第22話: 後日談——薬草は嘘をつかない
半年が経っていた。
朝の光が守護結界を透かし、薄紫の膜が朝霧に溶けている。畝道は去年の倍に広がり、月見草の白銀の六弁花が畝の端から端まで規則正しく並んでいる。翠玉葉は株が三倍に増え、金の葉脈が朝日を受けて眩く明滅していた。紅陽草は赤い茎を高く伸ばし、緋色の花を咲かせている。星砂草の砂金の粒が風に舞い、園全体を金色の霞で包んでいた。
銀花草は新しい区画に移植され、白銀の花弁を静かに揺らしている。もう——誰かの毒を消すためではなく、ただの薬草として、花を咲かせていた。
リリアーナは畝の端に膝をつき、月見草の根元に手のひらを当てた。灌魔。薄紫の光が指先から滲み、土に染み込んでいく。
「おはよう」
薬草に向かって言った。月見草が応えるように葉を揺らす。翠玉葉が金の葉脈を明滅させる。紅陽草が緋の花弁を傾ける。
三ヶ月前から薬師志望の若者が各地から訪れるようになり、今は三人の見習いが園に滞在している。
「先生! 朝の灌魔、見せてください!」
畝道を駆けてくる足音。南部の都市から学びに来た見習いのリーゼ。十四歳。鑑草眼の資質を持つが、灌魔の制御がまだ粗い。
「走らないでください。薬草を踏みますよ」
「は、はいっ!」
「リーゼ。月見草の株に手を当てて。——ゆっくり。癒属性の魔力を、根に向けて」
リーゼの小さな手が月見草の根元に触れた。指先から淡い青い光が滲む。リリアーナの薄紫とは違う、この子の固有の色。まだ弱い。だが芽はある。
「語りかけるように。おはようございます、と」
リーゼが素直に呟いた。「……おはようございます」
月見草の葉が——揺れた。微かに。風ではない。
リーゼの目が丸くなった。
「……応えた」
「ええ。薬草は、寄り添う手に応えるんです」
リリアーナはその光景を見ながら、微かに笑った。一年半前、荒れ地だった場所。自分一人で耕し、種を蒔き、灌魔を続けた園。それが今——人を育てる場所になっている。
昼前に、ハインツ殿が調合室に書簡を届けに来た。王都の薬師ギルドから。灰熱病の完全収束宣言と、王都の薬草園の再生報告。リリアーナが送った処方箋で疫病は収束し、送った種から新しい芽が伸び始めているという。
書簡の末尾に短い一文があった。「ハルトヴィヒ殿の薬草に、王都は救われました」
リリアーナはその一文を読んで——何も感じなかった。ただ、薬草が届くべき場所に届いた。それだけのことだった。
書簡にはもう一通、薄い便箋が挟まっていた。王都の文官からの私信。
マティアスは薬師資格を剥奪され、侍医の職も失った。調合室への影夜草混入と讒言による排除工作——全てが白日の下に晒され、王都の医師会から追放された。去り際に、誰一人として見送る者はいなかった。八年間積み上げた学院の権威は、根のないものだった。
クラウスは嫡男の後継者指名を保留とされ、弟ディートリヒが暫定の後継候補に。「マティアスの讒言を鵜呑みにし薬師の令嬢を追い出した家」——その評判は、ブレンナー伯爵家の信用を静かに蝕んでいた。
リリアーナは便箋を畳んだ。何も思わなかった。恨みは最初からなかった。ただ——もう手遅れだったのだ。半年経っても、変わらない。
午後。薬草園の手入れを終えて調合室に戻ると、扉の枠に肩を預けた姿があった。
暗い金髪。灰青の瞳。——左手首を押さえる癖は、もう完全にない。
「視察か、散歩か、どっちだ」
「どちらでもありません。調合室はわたくしの職場ですから」
「毎回言うが、俺の屋敷の一室だぞ」
「ルシアン様が仰いました。『好きに使え』と」
「……言ったな。——じゃあ好きに使っていいぞ。屋敷ごと」
リリアーナは調合台に向かいながら、軽く肩をすくめた。ルシアン様の軽口がうつったのだ。
「屋敷ごとは管理が大変です。薬草園で手一杯ですわ」
「じゃあ薬草園と俺だけでいい」
「……ルシアン様は薬草ではございませんので、管理の対象外です」
「冷たいな」
「薬は冷えていた方が保存に適していますもの」
ルシアン様が笑った。灰青の瞳ごと笑う、あの笑顔。最近は——こちらの方が多くなった。
左手の薬指に、細い銀の環がある。
一ヶ月前に結ばれた婚姻の証。式は質素だった。薬草園の中での式。月見草の白銀の花と翠玉葉の翡翠の葉で飾られた祭壇。領民たちが畝道に並んで祝福した。ヘルダが園の隅で腕を組んで見ていた。泣いてはいなかった。目を細めて、満足そうに頷いていた。
リリアーナは白いローブを着た。花嫁衣裳ではなく——仕立ての良い、薬師のローブ。腰にはいつもの薬草ポーチ。
「式の日くらいポーチを外したらどうだ」
「薬師はいつでも調合できなければなりません」
「……お前らしいな」
ルシアン様は笑って、それ以上は言わなかった。リリアーナの手を取り、薬草の汁で薄く染まった指に銀の環を通した。
「綺麗な手だ」
三度目の、同じ言葉。畝の端で並んで座った春の夕暮れ。薬束を受け取った朝。そして——環を通した、この日。同じ言葉が、そのたびに少しずつ深くなっていく。
夕暮れ。
調合室の仕事を終え、リリアーナは薬草園に出た。夕日が守護結界の薄紫を茜色に染めている。
畝道を歩き、園の奥に向かった。
星霜花の前で、足が止まった。
——咲いていた。
小さな薬草畑の片隅で、星霜花が初めての花を咲かせていた。
ハルトヴィヒ領の星霜の庭では大輪の花を咲かせていた。辺境の園で咲いた花は、掌に収まるほど小さい。白い花弁が五枚、夕日に染まって淡い桃色に輝いている。茎は細く、葉は小さく、風が吹けば折れてしまいそうなほど頼りない。
けれど——確かに、咲いた。
リリアーナの膝が折れた。畝道の土に膝をつき、星霜花の前にしゃがみ込んだ。
母の庭から持ち出した種。追放の夜に懐に入れ、馬車の中で握りしめた数粒の種。辺境の寒い土に蒔き、十ヶ月以上かけて根を張らせた。蕾がつき、ふくらみ、薄皮が割れ——そして今日、花が開いた。
掌に収まるほど小さい。だが——ちゃんと咲いた。
「きれいだねえ、この花」
しわがれた声が、背後から聞こえた。
ヘルダだった。
白髪を団子にまとめた小柄な老婆が、杖をついて畝道に立っていた。薄い茶色の目が、深い皺の奥で——柔らかく光っている。
「ヘルダさん」
「通りかかったんだよ。夕方の薬草摘みの帰りにね。——あら、咲いたんだね。あの花」
ヘルダが星霜花の前にゆっくりとしゃがんだ。膝が悪い。それでもしゃがんで、白い花を間近に見た。
「小さいねえ。でも——ちゃんと咲いてる」
「ええ。お母様の花です。ここでも、ちゃんと咲いてくれました」
リリアーナは小さな白い花に指先を伸ばした。薬草の汁で染まった指が、花弁にそっと触れる。
「よく頑張ったね。ここは寒いのに、ちゃんと根を張ったんだ」
花が風に揺れた。
応えてくれたような気がして——リリアーナは目を細めた。星霜の庭で、毎朝そうしていたように。
「大切なものは、ちゃんと根を張るもんだよ」
ヘルダが静かに言った。
「人もね」
リリアーナは——笑った。目の奥が熱くなった。泣きはしない。追放の夜も泣かなかった。クラウス様を拒んだ時も泣かなかった。ルシアン様に返事をした朝も泣かなかった。だから今も——泣かない。代わりに、静かに笑う。
「ええ。根を張りましたわ。——ここに」
足音が聞こえた。砂利を踏む、聞き慣れた足音。
ルシアン様が畝道を歩いてきて、リリアーナとヘルダの隣に立った。星霜花を見下ろしている。
「……これが、お前が大事にしてた花か」
「ええ。星霜花です。お母様が三十年かけて育てた品種の——子孫ですわ」
「小さいな」
「辺境は寒いですから。王都ではもっと大きな花を咲かせていました」
「だが——咲いたんだろう」
「はい。——ちゃんと、咲きましたわ」
ルシアン様が口元を緩めた。それからヘルダに目を向けた。
「ヘルダ殿。茶でも飲んでいかないか」
「あたしは遠慮するよ。若い二人の邪魔をするほど野暮じゃないからね」
ヘルダは杖をつきながら立ち上がった。去り際に、リリアーナの肩をぽんと叩いた。節くれだった、温かい手だった。
「お嬢ちゃん。——いい園だよ」
それだけ言って、ヘルダは夕暮れの畝道を帰っていった。
ルシアン様とリリアーナは、星霜花の前に並んで立っていた。
夕日が沈みかけている。守護結界の薄紫が夕闇に淡く光り始めている。月見草の六弁花が白銀に輝き、翠玉葉の金の葉脈が明滅し、紅陽草の緋色が夕日の名残を吸っている。星砂草の砂金が風に舞い、銀花草の白銀の花弁が静かに揺れている。
そして——星霜花の小さな白い花が、夕日に染まって桃色に光っていた。
「一年半前は石と雑草だったんだよな、ここ」
「ええ。ルシアン様が『好きに使え』と仰った場所です」
「こうなるとは思ってなかったが」
「わたくしも、こうなるとは思っておりませんでした」
薬草園のことだけを言ったのではなかった。
一年半前——王都を追われた夜、馬車の窓から白い街道を見ていた。腰のポーチに乾燥した月見草の花弁。封蝋付きの書簡。種の入った袋。それだけを持って、北へ向かった。
薬草さえあれば、どこでもやっていける。そう思っていた。間違いではなかった。
だが——薬草だけでは十分ではなかったことを、あの頃のリリアーナはまだ知らなかった。
ルシアン様が隣にいる。毒紋のない左腕。銀の環が嵌まった右手。夕日に照らされた暗い金髪。灰青の瞳が薬草園を見つめ、それからリリアーナを見た。
リリアーナは星霜花に手を伸ばした。小さな白い花弁を、指先でそっと撫でた。薄紫の光が微かに灯り、花弁が応えるように揺れた。
「薬草は嘘をつきませんの」
声に出した。穏やかに。笑みを含んだ声で。
「——人と違って」
あの夜と同じ言葉。だが声の色が違った。あの夜は——冷たく、凪いだ声だった。今は——穏やかだった。幸福の中の、静かな声だった。
隣でルシアン様が肩をすくめた。
「俺も嘘はつかないぞ。——冗談は言うが」
「存じております」
リリアーナは——笑った。
泣かなかった。追放の夜も泣かなかった。クラウス様を拒んだ時も泣かなかった。告白の返事をした朝も泣かなかった。そして今も——泣かない。代わりに、静かに笑う。紫の瞳ごと。穏やかで、揺るぎなくて、どこまでも凪いだ笑顔。
薬師令嬢は、静かに笑う。
あの夜とは違う場所で。あの夜とは違う人の隣で。あの夜と同じ言葉を——今度は、幸福の中で。
追い出された薬師は、新しい土地で新しい庭を作った。枯れた庭は戻らない。けれど種が一つあれば、どこでもやり直せる。
星霜花の小さな白い花が、夕風に揺れた。
辺境の薬草園は、今日も静かに花を咲かせている。
最終話まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
全二十二話、「薬師令嬢は静かに笑う」——これにて完結です。
星霜花が咲きました。母が三十年かけて育てた品種の種を、追放の夜に懐に入れ、辺境の寒い土に蒔き、十ヶ月以上かけて——ようやく。掌に収まるほど小さい。けれど、ちゃんと咲いた。「よく頑張ったね」と語りかけるリリアーナと、「きれいだねえ、この花」と目を細めるヘルダ。短編「薬草は嘘をつかない」のあの場面を、連載の最終話に再現しました。
マティアスは去り際に誰も見送らなかった。短編で侯爵が「その学院が、今この領地で何の役に立っている!」と一喝した、あの結末です。根のない権威は、最後には何も残らない。
タイトル回収について。「薬師令嬢は静かに笑う」——第一話のリリアーナは笑いませんでした。クラウスを拒絶する時に「静かに笑う」が現れ、告白の返事の朝に泣かずに笑い、そして最終話——星霜花の前で、「薬草は嘘をつきませんの」と穏やかに笑う。同じ「静かに笑う」が、拒絶と幸福で全く違う意味を持つ。そうなるように、二十二話かけてきました。
読者の皆様。ブックマーク、評価、感想の一つ一つが、次の話を書く力になりました。心から感謝いたします。
歩人
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。他作品は作者ページ(https://mypage.syosetu.com/1410792/)にて公開中。
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