表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「その薬草は毒かもしれぬ」と追放された令嬢薬師——領地に疫病が広がったとき、彼女の薬草園はもう枯れていた  作者: 歩人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/19

第18話: 封蝋の書簡

 調合室に戻ると、ルシアン様が待っていた。


 扉の枠に肩を預け、腕を組んでいる。いつもの姿勢だった。だが灰青の瞳に、今朝の軽口の色はなかった。


「リリアーナ」


「はい」


「あいつは明日、王都につそうだ」


 クラウスのことだ。昨日の対面——薬草園の畝道うねみちで、リリアーナが背を向けた後。ルシアン様が帰路の手配を告げたらしい。


「明日の朝発つなら——今日の夕刻しか時間がありませんわね」


 リリアーナは調合台の前に立ち、棚に手を伸ばした。薬学書の並ぶ隅の、小さな引き出し。指先が木の表面を探り、金具を引く。


 引き出しの中に、一通の書簡があった。


 薄い羊皮紙を二つ折りにし、赤い封蝋ふうろうで閉じてある——が、封蝋は既に割られていた。以前、ルシアン様の前で開いた時に。


 リリアーナはそれを手に取り、灯架とうかの光にかざした。赤い蝋の断面が鈍く光る。銀の百合の紋章が、割れた蝋の中にまだ残っている。


「そろそろ、この書簡を使う時ですわ」


 声は穏やかだった。怒りも、高揚もなかった。薬棚から薬材を取り出すのと同じ手つきだった。


 ルシアン様の灰青の瞳が、書簡に落ちた。


「——あの書簡か」


「はい。クラウス様に、お読みいただきます」


「お前は——クラウスに直接渡すのか」


「ええ。この書簡は事実の記録ですわ。事実は、当事者が読むべきものです」


 ルシアン様が目を細めた。しばらく無言でリリアーナを見つめていた。それから——ふっと、息を吐いた。


「お前がそう決めたなら、いい。——俺も立ち会う」


「ありがとうございます、ルシアン様。辺境伯のお立ち会いがあれば、この書簡は私人の告発ではなく、公の記録として扱われますわ」


「わかってて言ってるだろ」


「何のことでしょう」




 場所は、城の応接間を選んだ。


 石壁に灯架が四基、暖かい灯りを落とす小さな部屋。窓の外には辺境の夕暮れが広がっている。薬草園の守護結界しゅごけっかいの薄紫の光が、夕焼けのあかねに溶けてぼんやりと浮かんでいた。


 リリアーナは窓際の椅子に座り、書簡を膝の上に置いた。ルシアン様は暖炉の側の壁に背を預け、腕を組んでいる。領主として、立ち会い人として。


 扉が開いた。


 クラウスが入ってきた。


 昨日の畝道での膝つきの後——疲弊は一層深まっていた。金の髪は乱れ、青い瞳は充血している。旅装を改めた正装は皺が寄り、端正な顔立ちが疲労でかげっていた。


「面会を許していただき、感謝する。——ノルトハイム辺境伯。リリアーナ」


「座ってくれ、ブレンナー伯爵嫡男殿」


 ルシアン様が軽く顎で椅子を示した。


 クラウスが椅子に腰を下ろした。リリアーナとの距離は、調合台一つ分ほど。


「クラウス様」


「……何だ」


「昨日、わたくしは申し上げましたわね。薬草園は枯れた。五年はかかる。手遅れだ、と」


 クラウスの顔が強張った。


「今日は——別のことを、お伝えいたしますわ」


 リリアーナは膝の上の書簡を手に取った。


 赤い封蝋の破片がこびりついた、薄い羊皮紙。銀の百合の紋章が、割れた蝋の中に残っている。リリアーナの手は、微塵も震えていなかった。


「これを、お読みくださいませ」




 クラウスの手が、書簡を受け取った。


 指先が微かに震えていた。羊皮紙を開く。灯架の灯りが、リリアーナの正確な筆跡を照らした。


 クラウスの青い瞳が、文字を追い始めた。


 書簡の内容は——リリアーナの記憶にも、灯架の灯りにも、くっきりと刻まれている。


 新任侍医マティアス・ヴェーバーが調合室に侵入した日時。夜半。リリアーナが薬草園で灌魔かんまを行っている間に、調合室の鍵を開けて入った記録。

 影夜草かげよぐさが調合室の棚に置かれた推定日時。リリアーナが最後に棚を確認した日から三日間。その間に調合室に出入りしたのは三名——リリアーナ、マティアス、そして清掃婦のグレーテ。

 目撃者。宮廷の清掃婦グレーテ。夜勤の巡回中に、調合室から出てきたマティアスとすれ違った。その手に影夜草の黒紫の葉を持っていたのを目撃している。グレーテの署名と、リリアーナの封蝋。

 そして——影夜草の入手経路。王都の裏市場の薬草商から、マティアスの手の者が購入した取引記録。日時は、調合室への侵入の五日前。


 クラウスが読むにつれて——顔から、色が消えていった。


 蒼白、という言葉では足りなかった。唇が半開きになり、言葉を探すように動いたが、声にならなかった。


「……これは……」


 声が掠れた。喉の奥が塞がったような声だった。


「嘘だ」


 最初に出た言葉が、それだった。


 リリアーナは表情を変えなかった。この反応は——予見していた。


「嘘ではございませんわ、クラウス様」


「だが——マティアスが、そんなことを——」


「侵入の日時は門番の記録と一致いたします。目撃者は署名しておりますわ。影夜草の取引記録は、薬草商の帳簿に残っております」


 一つ一つ、静かに。声を荒げることなく。薬師が薬効を説明するのと同じ調子で、事実を並べた。


「お前が……仕組んだのか……?」


 クラウスの声が、ようやく形になった。だがそれは——リリアーナに向けた言葉ではなかった。ここにいない、灰色の瞳の男に向けた——呟きだった。


「マティアスが……あの毒草を……」


 書簡を持つ手が下がった。羊皮紙が膝の上に落ちる。


「あの男の言葉を信じて——リリアーナを——」


 声が途切れた。


 リリアーナは、クラウスの目に何が浮かんでいるかを見た。衝撃。動揺。そして——自分が何をしたのか、ようやく理解し始めた者の、遅すぎる恐怖。


 自分では何も判断できない男。マティアスの讒言を鵜呑みにし、リリアーナの薬草園を「毒かもしれぬ」と断じた家。その男が——ようやく、真実を知った。


「クラウス様」


 静かに呼びかけた。


「この書簡は——報復ではございません」


 クラウスが顔を上げた。蒼白な顔に、縋るような色と、怯えるような色が入り混じっていた。


「事実ですわ。マティアスが何をしたか。誰が見ていたか。それだけのことですわ」


「見せていれば、こうはならなかった……! 私は——」


「見せたところで、マティアスが別の弁解をすれば、クラウス様はそちらを信じたでしょう」


 静かに。残酷なほど静かに。


 クラウスの唇が——凍りついた。反論の言葉を探したのだろう。だが見つからなかった。見つかるはずがなかった。それが事実だと——自分自身が、一番よく知っているから。




「ブレンナー伯爵嫡男殿」


 ルシアン様が初めて口を開いた。


 壁から背を離し、一歩だけ前に出る。灯架の灯りが、暗い金髪と灰青の瞳を照らした。飄々《ひょうひょう》とした軽さは微塵もなかった。領主の声だった。


「その書簡の写しは、既に辺境伯の名で王都の宰相府に送ってある」


 クラウスの目が見開かれた。


「——なに?」


「お前に読ませるのと同時に、宰相にも届くよう手配した。調査が始まるだろう。辺境伯の公印付きだ。握りつぶすのは難しい」


 ルシアン様の声は平坦だった。だが——その一言一言が、クラウスの世界の残骸を静かに崩していくのを、リリアーナは見ていた。


「クラウス様」


 リリアーナは最後に、静かに呼びかけた。


「わたくしの薬草は、毒ではございませんでした」


「毒を仕込んだのは、わたくしではございません。それだけのことですわ」


 クラウスの目に、水の膜が張った。唇が震え、何か言おうとした。だが——何も出てこなかった。


 この男が泣くのを見ても、リリアーナの心は凪のままだった。


 リリアーナは立ち上がった。


「わたくしからは以上ですわ。——ルシアン様、お時間をいただきまして」


「ああ。——お前は先に上がれ。俺はもう少し、嫡男殿と話がある」


 リリアーナは一礼した。深くもなく、浅くもなく。いつもの礼。


 扉に手をかけた時、クラウスの声が——掠れた声が、背中にかかった。


「リリアーナ……すまなかった……」


 リリアーナは振り返らなかった。


「お気遣いなく、クラウス様」


 振り返らずに言った。穏やかに。柔らかく。


「わたくしは——もう、大丈夫ですから」


 扉を閉めた。




 応接間では、ルシアン様がクラウスの前に立っていた。腕を組み、灰青の瞳を冷たく落としている。


「嫡男殿。一つだけ聞く」


 クラウスが顔を上げた。


「お前はマティアスの言葉を信じて、リリアーナの薬草を毒と断じた。——あの侍医が何をしていたか、確認すらしなかったのか」


 答えは返ってこなかった。


 ルシアン様は待たなかった。


「明日の朝、馬車を出す。王都に戻れ。——そして自分の目で確かめるといい。お前が信じた男が何をしたのかを」


 全てが暴かれた。


 ——だが、枯れた薬草園は戻らない。




 調合室に戻る途中、薬草園の傍を通った。


 星霜花せいそうかの区画で足を止める。


 細い茎の先に——蕾がついていた。小さな、白い蕾。まだ固く閉じているが、確かにそこにある。


「……蕾だ」


 声がこぼれた。


 母の花が、この北の大地で蕾をつけた。枯れた王都の庭からは、もう何も咲かない。でもここでは——咲こうとしている。


 全てが暴かれた日に、蕾がついた。偶然だろう。だが薬師は、偶然にも意味を見る。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第十八話「封蝋の書簡」——マティアスの影夜草混入の陰謀が暴かれる回です。


短編「薬草は嘘をつかない」では、マティアスは権威を盾にした讒言だけでなく、実際に影夜草を調合室に仕込む工作も行っていました。この書簡は、リリアーナが追放前に気づいていた証拠を記録したものです。事実を事実として差し出す——それが薬師にできる、唯一の報復ではない行為でした。


次話「因果の決算」では、王都で調査が始まり、マティアスの薬師資格が剥奪されます。


歩人


☆ブックマーク・評価・感想をいただけると、次話の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
これこんなのを侯爵家に送り込んだ学院も調査されるんじゃね?毒草とわかって持ち込んでるんだからどういう教育してるんだって
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ