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09.少女と少年

 


 いつの間にか眠っていたらしい。起き上がってそばにあった携帯を開くと、午前一時だった。シャワーを浴びようと思っていたのに、最悪だ。今からに一階にあるという洗い場に行くわけにもいかないだろうし、明朝、というかもう今日だけど、早めに起きよう。


 そう結論づけて携帯のアラームをセットする。朝食は七時と聞いているので、四時半に起きれば十分だろう。二度寝に勤しもうとした私の目が、隣のベッドの一点で止まった。


 白い獣が、丸まって眠っていた。真っ白な毛並みに、うさぎのように長い耳、猫のように長い尻尾。動物は周囲の気配に敏感なのだろうか、眠っていたはずなのに程なくしてうっすらと目を開いた。



「ごめんね、起こしたかな」


「……、ニァ」



 ふるりと身体を揺らし、ティアが立ち上がった。短い足からは予想もつかない俊敏な動作で、助走もなしに私のベッドに乗り移る。


 傍に降り立ち、私を見上げる。宇宙の欠片をはめ込んだような、美しい瞳の中に私が映っていた。


 何かに、似ている気がする。そして気がついた。あのペンダントだ。


 取り出して比べようと制服のポケットに手をやって、一気に血の気が下がる。


 スカートのポケット、ない。胸ポケット、ない。スクールバッグをひっくり返す、ない。スマホのライトをつけて這いつくばるようにベッドの下や床を見てみる、ない。どこにもない。巾着が、あのペンダントが、ない。



「ない! なんで……!」



 血相を変えて探す私をティアは不審な目で見ていた。必死になって記憶を辿る。ラザに見せて、ポケットにしまって、それから。



(街で落とした、とか)



 ぞっとした。いてもたっても居られなくなって、部屋から飛び出す。静まり返った宿屋の暗い階段に、私の足音だけが響く。


 エントランスホールも無人だった。窓から差し込む僅かな月明かりを頼りに玄関扉を開け、夜の街に飛び出す。


 走り出そうとした、その時だった。



「ヒノ!? どこ行くんだよ、こんな時間に!」


「っ、わ……!」



 私の前に降り立った影に、腰を抜かすほど驚いた。猫のように軽やかに着地したのは、ラザだった。



「え、ど、どこから」


「屋根の上。寝れないから星見てたんだ」



 三階建ての屋根から飛び降りてぴんぴんしているラザの身体能力はさておき、私は縋るようにラザに言い募る。



「ペンダント! お兄ちゃんのペンダント、ないの、どこにも、だから私行かなきゃ! 探さないと、あれがなきゃ私──」


「落ち着けって、──大丈夫だから」



 ラザが私の手に何かを握らせた。紅い瞳が促すので、そっと開くと、見慣れた巾着が掌に乗っていた。



「食堂に忘れてんのを見つけたんだ。ごめん、そんなに慌てるんなら、すぐに返しに行きゃ良かったな」



 巾着の紐を解く、指先は震えていた。巾着を傾けると、銀色の細い鎖と、青く光る蝶の片羽が滑り出た。



「────」



 顔が歪む。目の奥が熱い。立っていられなくなって、しゃがみこむ。ペンダントを手の中に閉じ込めて、何かに祈るようにその手を額の前に押し当てる。



「……ごめん」


「いーっていーって」



 何とか絞り出した声は掠れていた。俯いて肩を震わせる私の背をラザがさする。



「見つかってよかったな。ほら、あいつも心配してたみたいだぞ」


「え……?」



 顔を上げて振り返った先、宿屋の玄関のあたりに、あの白い獣がいた。私と目が合うと、「ニァァ」と、不機嫌そうな声で一つ鳴いた。




 ✳︎✳︎✳︎




 巾着から取り出して、ペンダントを身につける。セーラー服の下に入れてしまえば、もうなくすことはないと信じたい。


 私と並んで玄関前の階段に腰掛けたラザがそれを眺めていた。ティアは、埃っぽい地べたが嫌なのか、私の膝の上に乗っている。



「……何か、あったのか? 兄貴と」


「…………」



 直球の問いに、私はすぐには返せなかった。迷ったけれど、ネックレスを見つけてくれたラザに嘘や誤魔化しは言うべきではないと思ったので、口を開く。



「……私、親が小さい頃に亡くなって、お兄ちゃんに育ててもらったって話、したでしょう?」


「うん」


「ずっと、二人で暮らしてたんだけどね。……いなくなっちゃったの。一年前に、いきなり」


「いなくなったって」


「朝会社に行くからって出てそのまま。帰ってこないの……ずっと」



 膝の上で白い獣が私を見上げていた。美しい瞳の中に映っていたのは情けない顔をした私で、少し申し訳なく感じた。白い毛並みを梳く。柔らかくて、温かかった。



「……親、もういないんだったよな。そのあとどうしてたんだよ」


「親戚の人に一緒に暮らそうって言われたんだけど、断ったの。お兄ちゃんとずっと暮らした家で、お兄ちゃんにもう一度お帰りって言いたかったから」



 生活費は両親のお金を少しずつ切り崩して、あとは親戚の援助と、殆どはバイトで稼いで何とかやりくりしていた。親戚や友人に何を言われても、頑なに、あの家から離れなかった。


 あの家を引き払ってしまったら、もう二度と帰ってこないんじゃないか。そう思ってしまうと、怖くて、あそこから動けなかったのだ。



「お兄ちゃんは絶対に帰ってくる。だって、約束したもん、『俺は何があっても陽乃のそばにいるから』って。だから私も待ってたの。ずっと、待っていたの」



 胸が痛かった。息を吸って、息を吐いて。ただそれだけのことなのに、空気が針となって肺を刺しているかのように、胸が痛かった。



「……待って、いたかったんだけどな」



 もう、待つことさえできない。


 言葉にすると、何かが決壊しそうだった。私は唇を噛んだ。泣くな、めげるな、挫けるなと、心中でおまじないのように繰り返す。見知らぬ世界の空を見上げると、残酷なまでに星が綺麗な夜だった。



「……帰りたいよ」



 あの2DKの部屋が恋しい。チェックのテーブルクロスだとか、お気に入りのマグカップだとか、古びてきたカーテンだとか、そういったものが堪らなく恋しい。一人で暮らすには広すぎる部屋だけれど、誰もお帰りとは言ってくれない部屋だけれど、それでも私は、あの場所に帰りたい。誰かの名前を呼んでも、何も返っては来なかったけれど、それでも。



「帰れなかったらどうしよう。お兄ちゃんのこともあるし、学校……来週、数学の小テストがある。そろそろ中間の範囲も発表されるし、友だちだってきっと心配するし……バイトも、無断欠勤したから店長怒ってるかも。シフトに穴を開けるからみんなに迷惑が」



 目を閉じる。瞼の裏に蘇る懐かしい風景。半日しか離れていないのに、胸を掻きむしるような寂しさが暴れ出す。


 私の世界にいた頃、主人公が異世界へと紛れこむ話ならたくさん読んだ。所謂異世界転移モノ。主人公たちは異世界で戸惑いながらも、平凡な日常に別れを告げ、冒険し、中には異世界で暮らし続ける者もいる。でもそんなの、本当は有り得ない。少なくとも私には無理だ。たとえここが理想郷のような場所だったとしても、私には無理だ。だって、捨てられない。あの世界には、私が十六年という月日を生きた痕跡が至る所に残っている。誰も、過去と完全に決別して今だけを生きるなんてこと、できない。


 私が知る人も、私を知る人も存在しない世界。そんな世界でこれから生きていくなんて、孤独と恐怖で頭がおかしくなりそうだった。


 隣でラザが動く気配がした。目を開けると、予想通り沈痛な面持ちのラザがいたので、私は笑ってみせた。



「……ごめんね、愚痴っちゃって。でももう大丈夫、聞いてくれてありが──」


「何でおまえ、笑えるんだ」



 放たれた問いに息が止まった。


 紅い瞳が私を見つめていた。直線の眼差しだった。



「毎回何っも面白くねえのに笑ってさ。黙って聞いてりゃおまえすっごい不幸じゃね?」


「ラザ」


「いきなり違う世界に飛ばされたんだろ? 理不尽すぎるだろ。受け入れるなよ。納得するなよ。笑うな、そんで」


「だって、どうしようもないじゃない」



 思わず口をついて出た言葉があった。私の意思とは無関係に、言葉が止まらない。



「笑う以外にどうしろっていうの? ねえ、教えてよ、私どうすればいいの? 泣いても喚いても、私を助けてくれる人はもういないのに」



 棘を含んだ言葉が口から放たれた次の瞬間、後悔が私の胸を締め上げた。


 わかってる、図星をつかれたからムカついたのだ。気づかないふり、諦めたふり、受け入れたふりをしてやり過ごす方がずっと楽なのにって。どうせ助けてくれないのに、って。でも、こんなこと言っちゃダメだったのはわかる。ラザを、傷つけたかったわけじゃない。


 謝ろうとした私だが、その前にラザがいきなり動いた。


 月明かりに白刃が閃く。同時に、金属と金属がぶつかり合う甲高い音。いつの間にか抜刀していたラザが叩き落としたのは、鋭利なダガーナイフだった。



「!?」


「誰だ!」



 背後に私を庇ったラザが叫ぶ。私たちが見つめる先、路地の暗がりから、現れる影があった。


 黒いローブを身に纏った若い女だった。知らない顔だ。無表情で、無機質で、硝子玉のような赤い目をしていた。幽鬼のような佇まいをした異様な女に鳥肌が立つ。



「これは失礼いたしました。貴方は邪魔なので、殺してしまいたかったのですが」



 ローブの女が恭しく一礼する。



「カガリと申します。我が主の命でお迎えにあがりました──貴方を」


「私を……?」



 まじまじと女を見つめるが、やはり見覚えはない。一切の温もりを感じさせない瞳はやはり恐ろしかった。小さな声で知り合いかと問うラザに、違うと返す。



「ヒノはおまえなんか知らないって言ってるけど? ……ヒノ、走れるか」


「! うん」



 私に向けられた囁き声に頷く。よし、と呟いて、ラザが剣を抜いていない方の手でポケットから何かを取り出した。



「私とともに、どうか──」


「忠告だけど、しつこい女は嫌われるらしいぜ! ってなわけだから、じゃーなっ!」



 言葉とともにラザが何かを女に向かって投げつけた。次の瞬間、爆発的に白い煙が広がり、視界が塗り潰される。煙幕だと理解する前に、私の手をラザが掴む。



「走るぞ!」


「うん!」



 夜の街を私たちは疾走する。ラザに手を引かれ、荒くなる息やもつれそうになる足さえ忘れて、私は走る。繋いだ手が熱い。



 ──長い夜が、始まる。

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