11.手を伸ばす理由
目を開けて最初に飛び込んできたのは、夜空──ではなく。瑠璃に金箔を散らせたような二つの瞳だった。
「……ティア?」
「ニァ」
ゆっくりと項垂れていた頭を起こすと、頭痛と埃っぽさが私を迎えた。
「う……ここ、は?」
殺風景な部屋だった。質素な板壁に、板戸がついた窓、砂埃にざらついた床板、天井には剥き出しの梁。出口は引き戸が一つ。倉庫とか、山小屋のような雰囲気だ。身体は縄で縛られていて身動きが取れない。ティアもまた、胴に縄をかけられて私と繋がれていた。
私たちの他には誰もいない。外に見張りがいるのかもしれないが、私をここに連れてきたであろうカガリの姿は見えなかった。
縛られた体が痛い。悪いようにはしないんじゃなかったのかよと、私は苦々しい思いを吐き出そうとして──できなかった。代わりに視界が揺らぐ。
「っ、何でよ……何で、こんな目に遭わなきゃいけないの……!」
唇を噛み締め、肩を震わせた。鼻の奥がつんとする。
「もうやだ……帰りたい……帰りたいよぅ……」
声を聞いて。川に引き摺り込まれて。目が覚めたら異世界で。化け物に殺されそうになって。訳も分からないまま攫われて。
人間の精神は、混乱が過ぎるとゆっくりと摩耗していくらしい。現に今、怖くて怖くて、私の心臓は凍りつきそうだった。
目頭が熱くなる。子どものように泣き喚くことができたらどれだけ楽になるだろう。それでも私は唇を噛み、嗚咽を殺す。泣いたって、何も変わらない。助けてくれる人なんていない。
『その人』が帰ってくるまで、泣かないと決めた、だから。
そんな私をティアが見上げていた。大丈夫だよ、と何とか頷き、私は目を開ける。良かった、涙は零れなかった。
「平気、だよ。大丈夫。ごめんね、ティア。私のせいで巻き込まれたんだよね。痛いよね、本当にごめん……」
ティアだけではない。意識が途切れる間際に見た、鉄の槍に貫かれたラザの姿が脳裏をよぎる。私を助けようとして、傷ついたラザの姿が。
(大丈夫……セダさんがきっと、治してくれるはず)
無理矢理に己を納得させる。私のせいでラザも、セダさんも、ティアも、危険な目に合わせてしまった。謝っても到底許されることではないだろうが、心中で謝罪する。──もう、会えるかわからないし。
首を降って思考を切り替える。今はとにかく、ティアだけでも逃がさなければ。
私は体を捩ったが、縄は緩む気配を見せなかった。私を縛るロープも、ティアと私を繋ぐロープも、なかなか丈夫そうだ。可能性は低いが、噛み切るしかないのかもしれない。
覚悟を決めた私を眺めていたティアの耳が、ぴんと立った。え、と思う間も無く、私の横に飛び込むようにして床に転がる。目を閉じ、ぴくりとも動かない。
程なくして、人の声が聞こえ。
小屋の扉がゆっくりと、軋んだ音を立てて開かれた。
✳︎✳︎✳︎
──テュムルスの街、裏通りにて。
ヒノとカガリの姿が虚空に消える。三つ数えて何も起きないことを確認し、セダウェンは手にした精霊水晶を振るい、水乙女に治癒を指示しつつラザを解放する。
「っ、たぁあ!」
「治すから黙ってろ」
地面から生えた鉄の槍は、セダウェンが触れると呆気なく解呪され、跡形もなく霧散した。支えがなくなったせいで地面に倒れこんだラザの上に、癒しの雨が降り注ぐ。瞬く間に傷が塞がったラザは、起き上がると地面に落ちたままだった自分の双剣を回収する。
いくら塞いだとはいえすぐに動ける傷ではないはずだが、付き合いが長い分ラザの体力の無尽蔵さは知っているので、セダウェンは何も言わない。
軽く屈伸して動けることを確認した後、ラザがセダウェンに向き直る。時間が惜しい、と言わんばかりの、焦ったような声音で。
「ヒノを助けに行かねえと!」
予測していた言葉に、セダウェンも用意していた言葉を返した。
「何のためにだ」
「何のために、って」
「まだ懲りねえのか馬鹿。……あいつの目的はあの娘だった。俺たちは巻きこまれただけだ」
襲撃者たち──おそらくは酒場の店員が口にした、近隣の村を襲っているという盗賊団だろうが、彼らはあのカガリという男に焚きつけられただけだろう。妙なことに巻きこまれたのは腹立たしいが、もはや怒号や悲鳴は聞こえない。自分たちも随分倒したし、街の駐屯兵団や宰相の私兵たちも流石に事態の平定に動いているはずだ。騒ぎが収束しつつあるならば、気にせず宿に帰ればいい。
つまり、助ける理由がない。
それに、とセダウェンは冷静に述べていく。
「あいつを狙ったっつーことは、あいつがこの世界に迷い込んだのと関係あるんじゃねえか?」
「……あ」
「カガリとやらがあいつをこの世界に呼び寄せたんなら、そいつ説得して帰るだろう」
よって助けになどいく必要はない。セダウェンはそう締めくくり宿に戻ろうとした。その背に声がかかる。追いすがるような声だった。
「けど! あいつがヒノをここに喚んだ犯人として、こんなことするやつがまともなわけねーじゃん! 」
「だからどうした」
「ほっとけねぇよ!」
「何で」
取りつく島もない、とはこのことだった。
「同情か?」
ラザが言葉に詰まった。セダウェンは厳しい目を向ける。
「だってあいつ……ヒノ、ひとりなんだろ? ほっとけねぇよ」
「ラザ。俺たちは正義の味方じゃねえんだ。かわいそうだからって助けて、孤独を哀れんでそばにいるのか? いつまで?」
ラザは答えられない。反論はできずとも納得はしていないのか、拳を握る手に力が込められたのが見えた。セダウェンは畳み掛ける。
「今助けてもこの先ずっとってわけにはいかねぇだろうが。なら最初から助けるな、あいつのためにならない」
重く、冷たく、そして正しい言葉だった。助けようとして手を伸ばし、その後に差し出したはずの手を引っ込めること。それが何よりも残酷なことだと──ともすれば、ただ突き落とすよりも残酷なことだと、知っている人間の言葉だった。
「……それは、あいつのことも言ってんの?」
ラザが俯いていた顔を上げた。双眸が真っ直ぐにセダウェンを見据えた。熾火のような、強い光を宿した双眸だった。
「なあ、セダ。何でそんなこと言うんだよ。ほんとは気になってるし、助けになってやりたいって思ってるくせに!」
「んなわけねえだろうが!」
「いーや、あるね! セダは偏屈で頑固でへそ曲がりだから、わざと思ってるのと違うこと言ってるだけだ!」
「……馬鹿だ馬鹿だと思ってたがここまでとはな。そんなに行きたいなら勝手にしろ、俺は降りる」
埒があかないと判断したのか、舌打ちを一つしてからセダウェンは今度こそ路地を後にしようとする。
「意味はある!」
その背に向かってラザが叫ぶ。
「そりゃいつもずっとは無理だよ、そんなのわかってる──でもヒノが言ったんだ! 『助けられたことがあるのとないのとじゃきっと違う』って! 『救われたって思う』って!」
だからありがとう、と笑った少女を思い出す。
よく笑う少女だった。心からの笑顔ではなく。嬉しいから笑うのではなく。泣かないように──折れないために。結果ではなく、手段として笑みを浮かべる少女だった。
だってそうするしかないじゃない、誰も助けてくれないんだから。夜の底でひとり、悲鳴のような叫びをあげた彼女に、あの時、何も言ってやれなかった。だから言わなければならない。
会って、会いに行って、そして言わなければならない。
「一度きりだっていい。意味はある。……救われた側が言うんだから間違いないよ」
「──」
セダウェンはもう、何も言わなかった。彼もまた思うところはあるのだろうが、背を向けているので表情は窺い知れない。溜息を一つ吐いてラザを振り返った彼は、完全にいつも通りの、不機嫌そうな表情だった。
「風翅精」
セダウェンが虚空に向かって呼びかけると、虚空に薄緑の渦が生まれ、やがて掌ほどの小さな、翅の生えた半透明の子供が現れた。新たな精霊の召喚に、今までセダウェンの背後に控えていた水乙女が威嚇するように水の身体を揺らめかせるが、セダウェンが労うように髪を撫でると、すぐに姿を消した。
「助けに行くだのなんだのほざいてたが、絶対おまえ場所わかってねえだろ」
「あ」
「『あ』じゃねえよまったく馬鹿。この馬鹿。……風翅精、契約のもと命ずる。あの小娘どもの居場所を探せ」
セダウェンの命令を聞き届けた精霊が、翅の鱗粉を散らしながら、未だ夜明けの兆しも見せぬ空へと飛び上がった。
✳︎✳︎✳︎
──話し声は二つ。
「それで? わざわざ様子を見に来たんで?」
「貴方方に任せておきたくはないからな」
「……そうですかい」
冷たい声。その主を私は知っていた。身体が緊張に強張るが、必死に気絶しているふりを続ける。
足音が近づき、私のすぐそばに膝をつく気配があった。
「一体その小娘、何者で?」
「答える必要性を感じない」
「……」
相手の男は明らかに苛立っており、舌打ちを一つ漏らした。
カガリの方の感情は窺い知れないが、目を閉じていてもじっと視線が注がれているのがわかるので、ひたすらに居心地が悪い。背中に嫌な汗をかく。
空気が、動くのを感じた。衣擦れの音が間近に迫って聞こえる。何かされるのではと危惧したが、予想に反して、そろりと戻された気配を感じた。
(……?)
触れようとして、触れなかった。そんな気配だった。
生じた違和感について深く考える前に、会話が進んでいく。
「……頭領があんたに協力しろっつったからするが。忘れるなよ、俺たちは納得しちゃいねえ。テュムルスへの襲撃で随分こっちもやられたんだ、正直俺ァ今すぐにでもあんたを」
「カガリ殿! 頭領がお呼びです! 至急向かっていただきたい!」
物騒な台詞は、急いでこちらに向かってくる足音に遮られた。さらに増えた気配に身を硬くする。
「……とのことだ。文句は後ほど、ゆっくりと」
「……チッ」
カガリが部屋を出たらしい。程なくして、カガリに食ってかかっていた男が声を荒げた。
「気に入らねえ! なんなんだあの女は! 頭領もなんであんな奴の言いなりに……」
「それなんだが。聞いたか? ……先日葬られた皇女の話」
私の横で、もぞりとティアが身動ぎしたのを感じた。
「街に下見に行ったとき、宰相の私兵どもが話しているのを聞いたんだ。……霊廟に入ってしばらくして、遺体が盗まれたんだと」
「はぁ!? んなもん大騒ぎになるんじゃねえの!?」
(『盗まれた』? 皇女の遺体が?)
狸寝入りを決め込んでいた私も内心で驚く。
そんなはずはない。目覚めたあの場所で、祭壇に横たわっていたのがきっと皇女なのだろう。私がいたのが霊廟──皇家の墓だというのなら、遺体は盗まれてはいないのではないだろうか。
「皇族どもの死体は、墓に置いておいてしばらくしたら勝手に消えるって噂だ。早めに消えたってことにして、付き人どもは下山したらしいんだが」
あるいは、誰かが遺体を盗み出し、その後あの場所に安置した、とか。
(……わけがわからないな。……私には、関係ないけど)
「ああ、それでか? 宰相の私兵どもがいたのは」
「おそらくな。宰相は納得しなかったから探らせていたんだろう。……もしも、皇女が生きていたら」
私の横でティアが身を硬くしていた。怯えているのかと思い、寝相が悪いふりをして小さな身体に寄り添う。ふわふわした身体は、前に触れたときよりも少し冷たい気がした。
「……いや、待てよ。もしかして」
「『黒髪の娘』。黒髪なんてそうそういやしないんだ。もしかしたら、もしかするとかもだぜ」
二人がごくりと喉を鳴らしたのを聞いた。目を閉じているから定かではないが、視線がこちらに注がれているように感じる。
「……もしも、こいつを宰相の私兵に突き出したら」
「莫大な恩賞、ってやつじゃないか?」
「なるほどな、だから頭領はあの野郎に協力してるってか」
片方の男がくっくと喉の奥で笑った。
「そういやおまえ、そろそろ交代の時間じゃねえか?」
「だな。じゃ、ここを頼む」
男たちの声が遠ざかっていき、部屋から出ていくのを感じた。引戸が閉められ、錠前がかかるような音を聞く。そこから身動きせずに三十ほど数えて、やっとうっすら目を開ける。
小屋の中には、誰もいなかった。安心したらどっと汗が噴き出した。心臓が早鐘を打っている。荒い呼吸を宥めながら、音を立てずに身を起こした。立てた膝に額を当て、深く息を吸い込む。
「っ、はー、は……」
頭の中で、情報が飽和しそうだ。
皇女。霊廟。カガリ。宰相の私兵。盗賊団。──『黒髪の娘』。
私が、カガリに攫われた理由。
「……やめよう」
「……」
ティアが私を見上げていた。気づいた私はへらりと笑う。自嘲だった。
「何かわかるかも、って思ったけど、もういいや。……どうせ、何も変わらないし」
わかったところで、今更この状況が変わるわけでもない。
「なんか、疲れちゃった。もういいや……」
疲れた。わけがわからない世界に突然放り込まれて、疲れきってしまったのだ。もうどうにでもなれ、どうせ私は何もできないのだから、と思う。どうなるのだろうかと不安に思うことすら、帰りたいと願うことすら、疲れてしまった。
どうせ無駄なら、もう考えることはやめよう。不安に思ったり、願ったりするのもやめよう。へらへら笑って、大丈夫だから平気だからと嘯いて、ただ過ぎ去っていくのを待とう。
「ニァア」
「ごめんね。ティアだけでも返してあげて、って絶対にお願いするから」
「ニァ!」
「ティアは帰らないと。ラザと、セダさんがきっと待ってるもんね」
あの二人のことを想う。もう、多分会うこともないだろう。ならもっと、お礼を言っておくべきだった。お礼と、それから。
「ニァア……」
ティアが、責めるような声で、目で、私を見ていた。おまえはどうするんだと、明確に私に問うていた。小動物から目を逸らし、そっと呟く。
「もういいの。私には待たせてる人なんかいないし、帰る場所もないし。……ひとりだし。もう、いいんだ」
帰る場所があって、帰り方がわかるなら、そこに帰るべきなのだ。
カガリや盗賊団が私をどうする気なのか、わからない。ろくでもないことだろう、という予感はある。不安でたまらなくて、怖い。でも、もういい。早く終われと、ただそれだけを願う。
もうこれ以上、何も考えたくない。ゆっくりと目を閉じる。
そのとき、だった。
「……腹立たしいことこの上ないわね」
──突然生まれた白い光が、瞼の裏まで染め上げた。微かに衣擦れの音を聞く。不審に思って開いた私の目が、もう一度灼かれる。
「ッ!?」
驚いてきゅっと目を瞑る。が、三度閃光が疾ることはなかった。恐る恐る目を開けた私が最初に見たのは、結び目はそのままに床に落ちたロープと、それをしかと踏みつける、白い毛に包まれた小さな前足だった。
「……え?」
「愚図で愚鈍、おまけに根暗。何かあればめそめそして女々しいったら。負け犬根性も大概になさい」
──少女の、声だった。
大きくはない。だが、不思議とよく通る声だった。鼓膜ではなく、直接心臓を揺らすような。
呆然と、私はその声の主を見つめた。ありえないと思うのに、そうとしか思えなかった。爛々と輝く、美しい蒼い双眸から、目を逸らすことができない。
ふん、とその声の主は、傲岸不遜極まれりといった風に鼻を鳴らした。兎のような白い耳が動きに合わせてぴょこんと揺れる。
「その情けない顔を今すぐ引っ込めなさい。……張っ倒すわよ?」
小動物──紛れもなく、ティアが、告げた。




