08.暗雲低迷
少女が立ち去ってしばらくして、卓に突っ伏していたラザがもそりと起き上がった。
「……」
「下手な狸寝入りだったな」
「……なんで狸だってわかるんだよ?」
「おまえにしちゃいびきがうるさくなかった」
「あっそ」
食卓に頬杖をついたラザの表情は暗い。その視線は、先程までここにいた異邦人の少女の席へと向けられていた。取り皿と肉叉だけがぽつんと残っている。気づけば、あの白い獣も姿を消していた。
「……なあ、セダ」
「どっちのことを言っているかは知らんが」
セダウェンの双眸がラザに向けられる。銀の瞳は、どこまでも冷徹だった。
「首を突っ込むな。最後まで付き合う気がないんならな」
助けると決めたなら、全部を背負う覚悟をしてからだと、セダウェンは言う。溺れる者を助けるならば、重いからといって途中で投げ出すことは許されない。そうするくらいなら最初から手を出すべきではないのだ──希望を見せた分、傷はより深くなる。
「わかってるよ。わかってるけど……セダだって、あいつを助けたいと思ったからここに来たんだろ? なら」
「あいつが本当にヘマやらかしたのか確認したかっただけだ。目的は果たした。もう用はない」
取りつく島もないとはこのことだった。突っぱねるセダウェンに何か言おうとするラザだが、反論の言葉が上手く纏まらないのか、煮え切らない表情で唇を噛む。
「それとも、ここで俺と別れるか? こっちからしちゃ子守から解放されて万々歳だが」
「……ガキ扱いすんなよ! セダの馬鹿! 馬鹿!」
「もう寝る!」と宣言して、ラザが立ち上がった。それきりセダウェンには目もくれず、鼻息荒く食堂の出口へと向かう。その途中、とある食卓の前で立ち止まる。
「おい」
「あ? ……んだ、ガキかよ」
食卓を囲んでいたのは男ばかり五人だった。明らかに人相が悪い。この街は交易の中継地として栄えており、人の出入りが激しい。流れ者も容易く入り込めるのだろう。
一際態度の悪い男に酒臭い息を吐きかけられながら、ラザは顔色一つ変えない。先程セダウェンらと話していたのと同じ人間とは思えないほどに、冷えた目だった。
「何の用だぁ?」
「さっき女とぶつかっただろ? そんときにスったもん出せ、今すぐだ」
「人聞きの悪いこと言ってんじゃねーよ! 証拠はあんのかぁ!?」
「この目で見た。だっせぇ真似してんじゃねえよ、おっさん」
「っ、のガキ!」
酒が入って気が大きくなっているのか、それとも元々粗野なのか。男が食卓の酒瓶を手に取り、ラザへと振りかぶる。
対峙する少年は振り下ろされた酒瓶を最小限の動きで避け、伸びきった腕に手刀を一つ。痛みに男が酒瓶を取り落す中、食卓の肉叉を掠め取り、彼の鼻先に突きつけた。
「二度は言わないよ」
「……っ!」
遅れて床に叩きつけられた酒瓶の割れる音が、些か間抜けに響いた。
「チッ、ほらよ!」
「ありがと」
男が懐から取り出したのは小さな巾着袋だった。叩きつけるように放られたそれをラザは受け取り、中身を確認する。セダウェンの位置からでは遠目でよく見えなかったが、おそらくは首飾りか何かだろう。
丁寧に肉叉を食卓に返し、ラザはその場を後にする。程なくして食堂の出口に消えた。その間、一度としてセダウェンを振り返らなかった。
「おい、会計を頼めるか」
「あ、はい、ただ今」
それを見届けて、セダウェンも近くにいた給仕係の女に声をかける。ラザのせいで膨れ上がった代金を、この国で一般に流通しているイスラ銀貨で支払う。
横目で見た男たちも、ラザのせいで水を差されたのか、店を後にするところだった。横柄な態度で去っていく彼らに、口をついて出た言葉があった。
「──随分荒れているな。以前訪れたときは、もっと穏やかな街だったと記憶しているのだが」
「ああ……」
銀貨を数え終えた女が、疲れきった笑みを浮かべた。
「もうここ数年はずっとですよ。生活は苦しいし、治安もどんどん悪くなるし。西の街道は野党が出没するから、周辺の村は襲われるし、隊商も減っているし。お貴族様たちは何にも助けちゃくれない」
女の愚痴は止まらない。
「……『皇家の霊廟』のお膝元だってのにどうなってるんだか。皇女殿下も亡くなられたっていうし、この国ももうだめかもしれないね……」
「…………」
女の言葉を、セダウェンはただ、黙って聞いているだけだった。
「おっと。お客さんにこんな話はすべきじゃなかったね」
「いや、有益な話だった。西の街道は避けることにする」
「なら良かった。お気をつけて」
重ねた皿を両手に抱え、店員が一礼し去っていく。残されたセダウェンは、さらに客が減った食堂の一角で一人思う。
──明日。明日の朝、この街を出る。ラザと二人で。レガータに行って、用事をこなし、そして皇都に帰れば、いつも通りの日常が待っている。
神殿の使いなどという雑用は、そもそもセダウェンの仕事ではない。平素ならば空から槍が降ろうとも引き受けなかった仕事だ。
だというのにセダウェンがこんな場所にいる理由は、寝覚めが悪かったから、その一言に尽きる。
『馬鹿なやつだって笑いに来て。それで、私のために祈ってよ』
『彼女』が死ぬ数日前、別れ際の言葉。あまりに出来すぎていたから、確認したかっただけなのだ。
結果は、予想だにしなかったものだったのだが。
霊廟、宰相の私兵、そして『世界渡り』。およそ手に負えないものばかりだ。
だから悪く思うなよ、と心中で『彼女たち』に語りかける。
「……悪いが、俺にはどうすることもできん」
✳︎✳︎✳︎
──同時刻。テュムルスの街より見て西に広がる森の中にて。
どうして、こんなことになってしまったのか。
「く、来るな、来るなバケモノ……っ」
歯の根が合わない。鼓動がうるさい。喉から絞り出した声は、自分のものとは思えぬほどに裏返っていた。だがそれを情けないと思う余裕など、男にはあるはずもなかった。
座り込んだまま掲げた剣の切っ先が震える。その向こう、闇の中に潜む何かが、じっとこちらを窺っているのを感じる。
鬱蒼とした梢に阻まれて、月明かりすら届かぬ夜の底。男の傍に転がっている松明の火だけでは到底闇を照らすには足らず、むしろ、長く伸びた影法師がより一層恐怖を感じさせる。
どうしてこうなったのか。男にはわからない。
この森の中の廃村を根城として、盗賊団を組織して数年。小さな村や隊商を標的にしてきたが、そろそろさらに大きな獲物を狙うのもよいのではないかと野心を燃やしていた、その矢先のことだった。
いつも通り略奪から帰還していた彼ら。あと少しで拠点だというところで、奴は現れた。
奴のせいで、三十五人いた部下どものうち少なくとも半数は死んだ。残りもおそらく絶望的だろう。
根城には残留組がいるはずだが、生きているのかわからない。今すぐ脇目も振らずに拠点に向かって駆け出したいが、奴のせいで右足を失っている今の自分では、到底無理な話だった。
「来るな……来るなぁぁあっ!」
盗賊団の頭領だった男。数多の人間から奪い、犯し、殺し尽くし、そして今は恐怖に慄く男の目の前に、それは現れた。
ゆらりと、まるで森に広がる暗闇が形を持ったかのように。
纏うは長い黒衣。髪と肌は蝋のように白く、およそ生気を感じさせない。まさに幽鬼のような佇まい。
そんな女だった。
一瞬で盗賊団を殺戮し尽くした若い女。その彼女が、血の気の失せた唇で言葉を紡ぐ。
「探した」
「来るな! 畜生、てめえ一体何もんだ!? 俺たちに何の恨みが」
「恨みはない。貴様らが一番手頃だった、それだけのこと」
女が何かを投げた。男の目の前に、赤い尾を引きながら落ちたのは、切り落とされた彼の右足だった。
「ヒッ……!」
「足がないと不便だろう」
かつては紛れもなく自分の一部だったものなのに、なぜ切り落とされたらこうも不気味に見えるのか。それとも、一度でも奴が触れたからか。
恐慌状態に陥った男。来るな来るなと、それしか言葉を知らないかのように喚き続ける。
その声は、唐突に途切れた。
不自然なまでの静寂の後、先ほどと同じような、『何か』が地に落ちたような音が生まれる。篝火に照らされて、恐怖に凍りついた男の首がごろりと、胴体を失ったまま転がった。遅れて胴体も力を失って倒れる。
地面から生えた巨大な刃──巨人が振るう斧のようなそれが、瞬き一つの間に男の首を切り飛ばした。それを見ていたのは、黒衣の女だけ。
いや、違う。
女の背後、松明の灯すら届かぬ夜の森の暗がり。赤い光が浮かび上がる。
幾つも幾つも、蛍火と呼ぶにはあまりにも禍々しいそれは、ただ無言でじっと、転がる死体へと視線を注いでいた。
「ではカガリ。後のことはおまえに一任する。必ずや、あの子を俺のもとに」
そう言って、女は目を閉じる。そして再び、同じ口から返す。声に変化はない、だが明らかに、纏う空気は変質していた。
「全ては貴方のために。我が主人、──様」
彼女の瞳は、赤い。背後に佇む何十対のそれと同じような、無機質な硝子玉めいた双眸。
女が笑みを浮かべた。初めて浮かんだ表情らしきものは、しかしどこか空虚だった。
それでも、ここにはいない別の誰かを彼女は想って、彼女は微笑み続けていた。




