第17話: お断りいたします
朝の灌魔を終え、調合室に戻ろうとした時だった。
ルシアン様が薬草園の入口に立っていた。軍服風のコートの襟を立て、腕を組んでいる。いつもの飄々《ひょうひょう》とした姿勢だが——目が笑っていなかった。
「リリアーナ」
「はい」
「昨日の客が、まだいる」
昨日。ブレンナー伯爵家の馬車が辺境に着いた日。仰々しい護衛を連れた一行を、リリアーナは調合室の窓から見ていた。青地に金の獅子の紋章。そして——金髪の、背の高い男の姿。
面会を求められたが、銀花草の解毒薬の精製が山場だった。嘘ではない。本当に手が離せなかったのだ。
「今朝も面会を求めてきた。今度は正式な要請書付きだ」
ルシアン様が懐から羊皮紙を取り出した。封蝋に押された紋章は、やはり青地に金の獅子。
「断ってもいい。俺はそうしたいが——お前の判断だ」
灰青の瞳が、リリアーナをまっすぐに見ていた。問いかけているのではない。どちらを選んでも構わない、と伝えている目だった。
リリアーナは一瞬だけ、腰の薬草ポーチに指を触れた。乾燥した月見草の花弁の感触。いつもの癖だ。
だが——指は、震えなかった。
「お会いします」
声は穏やかだった。凪のように静かだった。
「わたくしから申し上げることが、ございますので」
場所は、薬草園を選んだ。
リリアーナが選んだのだ。会議室でも謁見の間でもなく、薬草園の中央の広い畝道。左右に月見草と翠玉葉と紅陽草が並ぶ、陽当たりの良い一画。
意図はなかった——と思う。ただ、ここが一番落ち着く場所だった。それだけのこと。
だが結果として、クラウス・フォン・ブレンナーは、リリアーナが一から育てた薬草園の真ん中に立つことになった。
クラウスが畝道を歩いてくるのを、リリアーナは調合室の前で待っていた。
変わっていた。
マティアスの讒言を鵜呑みにし、婚約を破棄した日の面影は——薄くなっていた。金の髪は整えられているが、以前のような自信に満ちた光沢がない。青い瞳は充血し、目の下に隈が刻まれている。頬が削げ、肩が微かに落ちている。
クラウスの足が止まった。
畝道の左右に目をやっている。月見草の白銀の花弁が朝の光に輝き、翠玉葉の翡翠色の葉が金色の葉脈を走らせている。紅陽草の赤い茎がまっすぐに伸び、星砂草の砂金の粒が朝露に濡れて光っていた。守護結界の薄紫の障壁が、上空にうっすらと光っている。
青い瞳が——見開かれた。
クラウスは薬草を知らない。薬学に興味を持ったことがない。だが——美しさは、わかるのだ。
ここにあるものが、かつて王都にもあったものだと。そしてそれが、今の王都にはもうないものだと。
「……リリアーナ」
クラウスの声が落ちた。掠れていた。
「久しいな」
「お久しゅうございます、クラウス様」
リリアーナは一礼した。深くもなく、浅くもなく。礼儀の型を一分の狂いもなく踏んだだけの——そういう礼だった。
二人の間に、数歩の距離があった。
「……見事な薬草園だ」
ようやく出た言葉が、それだった。
「ありがとうございます。辺境の気候が薬草に合いましたの」
穏やかに返す。世間話のような声だった。
クラウスの拳が、体の横で握り締められた。白い手袋の下で、関節が浮いているのが見えた。
「リリアーナ」
「はい」
「——戻ってくれ」
声が低くなった。喉の奥から絞り出すような響き。
「お前でなければ——領民が死ぬ」
リリアーナの表情は変わらなかった。
風が薬草園を渡った。月見草の花弁が微かに揺れ、翠玉葉の葉が光を弾く。
「灰熱病の死者は三十名を超えた。罹患者は五百を数える。マティアスの薬は——何も効かなかった。薬草園も枯れ、素材すらない。わたくしは——」
クラウスの膝が折れた。
畝道の土の上に、片膝をつく。伯爵家の嫡男が。旅塵にまみれた外套の膝が、辺境の黒い土に触れた。
「頼む。戻ってくれ、リリアーナ。——わたくしが間違っていた」
頭が下がった。金の髪が額に落ち、顔が見えなくなった。
薬草園の中で、伯爵家の嫡男が膝をついて頭を下げている。
かつてリリアーナの薬草を「毒かもしれぬ」と追い出した家の男が。
リリアーナは——何も感じなかった。
怒りが湧くかと思っていた。あるいは、悲しみが。溜飲が下がる感覚があるかもしれないと、どこかで予想していた。
だが何もなかった。心は凪のまま。水面に波紋一つ立たなかった。
この人に対して感じるものが、もう何もないのだ。
「クラウス様」
リリアーナは静かに口を開いた。穏やかな声。微笑みはなかった。怒りも悲しみもなかった。事実を述べる、薬師の声だった。
「一つ、教えて差し上げますわ」
クラウスが顔を上げた。青い瞳に縋るような色があった。
「薬草園が枯れたのは、薬草の問題ではございません」
風が止んだ。
「薬師の魔力が失われたからです。わたくしが去った——その日から」
言葉が、畝道に落ちた。静かに、重く。
クラウスの目が揺れた。理解が——遅れて、滲むように広がっていくのが見えた。
「薬草園は、園の絆で薬師と結ばれます。わたくしが八年かけて灌魔を注いだ薬草たちは、わたくしの魔力でしか育ちません。別の薬師が引き継いでも、一から絆を築くのに三年から五年」
クラウスの唇が震えた。声が出ない。
「あの薬草園は、もう枯れていますわ。種から育て直しても、五年はかかります」
「五年……! 五年も待てない……!」
クラウスの声が裏返った。膝をついたまま、拳が土を掴んだ。畝道の黒い土が、白い手袋の指の間からこぼれた。
「ええ」
リリアーナは静かに頷いた。
「ですから——もう手遅れなのです」
声は柔らかかった。残酷なほど柔らかかった。
突き放すのではなく。罵るのでもなく。ただ、事実を事実として差し出しただけだった。
手遅れ。それは宣告ではない。診断だった。薬師が患者に伝える——もうこの薬では治りません、と同じ声で。
「だ、だが——お前がいれば——お前が戻れば、何とか——」
「わたくしが戻っても、枯れた園は蘇りません。新しい薬草を植え、新しい絆を一から築き直すのです。その間、領民をどうなさるおつもりですか」
答えは返ってこなかった。返せるはずがなかった。
「それに」
リリアーナは一呼吸だけ間を置いた。
「わたくしの薬草は毒でしたか?」
空気が——凍った。
あの日の言葉。マティアスの讒言を信じて、リリアーナの薬草を「毒かもしれぬ」と断じた判断。
クラウスの目が見開かれた。自分の側が発した言葉が、十ヶ月の歳月を経て、完璧な対称性を持って返ってきたことに——ようやく、気づいた。
「……違い、ましたわね」
リリアーナの声は、囁くように静かだった。
怒りではなかった。皮肉でもなかった。ただ——確認だった。
あなたの側は毒だと言った。だが毒ではなかった。そのことを、あなたは今、知っている。
それだけの確認。それ以上でも、それ以下でもない。
「——話は終わったようだな」
声が横から降ってきた。
ルシアン様だった。
いつからそこにいたのかわからない。薬草園の柵の内側、調合室の角に背を預けて立っていた。腕を組み、暗い金髪が朝の風に揺れている。灰青の瞳が——冷えていた。
「ブレンナー伯爵嫡男殿」
ルシアン様がクラウスに向けた呼びかけは、丁寧だった。形式だけの——皮肉を吸い込んだ丁寧さだった。
「うちの薬師は忙しい。辺境の領民に薬を届けなきゃならないのでな」
「リリアーナ。まだ何かあるか」
「いいえ」
リリアーナは首を横に振った。穏やかに。静かに。
「もう、何もございません」
その言葉には——二重の意味があった。
クラウスに伝えることは、もうない。
クラウスに対して感じることも、もうない。
リリアーナは背を向けた。
振り返らなかった。
薬草園の畝道を歩く。月見草の白銀の花弁が揺れ、翠玉葉の翡翠の葉が光を浴びて輝いている。リリアーナの歩みは穏やかで、揃っていて、一歩も乱れなかった。
畝道の奥——薬草園の片隅で、星霜花の蕾が静かに午前の光を受けていた。まだ固い。まだ開かない。けれど確かに、そこにある。
調合室に戻ると、ルシアン様が扉の枠に肩を預けて立っていた。
「……リリアーナ」
「はい」
「手、震えてないか」
リリアーナは自分の手を見た。指先は安定していた。薬草ポーチの上に置いた右手も、調合台に触れた左手も——微動だにしていなかった。
「震えておりません」
「そうか」
ルシアン様が口元だけで微かに笑った。灰青の瞳に、安堵とも敬意ともつかない色が浮かんでいた。
「前は——震えてたろう。使者が来た時」
「……覚えていらしたのですね」
「忘れるわけないだろ。——あの時と、変わったな」
「ええ」
リリアーナは小さく頷いた。
「もう——あの方に対して、何も感じません。怒りも、悲しみも、恨みも。何もございません。あの方のことを考える時間が、わたくしにはもう、ないのです」
失ったものへの執着は、もうない。今あるものが——手の中に、ちゃんとある。
その頃——薬草園の畝道に、まだクラウスがいた。
膝についた土を払い、立ち上がっていた。だが足が動かなかった。
振り返らなかった背中を、思い出していた。あの追放の日も、リリアーナは振り返らなかった。今日も——一度も。
クラウスの手は震えていた。リリアーナの背は、一度も揺らがなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第十七話「お断りいたします」——本作最大のざまぁシーンをお届けしました。
リリアーナが「もう手遅れなのです」と告げる場面は、薬師の診断と同じ構造です。怒りの拒絶ではなく、事実の通達。そして「わたくしの薬草は毒でしたか?」——この一言は、マティアスの讒言を鵜呑みにしたクラウスに対する、最も静かで最も決定的な問いかけです。
次話ではマティアスの影夜草混入の陰謀が暴かれます。
歩人
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