表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「その薬草は毒かもしれぬ」と追放された令嬢薬師——領地に疫病が広がったとき、彼女の薬草園はもう枯れていた  作者: 歩人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/18

第17話: お断りいたします

 朝の灌魔かんまを終え、調合室に戻ろうとした時だった。


 ルシアン様が薬草園の入口に立っていた。軍服風のコートの襟を立て、腕を組んでいる。いつもの飄々《ひょうひょう》とした姿勢だが——目が笑っていなかった。


「リリアーナ」


「はい」


「昨日の客が、まだいる」


 昨日。ブレンナー伯爵家の馬車が辺境に着いた日。仰々しい護衛を連れた一行を、リリアーナは調合室の窓から見ていた。青地に金の獅子の紋章。そして——金髪の、背の高い男の姿。

 面会を求められたが、銀花草ぎんかそうの解毒薬の精製が山場だった。嘘ではない。本当に手が離せなかったのだ。


「今朝も面会を求めてきた。今度は正式な要請書付きだ」


 ルシアン様が懐から羊皮紙を取り出した。封蝋ふうろうに押された紋章は、やはり青地に金の獅子。


「断ってもいい。俺はそうしたいが——お前の判断だ」


 灰青の瞳が、リリアーナをまっすぐに見ていた。問いかけているのではない。どちらを選んでも構わない、と伝えている目だった。


 リリアーナは一瞬だけ、腰の薬草ポーチに指を触れた。乾燥した月見草つきみそうの花弁の感触。いつもの癖だ。

 だが——指は、震えなかった。


「お会いします」


 声は穏やかだった。なぎのように静かだった。


「わたくしから申し上げることが、ございますので」




 場所は、薬草園を選んだ。


 リリアーナが選んだのだ。会議室でも謁見の間でもなく、薬草園の中央の広い畝道うねみち。左右に月見草と翠玉葉すいぎょくよう紅陽草こうようそうが並ぶ、陽当たりの良い一画。

 意図はなかった——と思う。ただ、ここが一番落ち着く場所だった。それだけのこと。


 だが結果として、クラウス・フォン・ブレンナーは、リリアーナが一から育てた薬草園の真ん中に立つことになった。


 クラウスが畝道を歩いてくるのを、リリアーナは調合室の前で待っていた。


 変わっていた。

 マティアスの讒言を鵜呑みにし、婚約を破棄した日の面影は——薄くなっていた。金の髪は整えられているが、以前のような自信に満ちた光沢がない。青い瞳は充血し、目の下に隈が刻まれている。頬がげ、肩が微かに落ちている。


 クラウスの足が止まった。


 畝道の左右に目をやっている。月見草の白銀の花弁が朝の光に輝き、翠玉葉の翡翠色の葉が金色の葉脈を走らせている。紅陽草の赤い茎がまっすぐに伸び、星砂草ほしずなそうの砂金の粒が朝露に濡れて光っていた。守護結界しゅごけっかいの薄紫の障壁が、上空にうっすらと光っている。


 青い瞳が——見開かれた。


 クラウスは薬草を知らない。薬学に興味を持ったことがない。だが——美しさは、わかるのだ。

 ここにあるものが、かつて王都にもあったものだと。そしてそれが、今の王都にはもうないものだと。


「……リリアーナ」


 クラウスの声が落ちた。かすれていた。


「久しいな」


「お久しゅうございます、クラウス様」


 リリアーナは一礼した。深くもなく、浅くもなく。礼儀の型を一分の狂いもなく踏んだだけの——そういう礼だった。




 二人の間に、数歩の距離があった。


「……見事な薬草園だ」


 ようやく出た言葉が、それだった。


「ありがとうございます。辺境の気候が薬草に合いましたの」


 穏やかに返す。世間話のような声だった。


 クラウスの拳が、体の横で握り締められた。白い手袋の下で、関節が浮いているのが見えた。


「リリアーナ」


「はい」


「——戻ってくれ」


 声が低くなった。喉の奥から絞り出すような響き。


「お前でなければ——領民が死ぬ」


 リリアーナの表情は変わらなかった。


 風が薬草園を渡った。月見草の花弁が微かに揺れ、翠玉葉の葉が光を弾く。


灰熱病かいねつびょうの死者は三十名を超えた。罹患者は五百を数える。マティアスの薬は——何も効かなかった。薬草園も枯れ、素材すらない。わたくしは——」


 クラウスの膝が折れた。


 畝道の土の上に、片膝をつく。伯爵家の嫡男が。旅塵にまみれた外套の膝が、辺境の黒い土に触れた。


「頼む。戻ってくれ、リリアーナ。——わたくしが間違っていた」


 頭が下がった。金の髪が額に落ち、顔が見えなくなった。


 薬草園の中で、伯爵家の嫡男が膝をついて頭を下げている。

 かつてリリアーナの薬草を「毒かもしれぬ」と追い出した家の男が。


 リリアーナは——何も感じなかった。


 怒りが湧くかと思っていた。あるいは、悲しみが。溜飲が下がる感覚があるかもしれないと、どこかで予想していた。

 だが何もなかった。心は凪のまま。水面に波紋一つ立たなかった。


 この人に対して感じるものが、もう何もないのだ。


「クラウス様」


 リリアーナは静かに口を開いた。穏やかな声。微笑みはなかった。怒りも悲しみもなかった。事実を述べる、薬師の声だった。


「一つ、教えて差し上げますわ」


 クラウスが顔を上げた。青い瞳にすがるような色があった。


「薬草園が枯れたのは、薬草の問題ではございません」


 風が止んだ。


「薬師の魔力が失われたからです。わたくしが去った——その日から」


 言葉が、畝道に落ちた。静かに、重く。


 クラウスの目が揺れた。理解が——遅れて、滲むように広がっていくのが見えた。


「薬草園は、園のそののきずなで薬師と結ばれます。わたくしが八年かけて灌魔を注いだ薬草たちは、わたくしの魔力でしか育ちません。別の薬師が引き継いでも、一から絆を築くのに三年から五年」


 クラウスの唇が震えた。声が出ない。


「あの薬草園は、もう枯れていますわ。種から育て直しても、五年はかかります」


「五年……! 五年も待てない……!」


 クラウスの声が裏返った。膝をついたまま、拳が土を掴んだ。畝道の黒い土が、白い手袋の指の間からこぼれた。


「ええ」


 リリアーナは静かに頷いた。


「ですから——もう手遅れなのです」


 声は柔らかかった。残酷なほど柔らかかった。

 突き放すのではなく。ののしるのでもなく。ただ、事実を事実として差し出しただけだった。

 手遅れ。それは宣告ではない。診断だった。薬師が患者に伝える——もうこの薬では治りません、と同じ声で。


「だ、だが——お前がいれば——お前が戻れば、何とか——」


「わたくしが戻っても、枯れた園は蘇りません。新しい薬草を植え、新しい絆を一から築き直すのです。その間、領民をどうなさるおつもりですか」


 答えは返ってこなかった。返せるはずがなかった。


「それに」


 リリアーナは一呼吸だけ間を置いた。


「わたくしの薬草は毒でしたか?」


 空気が——凍った。


 あの日の言葉。マティアスの讒言を信じて、リリアーナの薬草を「毒かもしれぬ」と断じた判断。


 クラウスの目が見開かれた。自分の側が発した言葉が、十ヶ月の歳月を経て、完璧な対称性を持って返ってきたことに——ようやく、気づいた。


「……違い、ましたわね」


 リリアーナの声は、囁くように静かだった。


 怒りではなかった。皮肉でもなかった。ただ——確認だった。

 あなたの側は毒だと言った。だが毒ではなかった。そのことを、あなたは今、知っている。

 それだけの確認。それ以上でも、それ以下でもない。




「——話は終わったようだな」


 声が横から降ってきた。


 ルシアン様だった。


 いつからそこにいたのかわからない。薬草園の柵の内側、調合室の角に背を預けて立っていた。腕を組み、暗い金髪が朝の風に揺れている。灰青の瞳が——冷えていた。


「ブレンナー伯爵嫡男殿」


 ルシアン様がクラウスに向けた呼びかけは、丁寧だった。形式だけの——皮肉を吸い込んだ丁寧さだった。


「うちの薬師は忙しい。辺境の領民に薬を届けなきゃならないのでな」


「リリアーナ。まだ何かあるか」


「いいえ」


 リリアーナは首を横に振った。穏やかに。静かに。


「もう、何もございません」


 その言葉には——二重の意味があった。

 クラウスに伝えることは、もうない。

 クラウスに対して感じることも、もうない。


 リリアーナは背を向けた。


 振り返らなかった。


 薬草園の畝道を歩く。月見草の白銀の花弁が揺れ、翠玉葉の翡翠の葉が光を浴びて輝いている。リリアーナの歩みは穏やかで、揃っていて、一歩も乱れなかった。


 畝道の奥——薬草園の片隅で、星霜花せいそうかの蕾が静かに午前の光を受けていた。まだ固い。まだ開かない。けれど確かに、そこにある。




 調合室に戻ると、ルシアン様が扉の枠に肩を預けて立っていた。


「……リリアーナ」


「はい」


「手、震えてないか」


 リリアーナは自分の手を見た。指先は安定していた。薬草ポーチの上に置いた右手も、調合台に触れた左手も——微動だにしていなかった。


「震えておりません」


「そうか」


 ルシアン様が口元だけで微かに笑った。灰青の瞳に、安堵とも敬意ともつかない色が浮かんでいた。


「前は——震えてたろう。使者が来た時」


「……覚えていらしたのですね」


「忘れるわけないだろ。——あの時と、変わったな」


「ええ」


 リリアーナは小さく頷いた。


「もう——あの方に対して、何も感じません。怒りも、悲しみも、恨みも。何もございません。あの方のことを考える時間が、わたくしにはもう、ないのです」


 失ったものへの執着は、もうない。今あるものが——手の中に、ちゃんとある。




 その頃——薬草園の畝道に、まだクラウスがいた。


 膝についた土を払い、立ち上がっていた。だが足が動かなかった。


 振り返らなかった背中を、思い出していた。あの追放の日も、リリアーナは振り返らなかった。今日も——一度も。


 クラウスの手は震えていた。リリアーナの背は、一度も揺らがなかった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第十七話「お断りいたします」——本作最大のざまぁシーンをお届けしました。


リリアーナが「もう手遅れなのです」と告げる場面は、薬師の診断と同じ構造です。怒りの拒絶ではなく、事実の通達。そして「わたくしの薬草は毒でしたか?」——この一言は、マティアスの讒言を鵜呑みにしたクラウスに対する、最も静かで最も決定的な問いかけです。


次話ではマティアスの影夜草混入の陰謀が暴かれます。


歩人


☆ブックマーク・評価・感想をいただけると、次話の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ