第21話: 満開の薬草園
三日が経っていた。
ルシアン様は何も変えなかった。調合室に顔を出す時間も、薬草園の柵にもたれる姿勢も、いつもと同じだ。銀花毒は消えた。苦い薬を飲む必要はもうない。なのに朝の薬草茶だけは相変わらず受け取りに来て、「今日も苦いな」と言い、リリアーナが「薬草茶は薬ではありませんので」と返す。
いつもと同じだ。
違うのは——ルシアン様が調合室に入ってくるたびに、リリアーナの頬が勝手に熱くなることだけだった。
朝の灌魔を始める。畝道に膝をつき、月見草の株に手を置いた。薄紫の光が指先から滲み、根に染み込んでいく。日課だ。辺境に来てから一日も欠かしたことのない、薬師の務め。
「おはよう」
薬草に向かって言った。月見草が応えるように葉を揺らす。
この三日間、リリアーナは薬草園にいた。
朝の灌魔。午前の手入れ。午後の調合。夕方の経過観察。薬師としての日常は何も変わらない。変わったのは——畝の間に膝をつくたびに、ルシアン様の声が耳に蘇ることだけだった。
好きだ。——冗談じゃなく。
反芻するだけで頬が熱くなる。薬草に触れれば心が凪ぐはずなのに、今日は月見草の花弁を撫でても、翠玉葉の金の葉脈をなぞっても、頬の熱が引かない。
「……困りましたわ」
薬草に向かって呟いた。三日前にも同じことを言った。
困っている理由は明確だった。ルシアン様のお気持ちがわからないのではない。あの言葉が冗談でないことも、もう疑っていない。
わからないのは——自分の気持ちだった。
翠玉葉の群落の前に移り、葉の裏の金色の葉脈を指でなぞった。灌魔の残光が薄紫に染みて、葉脈が応えるように明滅する。
リリアーナ・フォン・ハルトヴィヒは、恋を知らない。
クラウス様との婚約は政略だった。七歳で決まり、十五歳で正式に結ばれ、二十歳で破棄された。その十三年間、クラウス様に胸が高鳴ったことは一度もなかった。
恋愛は辞書にない言葉だった。薬草の学名は千種以上暗記しているのに、この感情だけは——参照すべき文献がない。
ふと——前世の記憶が、夢のように浮かんだ。
白い部屋。消毒液の匂い。白田莉子の手が、薬を数えている。前世の調剤室。患者に寄り添い、「お大事に」と送り出す日々。
莉子も——恋愛には縁がなかった。仕事が好きだった。患者が回復した時の喜び。それ以上のものを求めなかった。
ルシアン様の銀花毒が消えた日。「どこも——痛くない」と掠れた声で言った時。あの時の胸の震え。
薬師としての喜びなら名前がつけられる。「治療の成功」と呼べる。達成感と分類できる。
なのに——三日経っても、静まらない。
ルシアン様が調合室に来ると、胸が跳ねる。ルシアン様が帰ると、調合室が少しだけ広く感じる。ルシアン様が薬草茶の場所を覚えていることが——なぜか、嬉しい。
前世の莉子が患者の笑顔を見た時は——安堵だった。
ルシアン様が来る時は——安堵だけではない。もっと熱くて、もっと身勝手で、もっと「この人にわたくしを見ていてほしい」という——。
リリアーナは翠玉葉から手を離した。指先が薬草ポーチに触れた。困った時の癖。
午後。調合室に戻り、銀花草の経過記録をつけていた。
記録帳の前のページを開いた。ルシアン様の治療記録。半年分の投薬と灌魔の経過が、几帳面な文字で並んでいる。最初の記録には「領主様」と書いてあった。途中から「ルシアン様」に変わっている。
そして最後の記録——三日前の日付。
「銀花毒の紋様、完全消失。治療完了」
その一行の下に、何も書いていなかった。治療が終われば、記録帳は閉じる。患者との関係も、薬師と患者のそれに戻る。
だがリリアーナは——閉じたくなかった。
この人との日々を、「治療記録」という枠の中で終わらせたくない。
——ああ。
リリアーナは羽根ペンを置いた。
そういうことか。
薬師としての充足ではない。これは——もっと個人的で、もっと「ルシアン様」という一人の人に向いた感情だ。
薬草だけでは十分ではなかった。
その言葉が、リリアーナの内側で、はっきりとかたちを持った。
翌朝。
薬草園が、満開を迎えた。
月見草の白銀の六弁花が、畝の端から端まで波のように咲き誇っていた。翠玉葉は葉の枚数がさらに増え、翡翠の表面を走る金の葉脈が朝日を受けて眩く明滅している。紅陽草は赤い茎の先端に緋色の花を咲かせ、朝日を浴びて花弁が仄かに発光していた。星砂草の葉に散る砂金の粒が風に乗って舞い上がり、園の空気を金色に染めている。銀花草は新しい花芽が開き、白銀の花弁が朝の光に輝いていた。
守護結界の薄紫が朝霧に溶け、五色の花と光が重なり合い——薬草園が、宝石箱のように輝いていた。
そして——薬草園の奥で、星霜花の蕾が朝の光に震えていた。
白い薄皮が大きく割れ、中から白い花弁の先端が覗いている。まだ完全には開いていない。だが——今にも、開きそうだった。蕾の表面に朝露の粒が光り、花弁の筋が白く透けて見えている。
開花まで、あと一日か二日。
リリアーナは息を呑んだ。満開の薬草園と、開花間近の星霜花。
この園は——ルシアン様がくれた場所だ。
追放された夜、行く宛てのなかったリリアーナを受け入れてくれた人。荒れ地を「好きに使え」と差し出してくれた人。薬草の話を——面倒だと言いながら、最後まで聞いてくれた人。
リリアーナは立ち上がった。
決めた。
調合室で、薬草の花束を作った。
月見草の白銀の花を三本。翠玉葉の翡翠の葉を添えて。紅陽草の緋色の花を一輪。星砂草の砂金の葉を二枚。そして銀花草の白銀の花弁を——一枚だけ、中央に。氷雪蘭の葉を束の根元に巻いた。
花束ではない。薬束だ。
全ての素材が薬効を持つ。飾りのためではなく、意味がある。月見草は癒属性。翠玉葉は再生。紅陽草は浄化。星砂草は守護。銀花草は——毒を消す花。
この束に嘘はない。全てが本物で、全てが薬草で、全てがリリアーナの園で育ったものだ。
薬草は嘘をつかない。
——わたくしも、嘘はつけませんの。
薬草園の中央で待った。
風が吹いた。月見草の花弁が揺れ、星砂草の砂金が舞い、紅陽草の花が光った。
満開の薬草園の中で、リリアーナは薬束を胸の前に抱えていた。手は震えていない。心は震えている。だが——指先は安定していた。調合と同じだ。一番大切な瞬間ほど、手を止めてはいけない。
足音が聞こえた。聞き慣れた足音。
ルシアン様が柵の門をくぐった。暗い金髪に朝日が射し、灰青の瞳が——まず薬草園を見渡し、それからリリアーナを捉えた。
「呼び出しとは珍しいな。——何だ、また薬草の説明会か」
軽口だった。だが灰青の瞳の奥に、剥き出しの静けさがあった。
「お返事を、いたします」
ルシアン様の足が止まった。灰青の瞳が僅かに見開かれた——が、すぐに表情を整えた。だがコートの裾を握る右手だけが、この人の本心を裏切っていた。
リリアーナは一歩、前に出た。薬束を差し出した。
「薬草は嘘をつきません」
声が震えなかった。ここだけは——薬師として、真実を語る声で。
「……わたくしも、嘘はつけませんの」
ルシアン様が薬束を見ていた。それからリリアーナの顔を見た。
「——で、それは俺にわかる言葉で言うと?」
掠れた声だった。だが——声の底が震えていた。
リリアーナは——笑った。
泣かなかった。涙の代わりに、笑った。口元だけではなく、紫の瞳ごと。満開の花に囲まれて——穏やかで、静かで、揺るぎない笑顔。追放の夜も泣かなかった。クラウス様を拒んだ時も泣かなかった。だから今も泣かない。代わりに——心が震えるままに、笑った。
「わたくしも——お慕いしております」
真っ赤だった。頬も、耳も、首筋も。笑っているのに真っ赤だった。この言葉を口にするのは——二つの人生を通じて、初めてのことだった。
ルシアン様は動かなかった。一秒。二秒。
それから薬束を受け取った。長い指が、薬草の茎を一本ずつ丁寧に握る。薬草の名前はろくに覚えない人が、壊さないように、潰さないように——大切に。
「……全部、薬草か」
「はい。全て薬効があります。月見草は癒属性で、傷の修復に優れた——」
「説明はいい」
ルシアン様が——笑った。灰青の瞳ごと笑っている。飄々《ひょうひょう》の殻を全部脱ぎ捨てた、本当の笑顔。
「花束じゃなくて薬束を渡してくるのは、お前くらいだ」
「花束では嘘になりますから。わたくしは薬師ですので」
「ああ。——知ってる」
ルシアン様が薬束を左手に持ち替えた。毒紋のなくなった、自由な左手で。右手がリリアーナの手に触れた。薬草の汁で染まった、爪の際まで色が入り込んだ手に。
「綺麗な手だ」
あの日と同じ言葉だった。ルシアン様が初めて「リリアーナ」と呼んだ日。あの時は意味がわからなかった。今は——わかる。
「……婚約の話、してもいいか」
ルシアン様が言った。
「前の婚約がああだったから、お前は嫌かもしれないが——」
「いいえ。あれとは——違います」
クラウス様との婚約は政略だった。リリアーナの意思は関係なかった。
だが今回は——リリアーナ自身が選んでいる。
「ただ、父にも知らせなくてはなりませんし、辺境伯と子爵家の婚姻には手続きが——」
「お前、今すごく事務的なことを言ってるぞ」
「大切なことです」
「ああ。大切だな。——俺からも辺境伯の名で一筆添える。『当領の薬師と婚約いたしましたので、なお薬草園は辺境に残します』」
「……もう少し丁寧に書いてくださいませ」
「やっとだねえ」
声が、薬草園の裏手から聞こえた。
ヘルダだった。白髪を団子にまとめた小柄な老婆が、腰の薬草袋を揺らしながら畝道の端に立っている。手には摘んだばかりの霜晶草が握られていた。
「ヘ、ヘルダさん……いつから……」
「さっきからいたよ。薬束を作ってるのが見えたからね。何をするつもりか、ひと目でわかったさ」
ヘルダの薄い茶色の目が、深い皺の奥で光った。含み笑い——いや、満足した笑みだった。
「お嬢ちゃん。やっとだねえ」
もう一度、同じ言葉を言った。今度はリリアーナの顔をまっすぐに見て。
「薬草に話しかけてるだけじゃ、やっぱり足りなかったろう?」
リリアーナの頬が——また熱くなった。否定できなかった。
「……ヘルダさんには、何もかもお見通しですのね」
「五十年も薬草を触ってりゃね。人の顔色だって読めるようになるんだよ」
ヘルダはそれだけ言って、ルシアン様に軽く頭を下げた。
「辺境伯殿。お嬢ちゃんをよろしくお頼み申します」
ルシアン様が口元を緩めた。
「——ヘルダ殿。俺の方こそ、よろしく頼む」
「あたしに頼んでどうするんだい。薬草園の世話なら、お嬢ちゃんに頼みな」
ヘルダは杖をつきながら帰っていった。背中が小さくなる。その背中を見送りながら、リリアーナは思った。
もう一人の母。この人がいなければ——わたくしは、辺境で根を張ることができなかった。
満開の薬草園で、二人が並んでいた。
月見草の白銀と翠玉葉の翡翠と紅陽草の緋が、二人の足元で揺れている。守護結界の薄紫が朝の空を覆い、星砂草の砂金が風に舞って光を散らしていた。
そして——薬草園の奥で、星霜花の蕾が朝の光に震えていた。白い薄皮が大きく裂け、花弁の先端が白く覗いている。今にも——開きそうだった。
「ルシアン様」
「ん」
「星霜花が、もうすぐ咲きますわ」
「……あの、お前が大事にしてる花か」
「ええ。お母様の花です」
ルシアン様が薬草園の奥を見た。小さな蕾が、朝日の中で微かに揺れている。
「……いい花だな」
「まだ咲いていませんわ」
「咲く前からわかる。——大事に育てた花は、いい花になる」
リリアーナは——また、笑った。静かに。穏やかに。
毒は消えた。残ったのは、花だけだった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第二十一話「満開の薬草園」——本編のクライマックスをお届けしました。
薬束という造語について。花束ではなく「薬束」。全ての素材に薬効がある。飾りのためだけの花は一本もない。嘘のない、全てが本物の、薬師の恋文。リリアーナらしいと思いました。
そしてヘルダの「やっとだねえ」。EP003でリリアーナを迎え入れ、薬草の知恵を教え、「大切なものは、ちゃんと根を張らせてやらなきゃね」と言ったこの人が——リリアーナが自分の気持ちに名前をつけた瞬間を、薬草園の裏手から見守っていた。五十年薬草を触ってきた人には、薬束を作る姿を見ただけで全てがわかったのです。
星霜花は、まだ咲いていません。次話で——咲きます。
歩人
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