第18話: 封蝋の書簡
調合室に戻ると、ルシアン様が待っていた。
扉の枠に肩を預け、腕を組んでいる。いつもの姿勢だった。だが灰青の瞳に、今朝の軽口の色はなかった。
「リリアーナ」
「はい」
「あいつは明日、王都に発つそうだ」
クラウスのことだ。昨日の対面——薬草園の畝道で、リリアーナが背を向けた後。ルシアン様が帰路の手配を告げたらしい。
「明日の朝発つなら——今日の夕刻しか時間がありませんわね」
リリアーナは調合台の前に立ち、棚に手を伸ばした。薬学書の並ぶ隅の、小さな引き出し。指先が木の表面を探り、金具を引く。
引き出しの中に、一通の書簡があった。
薄い羊皮紙を二つ折りにし、赤い封蝋で閉じてある——が、封蝋は既に割られていた。以前、ルシアン様の前で開いた時に。
リリアーナはそれを手に取り、灯架の光にかざした。赤い蝋の断面が鈍く光る。銀の百合の紋章が、割れた蝋の中にまだ残っている。
「そろそろ、この書簡を使う時ですわ」
声は穏やかだった。怒りも、高揚もなかった。薬棚から薬材を取り出すのと同じ手つきだった。
ルシアン様の灰青の瞳が、書簡に落ちた。
「——あの書簡か」
「はい。クラウス様に、お読みいただきます」
「お前は——クラウスに直接渡すのか」
「ええ。この書簡は事実の記録ですわ。事実は、当事者が読むべきものです」
ルシアン様が目を細めた。しばらく無言でリリアーナを見つめていた。それから——ふっと、息を吐いた。
「お前がそう決めたなら、いい。——俺も立ち会う」
「ありがとうございます、ルシアン様。辺境伯のお立ち会いがあれば、この書簡は私人の告発ではなく、公の記録として扱われますわ」
「わかってて言ってるだろ」
「何のことでしょう」
場所は、城の応接間を選んだ。
石壁に灯架が四基、暖かい灯りを落とす小さな部屋。窓の外には辺境の夕暮れが広がっている。薬草園の守護結界の薄紫の光が、夕焼けの茜に溶けてぼんやりと浮かんでいた。
リリアーナは窓際の椅子に座り、書簡を膝の上に置いた。ルシアン様は暖炉の側の壁に背を預け、腕を組んでいる。領主として、立ち会い人として。
扉が開いた。
クラウスが入ってきた。
昨日の畝道での膝つきの後——疲弊は一層深まっていた。金の髪は乱れ、青い瞳は充血している。旅装を改めた正装は皺が寄り、端正な顔立ちが疲労で翳っていた。
「面会を許していただき、感謝する。——ノルトハイム辺境伯。リリアーナ」
「座ってくれ、ブレンナー伯爵嫡男殿」
ルシアン様が軽く顎で椅子を示した。
クラウスが椅子に腰を下ろした。リリアーナとの距離は、調合台一つ分ほど。
「クラウス様」
「……何だ」
「昨日、わたくしは申し上げましたわね。薬草園は枯れた。五年はかかる。手遅れだ、と」
クラウスの顔が強張った。
「今日は——別のことを、お伝えいたしますわ」
リリアーナは膝の上の書簡を手に取った。
赤い封蝋の破片がこびりついた、薄い羊皮紙。銀の百合の紋章が、割れた蝋の中に残っている。リリアーナの手は、微塵も震えていなかった。
「これを、お読みくださいませ」
クラウスの手が、書簡を受け取った。
指先が微かに震えていた。羊皮紙を開く。灯架の灯りが、リリアーナの正確な筆跡を照らした。
クラウスの青い瞳が、文字を追い始めた。
書簡の内容は——リリアーナの記憶にも、灯架の灯りにも、くっきりと刻まれている。
新任侍医マティアス・ヴェーバーが調合室に侵入した日時。夜半。リリアーナが薬草園で灌魔を行っている間に、調合室の鍵を開けて入った記録。
影夜草が調合室の棚に置かれた推定日時。リリアーナが最後に棚を確認した日から三日間。その間に調合室に出入りしたのは三名——リリアーナ、マティアス、そして清掃婦のグレーテ。
目撃者。宮廷の清掃婦グレーテ。夜勤の巡回中に、調合室から出てきたマティアスとすれ違った。その手に影夜草の黒紫の葉を持っていたのを目撃している。グレーテの署名と、リリアーナの封蝋。
そして——影夜草の入手経路。王都の裏市場の薬草商から、マティアスの手の者が購入した取引記録。日時は、調合室への侵入の五日前。
クラウスが読むにつれて——顔から、色が消えていった。
蒼白、という言葉では足りなかった。唇が半開きになり、言葉を探すように動いたが、声にならなかった。
「……これは……」
声が掠れた。喉の奥が塞がったような声だった。
「嘘だ」
最初に出た言葉が、それだった。
リリアーナは表情を変えなかった。この反応は——予見していた。
「嘘ではございませんわ、クラウス様」
「だが——マティアスが、そんなことを——」
「侵入の日時は門番の記録と一致いたします。目撃者は署名しておりますわ。影夜草の取引記録は、薬草商の帳簿に残っております」
一つ一つ、静かに。声を荒げることなく。薬師が薬効を説明するのと同じ調子で、事実を並べた。
「お前が……仕組んだのか……?」
クラウスの声が、ようやく形になった。だがそれは——リリアーナに向けた言葉ではなかった。ここにいない、灰色の瞳の男に向けた——呟きだった。
「マティアスが……あの毒草を……」
書簡を持つ手が下がった。羊皮紙が膝の上に落ちる。
「あの男の言葉を信じて——リリアーナを——」
声が途切れた。
リリアーナは、クラウスの目に何が浮かんでいるかを見た。衝撃。動揺。そして——自分が何をしたのか、ようやく理解し始めた者の、遅すぎる恐怖。
自分では何も判断できない男。マティアスの讒言を鵜呑みにし、リリアーナの薬草園を「毒かもしれぬ」と断じた家。その男が——ようやく、真実を知った。
「クラウス様」
静かに呼びかけた。
「この書簡は——報復ではございません」
クラウスが顔を上げた。蒼白な顔に、縋るような色と、怯えるような色が入り混じっていた。
「事実ですわ。マティアスが何をしたか。誰が見ていたか。それだけのことですわ」
「見せていれば、こうはならなかった……! 私は——」
「見せたところで、マティアスが別の弁解をすれば、クラウス様はそちらを信じたでしょう」
静かに。残酷なほど静かに。
クラウスの唇が——凍りついた。反論の言葉を探したのだろう。だが見つからなかった。見つかるはずがなかった。それが事実だと——自分自身が、一番よく知っているから。
「ブレンナー伯爵嫡男殿」
ルシアン様が初めて口を開いた。
壁から背を離し、一歩だけ前に出る。灯架の灯りが、暗い金髪と灰青の瞳を照らした。飄々《ひょうひょう》とした軽さは微塵もなかった。領主の声だった。
「その書簡の写しは、既に辺境伯の名で王都の宰相府に送ってある」
クラウスの目が見開かれた。
「——なに?」
「お前に読ませるのと同時に、宰相にも届くよう手配した。調査が始まるだろう。辺境伯の公印付きだ。握りつぶすのは難しい」
ルシアン様の声は平坦だった。だが——その一言一言が、クラウスの世界の残骸を静かに崩していくのを、リリアーナは見ていた。
「クラウス様」
リリアーナは最後に、静かに呼びかけた。
「わたくしの薬草は、毒ではございませんでした」
「毒を仕込んだのは、わたくしではございません。それだけのことですわ」
クラウスの目に、水の膜が張った。唇が震え、何か言おうとした。だが——何も出てこなかった。
この男が泣くのを見ても、リリアーナの心は凪のままだった。
リリアーナは立ち上がった。
「わたくしからは以上ですわ。——ルシアン様、お時間をいただきまして」
「ああ。——お前は先に上がれ。俺はもう少し、嫡男殿と話がある」
リリアーナは一礼した。深くもなく、浅くもなく。いつもの礼。
扉に手をかけた時、クラウスの声が——掠れた声が、背中にかかった。
「リリアーナ……すまなかった……」
リリアーナは振り返らなかった。
「お気遣いなく、クラウス様」
振り返らずに言った。穏やかに。柔らかく。
「わたくしは——もう、大丈夫ですから」
扉を閉めた。
応接間では、ルシアン様がクラウスの前に立っていた。腕を組み、灰青の瞳を冷たく落としている。
「嫡男殿。一つだけ聞く」
クラウスが顔を上げた。
「お前はマティアスの言葉を信じて、リリアーナの薬草を毒と断じた。——あの侍医が何をしていたか、確認すらしなかったのか」
答えは返ってこなかった。
ルシアン様は待たなかった。
「明日の朝、馬車を出す。王都に戻れ。——そして自分の目で確かめるといい。お前が信じた男が何をしたのかを」
全てが暴かれた。
——だが、枯れた薬草園は戻らない。
調合室に戻る途中、薬草園の傍を通った。
星霜花の区画で足を止める。
細い茎の先に——蕾がついていた。小さな、白い蕾。まだ固く閉じているが、確かにそこにある。
「……蕾だ」
声が零れた。
母の花が、この北の大地で蕾をつけた。枯れた王都の庭からは、もう何も咲かない。でもここでは——咲こうとしている。
全てが暴かれた日に、蕾がついた。偶然だろう。だが薬師は、偶然にも意味を見る。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第十八話「封蝋の書簡」——マティアスの影夜草混入の陰謀が暴かれる回です。
短編「薬草は嘘をつかない」では、マティアスは権威を盾にした讒言だけでなく、実際に影夜草を調合室に仕込む工作も行っていました。この書簡は、リリアーナが追放前に気づいていた証拠を記録したものです。事実を事実として差し出す——それが薬師にできる、唯一の報復ではない行為でした。
次話「因果の決算」では、王都で調査が始まり、マティアスの薬師資格が剥奪されます。
歩人
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