキラしたエフェクトが光る。

「夢野笑夢」それが、Vチューバーとしての彼女の名だ。名前に夢が二つあるのでユメユメと呼ばれ、親しまれている。

「みんな~! 今日も貴方に夢と希望を与えるよ~!」

 彼女の声は川のせせらぎのようで聴いていると、リラックスできる。チャンネルの概要欄には、『1/fゆらぎの声の新人個人勢Vチューバ―! まだまだ未熟者だけれど、みんな! 応援してね!』と書かれている。

 1/fゆらぎの声という単語が気になりインターネットで調べた。1/fゆらぎの声を感じると脳がアルファ波を感じてリラックス状態になるらしい。

 声を聞くだけで、誰かをリラックスできる機能があるなんて超能力者みたいだ。会社に行く前の雑談配信だけが、現実を忘れさせてくれる。

 この子の声は独特で、聞いているだけで精神を落ち着かせてくれる。ある意味、精神安定剤だ。

もっと人気が出てもいいはずなのに、今この配信を見ているのは俺を含めて三人。

 見ている人数がリアルタイムで見えるから、自分の順位というのが嫌というほど分かる。ユメユメには辞めないで欲しいが、かといって変なファンが増えるのは嫌だ。

 このVチューバー界隈には「くしゃみ助かる」という文化がある。配信者がくしゃみをして、定型文でそれをチャット欄で打ち込むというものだ。派生版に「お水助かる」というものがある。

 正直、わけが分からない。俺は高貴なファンなので、脳死でそんな文章を打つのは耐えられない。そもそも、なにが助かるんだよ。

 そんなことを考えていたら、無性に苛々してきたが、最寄り駅に到着したので怒りを納める。

はあ、今から仕事だと考えると憂鬱だ。そんな朝をかき消す声が耳元で聞こえる。

「よし、決めた! 来週! この配信を今見ているみんなでオフ会しよ!」

「え?」

 電車内で思わず、大声が出た。何人かに怪訝な表情で見られたが、構わない。イヤホンが耳から落ちないように押さえて、情報を聞き漏らさないようにする。

「んっと、とりあえずここのURLにオープンチャット貼っておくから、今見てる三人は絶対に来てね!」

 俺は迷わず、張られたURLに行った。他の未登録の二人もオンライン状態になっている。みんな、同じ気持ちなんだな。

 この陰鬱な毎日の中で、これから何かが変わっていく、そんな気がした。


 2


 ようやく昼休みだ。社内食堂で唐揚げ定食を食べながら、考える。学生の頃は夢があったはずだった。今ではなんだったのか、忘れた。

 会社で働き始めた頃は営業職頑張るぞ! と意気込んでいたが、今は何も考えずに仕事を淡々とこなしている。いや、こなしているという表現は正しくない。社会人三年目だというのにも関わらず、ミスを繰り返している。

「上野君さあ……社会人何年目だっけ?」

「三年目です……」

「なら、いい加減覚えようよ。後輩にも抜かれて悔しくないの?」

 今朝、上司に言われたことを思い出し、箸を止める。後輩に抜かれて悔しいのは事実だ。だけど、どれだけ仕事をしてもミスは減らない。

 根本的なところで、俺はこの仕事が、生きることが向いていない。それは別にいい。もう、諦めている。俺が掴めること、できることはなにもない。

 ただ、生きる、そのことだけを頑張っているが、生きることを頑張るって何なんだろう。呼吸をすることは、みんな意識しなくてもできるのに、俺はそれを意識している。

 頭を振って、残った唐揚げを口に放り込む。考え過ぎると気が狂いそうだ。

胸ポケットに入れていたスマートフォンが震える。オープンチャットの通知だ。

 あのあと、ゲストと表記されていた二つのアカウントは本登録して名前も変わっていた。

「スプリング」と「ハナ」の二人がグループを作り、何かを入力している。誰かがオンライン状態だと通知が来る設定のようだ。充電が減ってしまうから、あとで通知を切っておこう。

 ピコン、上部にバーが表示される。「夢さんが参加しました」

「夢」というアカウントはまごうことなく、ユメユメだろう。

 ユメユメは、二人が入力中なのを無視して、連続でメッセージを送る。

『みんな~! オフ会の日程だけど、来週の土曜日とかどうかな?』

『場所はこことかどう?』

 ユメユメから送られてきたURLを見てみると、そこは鎌倉のビーチを見ながら珈琲を飲めるカフェのサイトだった。雰囲気があってかなりいい。

『めちゃくちゃいいです!』

『ここ行きたいです!』

「スプリング」と「ハナ」もそれに同意した。俺もメッセージを送ろうとしたができなかった。

「このユーザーは認識登録を終えていないので、メッセージを送ることができません」

 思わず舌打ちをする。ここで会話に入らないと、置いていかれる。

早くユーザー登録をしないと、そう思った矢先、上司からの電話で現実に戻される。

 今日くらいは何事もなく終わりたかったのに。

『ユーザー1109835573さんもそれで大丈夫ですか?』

『ユメユメさん。多分まだユーザー登録をしていないから、メッセージを送れないんだと思います』

『なるほど~! じゃあ、ユーザー登録できるまでここでお喋りしようか~』

『俺、ユメユメの声が大好きです』

『お、いきなり告白? 大胆だね~! ひゅーひゅー』

『好き度で言えば、私も負けてないよ』

『いいね、じゃあ、今から私を褒め称える遊びをしよう!』

 流れるメッセージを羨まし気に見つめる。画面を閉じて、胸ポケットにスマートフォンを入れる。立ち上がり、食器を返却口に置く。

 溜息を吐き、今もなお鳴り続ける上司の電話に出る。

「はい、もしもし」

「上野! てめぇ、やっと出やがったな! 先方がカンカンだぞ! 詫び入れて来い!」

「お詫び、ですか?」

 朝の営業は問題なかったはずだ。資料は今回、上司が作ってくれたので、そこまで気負わずに臨めた。

「ああ、お前に渡した資料が違ったんだよ! 今すぐ取りに来い!」

「それは──」

 アンタが俺に渡した資料だから、アンタの責任だろ。という言葉を胸の中でグッと堪えた。

「なんだ?」

「あ、いえ。なんでもありません。今すぐ行きます。申し訳ございません」

「当たり前だ! あと菓子折りセットも道中で買っておけよ! 経費じゃ落ちねぇからな!」

 言いたいことだけ言って、電話は切れた。

天井を仰ぎ見る。心が折れそうだ。でも仕方がない。これが社会だ、現実なんだ。諦めて生きていかないと気が狂う。

「これが、俺の人生だ」

 本日何回目かの溜息を吐き出す。元々、上司が全部やる予定だったのに、スケジュール管理が下手くそなせいで、俺が赴くことになった。

 この会社に入ってから、ずっと、尻拭いばかりだ。

もういい、思考を麻痺させて、上司から資料を受け取りに行く。資料を渡すだけなら、誰かに頼めばいいのに、自分の失敗を俺のせいにして、小言を言うために俺を待っているんだ。

 そんな時間があるなら、他のことに使えばいいのに。だから、スケジュール管理が下手くそなんだよ。グルグルと黒い感情がとぐろを巻く。

 駄目だ、考えるな。俺は社会の歯車なんだ。ここで思考して上司の顔を見たら、間違いなく殴ってしまう。平常心だ、平常心を保つんだ。

 頬を強く叩き、ノックを三回する。「どうぞ」怒気を孕んだ声が扉越しから聞こえる。

はあ、嫌だな。帰りたい。

「失礼します」

 上擦った声で扉を開ける。

足を組み、無精ひげを撫でている鉞上司が俺の顔を見るなり、大仰に溜息を吐く。

「君さあ、この資料を渡せて言ったよね? なんで言われたことができないの?」

「すいません」

 言われていないけど、形状は謝っておく。

「そこは申し訳ございませんだろ!」

 大声を出して、資料を床に叩き付ける。肩がビクッと震える。

「心がこもっていないんだよ。心を込めろよ、心を」

「心、ですか。でもどうやって?」

「決まってるだろ、土下座だよ、土・下・座!」

 それで、この時間が終わるのなら容易い。俺は躊躇うことなく土下座をした。

「申し訳ございませんでした」

 額を床に付けて、謝罪する。これが心なのだろうか。俺には、よく分からない。

「はあ……もういいよ、白けた。この資料、先方に渡してきて。あと、それ終わったら直帰していいから」

 床に落ちた資料を拾い上げて、部屋を後にする。

扉の前で「失礼します」と言って、背中を向けた瞬間、上司から冷たい声音で「お前、つまらないな」と言われた。

 会社を出て、菓子折りセットを探している最中でも、その言葉が頭から離れなかった。


 3


 先方に怒られるのを覚悟していたが、次から気を付けてねの一言だけだった。

呆れられたのだろうか。何も考えていない人間だと思われたのだろうか。自意識だけが、独り歩きしている。

「俺って、本当に何なのだろうな」

 青空を眺めながら、独りごちる。

資料は届けたので、上司に言われた通り、直帰してもいいはずだが、公園のベンチに座ったまま動けない。

 流れる入道雲をぼっーと眺めていたら、胸のポケットが震える。そうだ、まだアカウント登録をしていなかった。

 ささっとアカウント登録をして、メッセージを送る。

『遅れてごめんなさい! 仕事中で忙しくって……汗』

 本当は気付いていたけれど、自分以外はみんな学生のようなので、ここで大人の余裕を見せたかった。

オープンチャットはアカウント登録の際に、年齢は必須で入れないといけない。別に十八歳以上でなければ使えないという制約はないが、課金機能があるので年齢によって一ヶ月に買えるコイン(このオープンチャット内の仮想通貨)が制限されると登録する際に書かれていた。「スプリング」と「ハナ」はともに十七歳で、「夢」は十九歳とプロフィール欄に書かれていた。

 最年長は俺なので、大人らしいところを見せたくて、普段送らないようなメッセージを送ったが、数秒で後悔した。

「ダサいな俺」

 このオープンチャットは送ったメッセージを削除することができない。だから考えて、送信しないと伝えたいことがキチンと伝わらない。まるで現実のようだ。

 おそらく、次のアップデートで削除されるようになれると思いたいが、それまでは気を付けなければいけない。

『お仕事お疲れ様です~! じゃあ、オフ会の日程決めていきましょうか!』

 「ハナ」が最初に俺のメッセージに返信をしてくれた。ちなみに、俺のアカウントの名前は「上野公園」だ。駄洒落だ。

『上野公園さんは来週の土曜日って空いてる?』

『はい! 空いてます!』

 推しのユメユメに問われて、脊髄反射でメッセージを送った。

『じゃあ、来週の土曜日で決定だね。集合場所は現地でいい?』

『構いませんよ』

『私も!』

『俺も、それで大丈夫です!』

 みんな同じ意見だ。場所は初めてなので不安だが、まあ地図アプリを使えば何とかなるだろう。文明の利器だな。

『じゃあ、そういうことで! 配信の準備するから、またあとでね!』

 ユメユメのアイコンはオフライン状態に変わった。

『せっかくだし、ここでみんなで話さない?』

 ユメユメがいなくなったチャット欄で「ハナ」が話し始める。この子は委員長タイプだな。

『俺は構わないよ』

 この「スプリング」は会話が少ないので、まだ掴めない。この会話で二人について深く知る良い機会だ。

『俺もいいよ。二人は学生なんだっけ?』

『ええ、そうです。今日は数学のテストが大変でした……』

 「ハナ」はすぐに返信があったが、「スプリング」は二分後に返ってきた。

『俺も学生です』

『そっか。スプリングも今日はテストだったの?』

『ええ、まあ……はい。でも大して問題ではありませんでした。授業で習ったことの復習だったので』

 馴れ馴れしいかと思ったがスプリングは答えてくれた。文字だけだと無愛想に見えるが、質問をすれば、必ず答えてくれる。

『スプリングくんってもしかして、賢い? 私、勉強苦手なんだよね……』

『授業を普通に聞いていれば普通に分かるはずだけど』

『普通に聞いてるはずなんだけどね』

『じゃあ、もっと勉強するべきだね』

『(; ・`д・´)』

 微笑ましいなと思いながら、二人の会話を眺めていた。

自分が学生時代の頃は、どうだったんだろう。五年前のはずなのに思い出せない。そのくらい自分にとって  学生時代は無色で、どうでもよかったのだろう。昔は何者かになりたくて焦っていた気がする。夢があった。イラストレーターという夢だ。でも、俺は単なるアマチュアで、プロには絶対になれないんだと思い知らされた。

 でも、それでよかった。自分には才能がなかったのだと若いうちに知ることができた。

 だから、社会の歯車として生きていく。

彼、彼女らには夢はあるのだろうか。きっとあるんだろう。そんなことを考えている自分がどうしようもなく情けなく思えて、「まだ仕事が残っているから」と噓をつき、グループチャットから抜けた。それを見計らったようにユメユメの配信開始の通知が来た。

 まだ、家に帰る気分にはなれない。そのままユメユメの配信を見る。

 充電は残り、十五パーセントと表示されていた。


 4


 オフ会当日の土曜日。その日を心待ちにしていた。無気力な日々に慣れていて、世界に何も期待していなかったはずなのに、俺の心は浮き出し立っている。

 集合場所のカフェに到着した。みんなは先に窓際の席に座っているらしい。本来であれば集合時間の三十分前には到着している予定だったが、上司から電話が来て出るのが遅くなった。

 いい加減、転職を考えるべきなんだろう。頭を振って、余計な考えを払う。

空気を肺まで吸い込んで、中に入る。

「いらっしゃいませ! お一人様ですか?」

「あ、いや。人と待ち合わせで、ええっと古藤野です」

 古藤野はユメユメの本名だ。俺の名前で予約すると言ったのだが、この企画の主催者は私だからと譲らなかった。本名はもっと煌びやか名前だと思っていたから意外だった。

 それを見透かされたのか、『意外だった? こんな変な名前で』とグループチャットで送られてきた時は、そんな考えを持ってしまったことを恥じた。ユメユメだから、きっと苗字も素敵な名前だと自分の中で決めつけていた。

 それは偏見だ。そんな連中を嫌っていた俺だったが、いつの間にか蝕まれていた。

『あ、いや。古風な名前だと思ってただけだよ(笑)』

 そんな思いを気付かれないよう、誤魔化した。

「ご案内いたしますね」

店員さんに窓際の席に案内される。テーブルを挟んで、ソファーが左右にあり、右側にはヘッドフォンを描け、髪を眉毛まで伸ばした男子と、緑色のサマーニットを着たおさげをした女子が座っていた。おそらく「スプリング」と「ハナ」だろう。二人とも膝に手を置いて、顔を固くしている。恐らく緊張しているのだろう。俺もしているが、顔には出さない。最年長だから、ここは大人の余裕に見せなければならない。チラリと左側を見る。

「わぁ……」

 思わず声が出た。肩まで伸ばした髪に、青色の長袖のカーディガンをして萌え袖のようにして手は隠れていて、透明のスカートを履いている姿は、まるでユメユメが画面から飛び出してきたようだった。

「変、かな?」

 透き通る声で、恥ずかしそうに髪をかき上げる。少し見えた細い腕は、庇護欲を掻き立てる。

「いや、全然変じゃないよ! すごく綺麗だよ」

「えへへ、そういってもらえると嬉しいです」

 なにが綺麗だよ、だ。よくもまあ、こんな歯が浮くような台詞を言えたものだ、会社では息を潜めて生きていたのに、ここではジャケットとジーンズでビシッと決めている。

 だけど、彼女の笑顔を見れたので格好付けた意味はあったのかもしれない。

「俺は、どこに座ればいいかな?」

 さすがにユメユメの隣は恐れ多すぎる。「スプリング」と「ハナ」の隣に移動しようとしたら、二人はユメユメの隣を指差した。

「三人で座ると狭いですし、ユメユメ…………古藤野さん一人だと視線に困ると言いますか」

 「スプリング」は頬に手を置きながら、慎重に発現している。ああ、分かるよ。俺も目の前にユメユメ一人だと視線迷うしな。

「私のことは光でいいよ。ここは配信内じゃないんだし、みんな力抜いていいよ~」

 無茶を言わないでくれ。俺を救ってくれた光を呼び捨てなんて、できるわけがない。

だが、そう思ったのは俺だけなのか。「ハナ」は遠慮がちに「じゃあ、光………」と消え入りそうな声で言葉を発した。

 俺だけがユメユメを神格化していただけなのかな。少しだけ、がっかりした。でもそれは心の中だけに留めておく。

「スプリング」と「ハナ」は俺のことをじっと見つめている。

 このまま通路側で突っ立っているわけにがいかない、仕方がない。

俺は、ユメユメの隣に座った。

「では、ご注文をどうそ」

 店員さんは、俺が席に着くのを確認したのち、前掛けのポケットから機械を取り出す。

「私、レモンティー! 冷たいので!」

 ユメユメはメニュー表を見ずに伝える。

「私は、ホットココアで」

 「スプリング」の隣に座る「ハナ」は囁くような声でメニュー表を指差す。

「俺はメロンソーダ」

 「スプリング」はぶっきらぼうに伝える。

「じゃあ………ホットコーヒーで」

 メニュー表を一瞥したが、特に飲みたいものもこだわりもなかったので、一番上に書いてある文字をそのまま読んだ。

「注文繰り返させて頂きます。冷たいレモンティーがおひとつ、ホットココアがおひとつ、メロンソーダがおひとつ、ホットコーヒーがおひとつ、でお間違いなかったでしょうか?」

 みんな、頷く。

「承知いたしました。では、少々お待ちくださいませ」

 ユメユメは店員さんがその場から去っていくのを確認してから、言葉を発する。

「よし、これで全員揃ったから。自己紹介タイムといこ~」

 ユメユメが拍手をする。少し遅れてからみんなも拍手をする。

「じゃあ、私から! 古藤野光。十九歳です! 夢野笑夢って名前でVチューバ―をしています~!」

 全員が「知ってます!」と突っ込んだ。ユメユメは「知ってたか~!」と笑う。

今が配信中のような錯覚に陥る。ああ、幸せな空間だ。余韻に浸っているとユメユメに振られる。

「じゃあ、次! 君!」

「え、あっ、上野洋一、二十四歳です! よろしくお願いします!」

「短いな~! もっと趣味とかどこから来たか、まで言ってくれると嬉しいな」

 ユメユメの言う通りだった。自己紹介の時間なのに、これじゃあ何も分からない。

ゆっくりと首肯し、言葉を紡ぐ。

「趣味は──絵画鑑賞で、練馬から来ました。よろしくお願いします」

 噓だ。本当の趣味は絵を描くことだ。最近は絵を描けていないのと、見せられるレベルではない。だから、本当のことを言えなかった。

「練馬だったら一時間三十分くらいかな?」

 ユメユメは腕を組み、思案する。

「俺たちもそのくらい、です」

 「スプリング」は独特の区切りで喋る。

「たち、ってことは君とハナは友達なの?」

「いいえ、ただの知り合い、です」

 彼は、ばつの悪そうな顔をする。

「千葉から来ました三枝春、十八歳です。趣味はインターネットです」

 三枝は隣の女子と目を合わせることなく喋る。二人は因縁浅からぬ関係であることが伺えた。ユメユメはそれを気遣ってか、大袈裟に手を叩く。

「へぇ~! そうなんだ! じゃあ三枝君はインターネットに詳しいの?」

「詳しいっていうか、家にいてもそれしかやることないので………」

「宿題とかはしないの?」

「学校、行ってないので」

 三枝は一瞬、隣の女子を見て、言った。

「そう、なんだ~……」

 さすがに踏み込んではいけない領域だと思ったのか、ユメユメは言葉を詰まらせる。

数分間、沈黙がこの場を支配する。気まずい。

「次、私。自己紹介しますね。石村花奈、十八歳です。趣味は写真を撮ることで、三枝と同じ千葉から来ました。よろしくお願いします」

「二人ともアカウント名は本名から捻ったものなんだね」

 ユメユメの言葉に二人とも、別々に返事をする。あんなに楽しみにしていたオフ会だが、空気が地獄だ。息がしづらい。もう少しラフな格好でくればよかったと後悔した。

「あの、一応俺も本名から取ってます」

 少しでも空気を和らがせるために、自分のユーザーネームを弄る。年上だから弄られない、触れられない存在になっちゃいけない。それは、カサブタと同じだ。もっとこの三人と心の距離を近くしなければ、駄目なんだ。

 何もかも諦めていたけれど、これだけは諦めちゃいけない。

「やっぱりそうだよね~! 上野公園ってまんまじゃんって思ってた」

「なら言ってくださいよ」

「いやぁ、一応年上だし、弄っちゃ駄目なのかな~と」

「そんなことないですよ、むしろ弄ってください!」

「なんかヤバい人っぽくない? その発言。でも、分かった。今日から君は弄り隊長に任命する!」

 弄り隊長ってなんだよと、内心ぼやきながらもユメユメに役割を与えられたことが嬉しかった。彼女はにんまりとした笑顔を浮かべている。

ああ、配信中のユメユメだ。

「なんか、すいません。私たちが空気悪くしてたみたいで………」

 石村は軽く頭を下げる。だが、三枝は癇に障ったのか眉をひそめる。

「たちってなんだよ。俺は普通に話してるつもりだったよ。でも、そうじゃないってことは、悪くしている自覚があるんだな。君はあの頃から変わってないよな」

 三枝は鼻で笑う。

「そんなこと──」

「ないって言いきれる? あの時の言葉を撤回できる? できないよな。君はそういう奴だ。けっきょく、自分が一番可愛いんだよ」

 良い雰囲気になろうとしていたのに、三枝が舵を切り、また空気がジメジメとする。

「っ──」

 石村は顔を真っ赤にして、目に涙を溜めている。

なんとかしないと、そう考えていると、注文した飲み物を店員さんが持ってくる。

「失礼します。こちらご注文のレモンティーと、ホットココア、メロンソーダ、ホットコーヒーでございます。ご注文は以上でよろしいでしょうか?」

 俺はこくりと頷く。

「では、ごゆっくり」

 ああ、最悪のタイミングだ。コーヒーを口に運び、三人の動向を観察する。

最初に口を開いたのは、ユメユメだった。

「二人の過去に何があったのか分からないけれど、でも今日だけは忘れて楽しめないかな? これは私の我儘かもしれないけれど、私がしたいと思って開催に踏み切ったオフ会だから、今だけは隠していられないかな?」

 ユメユメはレモンティーのカップを両手で持つ。

「そのあとで、私が二人の問題を解決してあげるよ。絶対に」

「この世に絶対なんて言葉はないですよ」

 ユメユメの言葉に反論する三枝。ユメユメは首を横に振る。

「ううん、私が絶対にするんだ。私は夢野笑夢だから、私は貴方に、夢と希望を与えるから」

 ユメユメの圧倒的なアイドルオーラにさすがに三枝は黙った。

ああ、これだ。俺はこの夢野笑夢が見たかった。やっぱり彼女は俺にとっての神様だ。



 あのカフェ内での気まずかった空間から抜け出し、俺たちは鎌倉の海水浴場に来ていた。

辺りを見渡すと。パラソルの下で、眩しい陽射しを避けている人。浮き輪を持って、海に入っている人。砂のお城を作っている子供。様々な人たちが海水浴を楽しんでいる。

「まだ、夏本番じゃないのに凄い賑やかだな」

 手で傘を作って、陽射しを遮る。

「海はいつだって人気なんだよ~!」

「いや、でもさすがに冬とかは人いないと思います………」

 そもそも海水浴自体あまり来ないから分からないのだけれど。

「ん~、そうかもしれないけど、そうじゃないんだよ。言葉にするの難しいけど、なんていうか心のオアシス的な? 感じ」

「なるほど。なんとなくは分かりました」

 隣にいる三枝と石村を一瞥する。二人は顔を合わさず海を眺めている。けっきょく、カフェ内では二人に何があったのか分からないままだった。二人の問題ではあるが、話してくれると、助けになれるかもしれない。

「ねぇ、上野くんって絵を描くのが趣味なんだよね?」

 ユメユメは耳打ちする。

「──なんで、それを」

「オープンチャットのアカウント詳細に絵を描きますって書いてたから。二人は気付いていないみたいだけれど」

 確かに書いた。すぐに消そうとしたが、上司からの電話が来て消すのをすっかり忘れていた。

「でも、趣味程度ですしプロにはなれないですよ」

「このオフ会が終わったら、私宛に書いたイラストを送って欲しいな」

「え、でも──」

「じゃあ、よろしくね~!」

 最近は描けていないので、期待しないで欲しい。そう言おうとしたのに、ユメユメは俺の返事を待たず海まで走っていく。

「まだ返事をしていないのですが」

「光さんと何話してたんです?」

 三枝が小走りで走ってきた。三枝と石村だけはユメユメ呼びじゃなく、光さん呼びをする。

好きの度合いに少し違和感を感じたが、それは俺がユメユメを神格化してるからなんだろうな。

「まあ、他愛のないことだよ」

「なんですか、他愛のないことって」

 意外にも食い下がってくる。

「大したことじゃない。ただ、趣味で描いてるイラストを送って欲しいって言われただけだよ」

「絵、書けるんですね」

 三枝は意外そうな顔をする。

「まあ、ね。趣味程度だけどね。そんなことよりも、石村さんと話でもしたら?」

「なんで、しないといけないんですか?」

「なんでって……喧嘩してたんでしょ? なら話をして仲直りすべきじゃないかな」

「喧嘩? いや、あれは喧嘩にすらなっていないですよ」

 三枝は鼻で笑う。

「君たちの関係は一筋縄ではいかないみたいだね」

「………ええ」

 三枝は軽く頷いて、海の方を見る。

「俺自身もこのままではいけないと思ってはいます。でも今日だけは忘れて、楽しみたいんです。これっておかしいことですかね?」

「ううん、全然おかしいことじゃないと思う。俺だって自分自身から逃げ続けているからね」

 そう、自分のやりたいこと。したいことから目を逸らして、社会の歯車として働いている。ユメユメみたいに、自分の好きをやれている人は美しい。イラストレーターの夢は諦めたけれど、また絵を描いてみるのもいいかもしれない。

 この気持ちは、ずっとしまっておくつもりだったが、気づいた。

俺は描くことが好きなんだ。どうしようもないくらい。

 でも、好きって気持ちだけでこの世界では通用しない。だから、自分の気持ちに蓋をしていた。叶わない、敵わない、届かないと。

 だけど、好きって気持ちだけで、また描くのもいいかもしれない。心の中の燈火が再び燃え始める。

「ありがとう、ございます。上野さんにとっては大したことのないことなのかもしれませんが、俺たちにとっては、高校が世界の全てだと思ってしまうんです」

「その気持ち分かるよ。俺も学生時代はそれが全てだと思ったし、大人たちなんて頼りにならないって思って意固地になっていたっけな」

 学生時代は可もなく不可もなかったが、あの頃は何故だが大人が信用できなかった。大人は平気で子供のしたいことを潰すから、そう思っていたのかもしれない。

「だけど、大人も大人で色々考えているんだなって、大人になってようやく気付いたよ。だから、君も本当に辛い時は大人に頼るといいよ」

 ようやく最年長らしいアドバイスができた。

「上野さんって今まで話してきた大人と少し、違う気がします」

「まあ…………社会に揉まれてきた経験が活きたことなのかもね」

 働いている自分の姿と、今自分が喋っている姿を俯瞰して見た時のギャップで苦笑した。

「大人って大変なんですね」

「ああ、大人は大変さ」

 二人で海をぼっーと眺めていると、ユメユメと石村が水遊びをしているのを見つけた。

「俺たちも行こうか」

 三枝は首肯した。

ユメユメは俺たちに気付くと、手を振った。

「二人も入る?」

「水着、持って来てないので………」

 ユメユメと石村は裸足になり、足で水を蹴って遊んでいた。

「それよりも、風邪引きますよ。上がってください」

「えー、大丈夫だよ! 夏だし!」

「理由になってまぜん。貴方が風邪でも引いたら、ここにいるみんな心配します。貴方は俺の光なんです」

 ユメユメは特別な人間だ。替えが利かない人で、俺たちに生きる希望をくれる大切な人だ。

「そんな風に思ってくれてたんだね。嬉しい」

 ユメユメの口角が緩む。彼女の表情を見て、自分が口に出した言葉を思い出して、顔が熱くなる。穴があったら入りたいとはこういう時に使うものなんだな。

「俺たちは貴方のファンなので当然です」

 石村と三枝も頷く。

「そっか、うん。分かった。風邪を引くとよくないから、上がるね」

 ユメユメは嚙み締めるようにして呟いた。ポケットからハンカチを出して、海水に濡れた足を拭く。

「それで、どうしよっか? 私はまだ時間はあるけれど、みんなは大丈夫?」

 時刻は十四時。まだ帰るには少し早い。カフェは早々に出てしまったので、他に時間潰せるところはないだろうか。地元ならまだしもここらへんはあまり詳しくはない。

「それなら、いいところがあります」

 石村が手を上げる。

「へぇ、どんなところ?」

 ユメユメは目を輝かせながら、石村の顔に近づける。

「噂で聞いたことがあるんです。ここから少し歩いたところにある、森の奥に魔女の家っていうのがあって。そこにいけばどんな願いも叶うらしいです」

「魔女の家かぁ………」

 ユメユメは石村に近づけていた顔を引いて、思案する。

「都市伝説みたいなやつ? 俺はあまり聞いたことがないけど」

 オカルト、都市伝説は好きなので、わりと知っている自信はあったが、魔女の家というのは初めて聞いた。

「ここらへんの地元で有名みたいです。ローカル都市伝説な感じなので、インターネットで調べても多分、出てこないと思います」

「ホントだ」

 三枝はスマートフォンで調べていたようだが、何も引っ掛からなかったみたいだ。

ユメユメはまだ、思案している。

「都市伝説とか苦手なんですか?」

「うん? ああ、いや。考えてたの。ここから歩いて戻ってきたら、夕方くらいかなって。一応、今回私が主宰だからさ、あまり遅くなると二人の親御さんが心配するだろうな~と思って」

 ユメユメは二人を交互に見る。

「なるほど………なんかすいません。俺が最年長なのに、そこまで気が回らなくて」

「そんなこと全然気にしなくていいよ! 三人は私の大事なファンだしね。大切に思うのは当然だよ!」

 嬉しい。その中に俺が含まれているのもそうだが、ユメユメのファン愛が伝わってきて、心が暖かくなる。

「私の親は大丈夫なので、光さんさえ良ければ行きませんか?」

「俺の親も、まあ、多分、問題ないと思います」

「俺は社会人なので、どこまでも付いていきますよ」

 ユメユメはみんなの言葉を聞いて、頬がマシュマロみたいに上がって、笑う。

「こういう時の社会人特権ってズルくないですか?」

 三枝は口を尖らせる。三枝も未成年でなければ、ずっとユメユメと一緒にいたいのだろう。三枝だけじゃない、石村もきっと、同じ気持ちだろう。

でも未成年である限り、大人は子供を守る義務がある。子供側がそれを嫌がっても。それが社会の仕組みで、子供は純水無垢なので、利用しようとする悪意を持った人が残念ながらいる。

それを護るのが大人の役目であり、子供は大人を見て育つ。だから、俺は良い大人でありたい。

「それが、大人さ。君も大人になれば分かるよ」

「大人は大変ってことをですか?」

「まあ、そうだね」

 大人は大変だ、でも大人になることも悪くはない。それをいつかこの子たちにも知って欲しい。言葉で説明するのは難しいし、言葉にしたら陳腐になりそうだから口にはしないけれど、この子は俺が学生だった時よりも、賢い。だから大丈夫、そんな気がした。

「じゃあ、その魔女の家ってところに行ってみよっか。花奈ちゃん案内してくれる?」

「あ、はい。えっと、こっちです」

 石村はB6サイズの方眼ノートを後ろポケットから取り出す。超常現象! と手書きで書いてあるのは見えた。この子もオカルトが好きなんだ。

 石村を先頭にして、俺たちは魔女の家を目指す。


 6


 森は海水浴の裏側にあった。最初は舗装された道だったが、途中から、獣道に変わった。

社会で揉まれているとはいえ、スタミナはここにいる誰よりもない自信があった。

ぜえぜえと息を切らしながら、足を踏み出す。

「なんか、こういう映画ありましたよね。子供たちが死体を探しに行く映画、あれっぽいですよね」

「探しに行くのは死体じゃなく、魔女の家だけどね」

 確かに! とユメユメは笑う。先頭にいる石村は方眼ノートを睨みながら進む。あれから一言も口を開いていない。都市伝説で、俺含めてここにいる三人はあるわけないと思っているが、彼女の表情は真剣だった。

 魔女の家。そこにいけば、どんな願いも叶う。彼女が言った言葉を心の中で反芻する。

そこまでして叶えたい願い事とは何なのだろうか。

都市伝説系で、願い事が叶う系は、願い事が叶う代わりに命をもらうだとか、友達、恋人などの近しい人が亡くなるといったことばかりだ。

都市伝説を作った人は、デメリットがなく楽して、願いが叶うということを伝えたいのだろう。

 だが、それを彼女に伝えても、多分聞く耳を待たないだろう。

俺は、都市伝説は基本的に人が作ったものだと考えている。それを理解した上で、楽しんでいるが、彼女は本気で信じてる。

 この都市伝説を作った人物は何が目的地なのだろうか。ただ単に面白半分で作ったのかもそれない。もしくは、噂を知った人間を誘拐するために作った話なのかもしれない。

頭を振り、変な考えを振り払う。大丈夫、きっと何も起こらない。

 だが、万が一ということもある。大人の俺が子供たちも守らないといけない。

「この道を抜けた先に魔女の家が、あります」

 森の中に入って初めて口を開いた石村。唾を飲み込み、先に進む。

石村の言った通り、そこには家があった。朱色の煉瓦のタイルが壁には敷き詰められ、屋根の上には煙突があった。

 見たところ、三階建まである大きな西洋風の家といった感じだが、所々、蜘蛛の巣や埃、蔦があり、おどろおどろしい雰囲気がある。

「これは地元の人間は見かけても、中に入りにくいだろうな」

「普通に中に入ったら不法侵入ですしね」

 俺の隣にいる三枝は、魔女の家をまじまじと見つめる。

「でも、ここまで来たんだから中に入ります。私一人でも」

 石村は力強い声で、魔女の家の玄関扉に手を掛ける。

「ちょっと、先走るんじゃねぇよ! 死にたいのかよ!」

 三枝は石村の腕を掴み、激しく取り乱す。

「そうだと言ったら、どうするの?」

 石村は冷たい目で、三枝を射る。

「──っ! お前」

「噓、冗談。でも、一人でも入るのは本当」

「はぁ…………分かったよ」

 三枝は頭を掻き毟ったあと、溜息を吐いた。

ユメユメは俺を見て、無言で頷く。

カフェから一言も喋っていなかった二人がようやく会話らしい会話をしてくれた。きっかけはなんだっていい。これから、二人の溝が少しずつ狭まっていくといいな。

「じゃあ、中に入ろっか」

 ユメユメは、三枝と石村の肩に手を優しく乗せる。

これだけ見ると、自分よりも年上のように感じるが、年下なのが信じられない。しっかりしている。

「はい」

 三枝は返事をして、石村は無言で頷く。

俺はみんなが中に入ったのを確認してから、最後に中に入った。

玄関は埃っぽく、吸い込むと咳が出た。

 玄関にはみんなの姿はなく、「リビングにいるよ!」とユメユメの声が聞こえた。

「分かりました」と返事をして、リビングに向かう。

 そこは、大量の本が本棚いっぱいに収められている。床には本が積み重ねられていて、触ったら今にも崩れそうだ。本や本棚には埃だらけだったが、テーブルの上にあるティーカップは綺麗な状態だった。触れてみると、まだ少し暖かい。

「まだ暖かいってことは、誰かここにいたんだ」

「本当だ……ってことは、玄関の開ける音に気付いて、隠れてたってことなんですかね?」

「断言はできないけれど、その可能性はあるね」

「それが魔女…………」

「だから、魔女なんていないっての。聞いてる?」

 今度は石村が三枝のことを無視したまま、あたりを物色している。三枝は何か言おうと口を開いたが諦めて、あたりを物色し出す。

「みんな。見て。これ、ここ本だけ埃が被ってない」

 石村は本棚にあった、その本を両手で抱えてテーブルの上に置く。

「その本だけ、たまたま埃が被らなかったってことじゃないのか」

 石村は三枝を無視して続ける。

「これは、多分。この家の主。魔女が大切にしてるもの。きっと、この本の中に願いを叶える何かが──」

 石村が本を開くと、中からポラロイド写真が出てきた。女性二人が笑顔でピースしている。

 一人は背の高い女性と、もう一人は幼いが、おそらく石村だろう。

写真を持つ手が震え、口を押さえる彼女。

「噓………ありえない。なんで、なんでこんなところに…………」

「大丈夫か? おい、どういうことなんだ? これは」

 石村の肩を激しく揺らす三枝。

「これは子供の頃、姉さんと写真を撮ったの。でも、そんなの」

 両肩が震えだす石村。彼女の言葉にハッとする三枝。

「ああ、そうか。そういうことか」

「待って、どういうことなんだ? 訳が分からない。俺にも分かるように説明してくれ」

「石村の姉さんは、二年前から行方不明になっているんだ」

 三枝のその告白に、一瞬、世界が止まった。


 7


 ガチャ。玄関が開く音がした。まずい、誰か来た。

「姉さんを連れ去った奴が来たんだ。殺してやる」

「そんなこと言ってる場合か、丸腰では絶対に無理だ! ユメユメ、三枝! 手伝ってくれ!」

 二人は頷き、取り乱している石村を抱えながら出口を探す。

「こっち! さっき裏口を見たんだ!」

 ユメユメは石村を抱えたまま出口の方向を指差す。

「ありがとう!」

 俺たちは無我夢中で出口まで走る、三枝が扉を開けて、そのまま駆けていく。

出た先が急な斜面だったので、全員が山道を転がり落ちる。

大きな大木にぶつかり、動きを止まる。背中に激痛が走り、顔を歪ませる。

転がってきたユメユメ、三枝、石村を自分の身体を使って、ブレーキ代わりにする。さっきよりも大きな痛みが全身を走ったが、我慢した。俺は大人なんだ。声を上げちゃいけない。

「上野さん、ありがとうございます」

「ああ、これくらいどうってことないよ」

「なんで………姉さんが…………」

 石村は転がったことにも気付かず、俯いて独り言を呟いている。

「この状態じゃ、オフ会はもう中止ですね」

 ユメユメに目線を合わせるが、彼女は答えない。よく見ると、額からは脂汗が出ていた。

「ユメユメ、大丈夫?」

「え? ああ、うん。ごめんなさい。実は、私あんまり身体が強くなくて……さっきまで大丈夫だったけれど、今はほら」

 ユメユメの足は、がくがくと震えている。

「俺の背中に乗ってください。下までみんなで戻りましょう」

 俺は迷うことなく、しゃがんで、ユメユメが背中に乗りやすいよう角度を調整した。

「ごめん、ありがとう。お言葉に甘えさせてもらうね」

 ユメユメが俺の背中に乗る。俺は落とさないようにしっかりと支える。

彼女の体温が背中越しから伝わってくる。この小さな身体で配信をして、俺たちに希望を与えてくれたんだ。なら、今度は俺が彼女を助ける番だ。

「三枝、石村のことは頼んだ。俺はユメユメを連れて先に戻る」

「分かりました!」

 石村のことは心配だったが、三枝ならきっとなんとかしてくれる。早歩きで森を下っていく。

「ねぇ、聞かないの? なんで歩けないのとか、なんで身体が弱いのとか」

「聞いたら答えてくれるんですか?」

「それは──」

「冗談です。俺は他人のプライベートなことにはあまり深入りしないようにしているんです。だって他人は他人です。自分を救えるのは自分しかいない」

 口に出して気付く。ああ、これは自分自身のことだ。俺はまだ、自分のことを救えていない。

「他人か……確かにそうかもしれないけれど。でも、私は思うんだ。他人だから、その人の心の奥底にあるポケットに触れることができるんじゃないかなって」

 耳元でユメユメが息を吸う音が聞こえる。

「選択するのは自分だけど、その人の背中を押すことは、きっとできる。私は他人に救われることもできるって信じたいんだ。じゃなきゃ世界はつらいだけでしょ?」

「ええ、確かに」

 俺は上手く言葉が出てこなかった。ユメユメの言葉を聞いて、心の内からこみ上げてきた感情がある。だけど、それは忘れていたものだ。他人からの思いでまた、蘇らせて、傷付くのは、もう嫌なんだ。

 そう、言葉にすればよかったが、それすらもできなかった。

社会の歯車として働いていくって決めたのに、どうかしてるな、俺。

「三枝くんと、花奈ちゃんが同じ高校に通ってるって知ってる?」

「知らなかったですが、まあ、そんな気はしていました」

 俺がカフェに到着する前に三人で話したのだろう。上司からの電話が来なければ。

「じゃあ、私もその二人と同じ高校だということも知ってる?」

「え…………?」

 ユメユメの言葉に息が詰まる。俺以外が全員同じ高校。なんて偶然だ。

「多分、私たちの高校にあるんだと思う。花奈ちゃんのお姉さんが行方不明になった鍵が」

 いや、これは偶然じゃない。みんなと出会ったのは。きっと、運命だ。


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