07.ようやく説明会・その2
しんみりした空気は、宿屋に帰り着いた瞬間に吹っ飛んだ。
エントランスホールでセダさんが仁王立ちしていたからだった。美形が怒っていると凄まじい迫力だ。ラザが、もちろん私も、ヒッと喉を鳴らした。
セダさんの怒りはラザへと向けられていた。原因はもちろん、私と宿屋の外に出たこと。どこの世界にさっきまで尋問していた相手と遊び歩く奴がいるんだ、というド正論には何も言い返せない。
エントランスホールの石床に正座するラザを相手に、「だいたいおまえはいつもいつも」「反省するだけなら猿でもできるだろうがこの猿、いや猿以下」という容赦ない説教が続く。ラザが外に連れ出してくれたのは私のためだ、ということがわかっていた手前、何とかして取りなそうとしたのだが、セダさんがひと睨みするだけで私は退散した。ラザごめん。
最終的に説教は30分ほど続いた。打ち切られたのはセダさんが満足したからでもラザが猛省の意を示したからでもなく、単純に、空腹すぎてラザのお腹の音が止まなくなったからだった。
「ひっどい目にあった」
「こっちの台詞だ」
机に突っ伏してラザがぼやく。それに反応したセダさんの声も、流石に説教疲れしたのかどことなく草臥れていた。
どういうわけか、私は今、二人とテーブルを囲んでいた。正確には二人と一匹。四人がけのテーブルの空いた席には、ちょこんと白い獣──魔物(?)のティアが座っている。蒼い瞳がずっとこちらを見つめているのに気づいて目を合わせると、ふいっとそっぽを向かれた。……嫌われているのだろうか。
今私たちがいるのは、エントランスホール横の食堂だ。夕食どきだからかテーブルはほぼ埋まっており、皆さんお酒がはいっているのかかなり騒がしい。部屋数と比べると明らかに客数は多いので、もしかしたら、宿泊客以外も利用しているのかもしれない。
ところで、ラザに借りたフードを私はまだ被っていた。食堂に入る前に返そうとしたらラザにも、何とセダさんにも止められた。理由は「目立つから」だそうだ。室内の光源は蝋燭が何本かあるだけで明るいとは言い難いし、誰も私の格好など気にしないと思うのだが。
「信じられっか、ヒノ。セダ、本気を出したら二時間でも三時間でも説教し続けられるんだぜ。性格が終わってるよな」
「まず二時間も三時間も説教のネタが続くって、ラザ一体何したの?」
「……おまえらこそ一体何があったんだ?」
打ち解けた様子の私とラザに、セダさんは少し驚いていた。どう返答するか迷う前にラザが口を開く。
「さっき菓子もらったんだ。ヒノはいいやつだ!」
「また餌付けされたのかよ」
「『また』ってなんだよ『また』って! 俺が食い物に弱いみたいなさあ」
「事実だろ?」
憤慨するラザとそれを素気無く切り捨てるセダさんを見ていると、店員の女性が料理を運んで来た。大皿が三つ、四つ、まだ来る。先程ラザが注文していた、耳慣れない料理だろう。
「ヒノも遠慮なく食えよな! どうせセダの金だし!」
「コロスぞ」
大皿は、ほかほかと白い湯気を立てていた。卓の中央で揺らめく蝋燭の炎に照らされて、パンやサラダ、肉料理らしきものが食べられるのを今か今かと待っている。胃が急に空腹を訴えて来た。
いや、だめだ。先立つ物がない。この世界の通貨なんて知らないし、仮に日本円が使えたとしても私の全財産は五七九円だし。ははは、泣ける。
「でも私、お金が」
「十人前を食うやつがいるんだ、おまえ一人増えても変わらん」
食卓の向かいで、ラザを示しながらセダさんが言った。これはやはり奢ってもらえるという流れなのだろうか。……本当に? 後でやっぱ払えとか言われない?
答えられないでいる私を横目に、既に食事を開始していたラザが口一杯に食べ物を詰めながら何かを言う。
「ふぇふぁふぁふぉふぉふぃふぁふぁふぁ」
「食ってから喋れ、食ってから!」
「……、セダが脅したからヒノ怖がってんじゃん! もうちょい愛想よくすりゃいいのにさあ」
「……」
セダさんの眉間に皺が増えた。ラザに、それから私へと寄越された視線は、『おまえが食わねえから俺が難癖つけられたじゃねーか』と雄弁に語っていた。
「い、いただきます! わー、おいしそーう、何から食べようかなー」
箸はなく、フォークと取り皿を手に取る。棒読み全開な私の言葉を聞き、セダさんも小さく溜息を吐いてから食事を始めた。
美味しそう、という言葉は嘘ではないし、どれから食べようか迷ってしまうのも本当だった。皿に乗った料理は明らかに日本食ではない。
鶏肉の煮込み料理に極太のソーセージらしきもの、焼き茄子に榛色のソースがかかったもの、豆と玉葱の煮物、緑色のペーストが添えられたパン。
「ヒノ、これ超美味いぞ! 食ってみろって!」
ラザが勧めて来たのは、奇妙な食べ物だった。握り拳より小さいくらいの白い塊で、中心がきゅっと捻られて尖った形がなんだか可愛い。小籠包や肉まんに雰囲気が似ているので、小麦粉の生地の中に具を入れて蒸したものだろうか。
「ありがとう、貰うね」
取り皿に一つ取り分けて、フォークで半分に切る。すると中から湯気とともに肉汁が溢れ出た。生地と、それから中身の挽肉を口に運ぶと、スパイスが効いた肉の旨味とパクチーのような香りが口一杯に広がる。パクチーは好き嫌いが分かれるだろうが、他の香辛料のおかげもあってか少し辛味があり、とても食べやすい味だった。例えるならエスニックな水餃子、だろうか。
「ヒノ、美味い?」
「うん、めちゃくちゃ美味しい」
「よな!? よっしゃ、おねえさん、これもう一皿追加で!」
「おい馬鹿、頼みすぎだ」
「大丈夫だって、全部食べれるし!」
「おまえの胃袋心配してんじゃねっつの!」
焼き茄子を取り分ける私の前で、二人はまた言い争っていた。焼き茄子の上にかかっていたソースは、どうやらクルミやナッツなどの木の実をペーストにしたもののようだ。香ばしくてこれも美味しい。
それを見たラザがこれも食えあれも食えとどんどん私の皿に料理を乗っけていく。セダさんが何かを言って、また言い返す。口論と言うよりは兄弟喧嘩、もしかしたら父子喧嘩のようなものなのだろう。食堂はどこも似たような喧騒に溢れていて、騒ぐ彼らを咎めるものはいない。飽きずに言い合っている二人を見つつ、小さく呟いた。
「……夕飯を誰かと食べるの、久しぶりだ」
喧しくて、でも、嫌じゃない。どこか懐かしい感覚。
こんな状況なのに、胸の奥が僅かに温かくなった。
そしてやっぱり、少しだけ、痛んだ。
奇妙な食事会は滞りなく続いた。お通夜状態にならなかったのは、きっとラザのおかげだろう。会話の中心には常に彼がいて、ラザが私に私の世界のことを聞き、私もラザにこの世界ではどうなのかと尋ねる。セダさんは自分からはあまり口を開くことはなかったが、ラザの説明に補足を入れたり、私に幾つか質問したりした。
二人と話していくうちに、また新たにわかったことがある。
一つ目。この国・アグナアタ皇国について。
この国は、世界最大の大陸であるクロカーシ大陸東部にある人族の国家なのだそうだ。世界最大の国で、貿易と放牧が盛んで、最も富んでいるとのこと。──ただし、最近は皇帝の権威が弱まり、周辺諸国とは緊張状態にあるそうだ。つまり戦争が起きるかもしれないってことか、と慌てたが、ここテュムルスは首都に近い内地だし、そもそもいますぐに戦争というわけでもないので一先ずは安心できるらしい。
とはいえ、内情は中々にきな臭いそうだ。
「十日ほど前、第一皇女が死んだ」
人々の噂話くらいなら知っておいて損はないだろう、と前置きして、セダさんが教えてくれた。石像に手向けられた花と、連鎖して花売りの少女を思い出して胸のあたりが重くなる。
「当代の皇帝は軽んじられている。実権は宰相と貴族どもが握っているんだが──唯一の嫡子のユーステティア皇女も死んだとくれば、いよいよ皇威の失墜は避けられないだろうな」
「え……あの、それって、ひょっとして……宰相? たちが皇女さまを殺した、んじゃ?」
「十中八九そうだろうが、口には出すな、消されるぞ」
「ひっ!?」
私は顔を青くした。
権力闘争怖い。この先絶対に関わることはないのだろうし、もう触れないでおこう。
皇女──何故だか引っかかるのだが。考え込む私を、白い獣がじっと見上げていた。
二つ目。この世界・アイアスについて。
三つの大陸に七つの種族が住まう世界なのだそうだ。それぞれの種族が独自の神様を信仰していて、全部で七柱。だから共通語も七神語というらしい。
種族は、人族、獣族、賢精、坑族、妖霊、翼族、魔族の七種。こんなの覚えきれるはずがない。アグナアタには人族以外殆どいないらしいが。
それから。魔物がいて、魔術がある、らしい。未だに信じられないが、私の横で果物を齧っている白い獣は確かに動物ではないし、私がこの宿で目覚めたときに手足を拘束されていた鎖も、セダさんの魔力によるものだと言われれば、信じる他ない。街の外には魔物だけでなく盗賊なんかも出るので、絶対に壁の外には出るなとラザは言った。
そして三つ目は、セダさんについてだった。
「神官だ」
「ご職業は何をされているんですか」という、お見合いみたいな私の問いへの返答に、私は面食らった。
確かに格好はそれっぽいが。真っ白なローブは「如何にも」という感じがするが。
ちなみに、たらふく食べて満足したのか、難しい話が続いたからか、ラザはいつのまにか机に突っ伏して眠っていた。ガキかよとため息を吐くセダさんを見るに、よくあることらしい。
そんなわけで、私とセダさんがサシで会話をしているという、私からすると少し胃の痛い事態になっている。
「言いたいことあるならはっきり言え」
「いえ……何も……」
──神官なのに口癖が「殺すぞ」なのか。
──私へのあの尋問っぷり、絶対カタギじゃないと思ったのに。
もちろんそれを口に出す蛮勇はない。突かれるとボロが出そうなので、質問して話題を移す。
「神官、ってことは神様にお仕えしてるんですよね?」
「まあな。皇都の神殿に勤めている」
「さっき仰ってた、人族の神様ですか?」
「ああ。『創造』を司どる神、クレイアル神だ」
へー、と頷いて、ふと思いついたことがあった。
「あの、魔物がいるってことは、もしかして、神様も実在している、なんてことは」
「……ああ。いるにはいる」
「なら!」
気づけば、私は椅子を蹴倒して立ち上がっていた。椅子が床に倒れる音が思いの外響いて我に返る。同時に、辺りを見回して客の数が随分と少なくなっていることに気づいた。
すみません、と謝って慌てて椅子を戻す。再び向き直った私に、セダさんは僅かに申し訳なさそうな顔をしていた。
「おまえが何を思ったかの予想はつく。結論から言うが、無理だ」
「でも! 神様なら……もしかしたら、私を元の世界に戻すことだって!」
「世界と世界を繋げるなどただの人間には無理だ」、とセダさんは言った。
なら──「ただの人間」以外だったら?
期待を抱くのを止められない私に、セダさんが告げる。
「もう一度言うが、無理だ」
鋼のような声だった。冷たくて、硬くて、それから痛い。
「クレイアルの神殿に一般人が入ることは許されない。最奥の神座の間には俺だって入ったことがないんだ」
「……っ、じゃあ、他の種族の神様だったら」
「一番近い神域でもここから徒歩で一月はかかるぞ。その間に野垂れ死ぬだろうな」
押し黙った私を見て、セダさんも言葉に詰まったようだった。
「……悪いが、俺にはどうすることもできん」
「……、謝らないで、ください」
笑おうとしたのだが、上手く笑えていたかは自信がない。セダさんが眉間のシワを深くしたので、おそらく失敗したのだろうが、それでも、私にはこうするしか、笑顔のようなものを作るしかない。
だって、そうでもしないと、壊れそうになる。
「すみません、取り乱しちゃって。……あはは、やっぱり私、まだ混乱してたんですね。帰れるかもって思っちゃって、それで私、期待しちゃって」
「おい」
「大丈夫です。本当に」
重ねて告げると、セダさんは不本意そうに口を噤んだ。
「……セダさんとラザは、いつまでこの街にいるんですか?」
「明日にはここを発つつもりだ」
「皇都に帰る、ってことですか?」
「……いや、神殿の使いで南西のレガータという街に向かう途中だ。ここにはついでで寄っただけだ」
「そう、なんですか」
おまえはどうする、とセダさんの視線が問うていた。
「……住み込みで雇ってもらえそうなところを探そうと思います。私をこの世界に呼んだ人を探したいですけど……簡単にはいかないだろうし。だからまずは、何とかしてこの世界に居場所を作らないと」
仕事を見つけるのも上手くいくかはわかりませんけどね、と私は小さく笑う。そんな私を、セダさんと、それから白い獣が黙って見つめていた。
「でも何とかします。──向こうの世界と、やることは変わりませんから」
向こうの世界でだって、一人で生きてきた。毎日ぎりぎりまでバイトして、何とか暮らしていけるだけのお金を掻き集めて、そして誰も待っていない一人の家に帰って。
だから大丈夫だ。怖くないと言ったら嘘になるけれど。
それでも、一人で生きていける。生きていかなければならない。
「……そろそろ寝ますね。発つのは明日の朝でしたっけ?」
「ああ。朝食の後すぐだ」
「なら、お見送りします。……最初はびっくりしましたけど、ラザとセダさんには感謝しているんです」
たくさんのものを、もらったと思う。寝る場所も、食べるものも。この世界の知識も。そもそも二人がいなければとうに死んでいたのだろうし。助ける義理も義務もない私を、今日一日だけとはいえ、助けてくれたのは確かだ。
この世界に落ちて初めて会ったのがこの二人だというのは、おそらく、幸運だったのだろう。
「本当に、ありがとうございます。……おやすみなさい」
「ああ」
深く礼をして、そして食堂を出た。
疲れていてぼんやりとしていたのか、出る前に男性客とぶつかる。怒鳴られたような気もするが、何と返したかは覚えていない。ふわふわとした意識のまま、三階に上がり、数時間ぶりの客室に戻る。ラザに借りたままだったフードを畳んで隣の空いているベッドに置き、そこで、私の中で何かが途切れた。
「……」
力なくベッドにダイブする。綿を詰めたようなマットレスは薄っぺらくて、お陰で全身が痛んだ。でもそんなことどうだっていい。
(『大丈夫』)
何度も繰り返してきた言葉を、私はもう一度、噛みしめるように呟く。
「ニァ」
いきなり声がして少し驚く。顔を動かすと、月明かりに浮かび上がる真っ白な獣がいた。隣のベッドの上に佇むそれは、深い蒼に金色が散った、不思議な色の瞳で私を見つめている。
「ついてきたの? 私、何にも持ってないよ」
「ニァア」
そういえば、結局この子が何なのか聞くのを忘れていた。セダさんかラザのペット、だろうか。なら、この子とも明日でお別れなのだろう。
「ティア、っていうんだっけ。綺麗な名前だね」
「……」
獣は何も言わない。直線の視線から、先に目を逸らしたのは私の方だった。蒼い瞳に何もかも見透かされていそうで怖くなったからだった。
「……『大丈夫』。『大丈夫』、『大丈夫』、『大丈夫』」
シーツをきゅっと掴む。夜に沈んだ部屋に、私の声だけが零れ落ちる。
「…………っ!」
拳をマットレスに打ちつける。古びたそれから埃が舞い上がり、カーテンの隙間から差し込む月光に浮かび上がった。
【──こちらへ、おいで】
あの声が蘇る。畜生と思った。悔しかった。私が何をしたっていうの。何でこんな目に合わなきゃいけないの。何で私だったの。
誰か助けてと叫びたかった。誰か──お兄ちゃん。だけど、きっと叫んでも助けはこない。この一年間、お兄ちゃんがいなくなってからずっとそうだった。
小さい頃、私はとても泣き虫だった。泣いている私の涙を拭うのは、いつだって兄だった。
兄がいなくなって、涙を拭ってくれる人がいなくなって。私は決めたのだ。兄が帰ってくるまで、泣かないと。
一人で、生き抜いてみせると。
「……だから、まだ、大丈夫」
硝子のない窓の外から微かに、夜の街の喧騒が聞こえる。この世界に居場所がある人たちの笑い声が聞こえる。この部屋の静けさとの落差が胸を抉る。
けれども、私は振り切るように目を閉じる。何度目かもわからない、気づかないふりをしながら。