第16話: ブレンナー家の馬車
その日の朝も、リリアーナは薬草園にいた。
畝の間に膝をつき、銀花草の株に灌魔を注いでいる。薄紫の光が指先から滲み出し、銀色の細い葉を伝い、根に染み込んでいく。根元に蓄えられた金色の粒子が、朝露と混じり合って琥珀色に脈動した。
ルシアン様の治療に使う解毒薬の素材。あと数回の投薬で、上腕の紋様にも手が届く。
「おはよう。今日も元気そうね」
銀花草の葉が微かに揺れた。風は、なかった。
薬草園は春の盛りを過ぎ、初夏の気配を帯び始めている。月見草の白銀の花弁は朝日を受けて輝き、翠玉葉の翡翠が金色の葉脈を鮮烈に明滅させている。紅陽草は東の斜面で赤い光を放ち、星砂草の砂金が朝露に濡れて琥珀色に散っていた。
守護結界の薄紫の障壁が、朝の空気の中でうっすらと光っている。
そして——薬草園の奥の一画に、星霜花が静かに佇んでいた。母から持ち出した種を辺境の土に蒔き、十ヶ月。株は膝丈ほどに育っていたが、花はまだ一度も咲いていない。寒冷な辺境の気候が、開花に時間をかけさせているのだ。
けれど今朝——リリアーナは息を止めた。
茎の先端に、小さな蕾がついていた。
掌の小指の爪ほど。白い薄皮に覆われた、固い蕾。だが確かに——花芽だった。
「……蕾がついた」
声が震えた。薬草のことでだけ、声が震える。リリアーナはそっと蕾に指を伸ばし、触れずに引いた。まだ脆い。触れてはいけない。
辺境に来て十ヶ月。この園は——リリアーナの園は、確かに根を張っていた。
灌魔を終え、調合室に戻ろうとした時だった。
城下町の方角から、蹄の音が聞こえた。
複数の馬。それも——辺境の農馬の足音ではなかった。規則正しく、硬い石畳を叩く鉄蹄の音。軍馬か、あるいは貴族の騎馬。
リリアーナは薬草園の柵に手をかけ、城門の方角を見た。
街道から一台の馬車が姿を現した。護衛の騎馬が四騎。馬車の車体は質素だが頑丈で、長旅の砂埃を纏っている。だが車体の側面に刻まれた紋章は——質素とは程遠いものだった。
青地に金の獅子。
リリアーナの手が、無意識に腰の薬草ポーチに触れた。
ブレンナー伯爵家の紋章だった。
城の正門前に馬車が止まった時、ルシアン様は既にそこにいた。
軍服風のコートの襟を正し、暗い金髪を朝風に遊ばせて、門の石柱に背を預けている。腕組みをして——飄々《ひょうひょう》とした、いつもの姿勢。だが灰青の瞳は笑っていなかった。
リリアーナは調合室の窓から、その様子を見ていた。
馬車の扉が開いた。
最初に降りたのは従者だった。旅装のまま足場を整え、続いて——金の髪が、朝日の中に現れた。
クラウス・フォン・ブレンナー。
記憶の中の姿と——変わっていた。百八十の長身、整えられた金髪、青い瞳。だがその顔に、かつての自信はなかった。頬が痩けている。目の下に隈がある。旅装は仕立てが良いが、着る者の疲弊を隠しきれていない。
リリアーナは窓辺から一歩退いた。
胸の奥を探った。何か——怒りでも、悲しみでも、懐かしさでも——揺れるものがあるかと。
何もなかった。
薬草ポーチの乾燥した花弁に触れた時の、革の感触だけがあった。
ルシアン様が石柱から背を離し、一歩前に出た。
「遠いところをわざわざ。——ブレンナー伯爵嫡男殿」
声は明るかった。飄々とした口調。だが「嫡男殿」の響きには、聞き逃せない刃があった。領主として正式な敬称を使いながら、その音の温度だけで格差を示す——この人のやり方だった。
「ノルトハイム辺境伯」
クラウスが応じた。声が掠れている。長旅の疲れだけではない——喉の奥に何かが詰まっているような声だった。
「突然の訪問を詫びる。——書状を先に送るべきだったが、事態が切迫しておりまして」
「ああ。聞いてるよ。——灰熱病、だろう」
ルシアン様が腕を組み直した。
「で、用件は?」
前置きを、一切許さない。ルシアン様はそのまま、門の前に立ち続けていた。城内に通す素振りもない。
クラウスの青い瞳が、微かに揺れた。伯爵家の嫡男を門前で立たせる——それがどれほど異例かを、クラウスは理解しているはずだった。
「リリアーナに、会わせてほしい」
ルシアン様が目を細めた。灰青の瞳が、品定めをするようにクラウスの顔を見ている。
「会わせる? ——俺の薬師は、今調合中だ」
俺の薬師。
その一言でクラウスの顔が強張ったのが、調合室の窓越しにも見えた。
「だが——伝えることはできる。用件を聞こう」
「……リリアーナに、宮廷薬師として王都に戻ってもらいたい」
声が低かった。ルシアン様の前で頭こそ下げなかったが——リリアーナを追放した時の尊大さは、どこにもなかった。
ルシアン様が小さく肩をすくめた。
「返す? 俺のものじゃないが」
間を置いた。それから——軽い声で。
「彼女の意思を聞けばいい。——だが俺は先に言っておく。リリアーナがここに来たのは、追放されたからだ。追放したのはあんたの側だ。ブレンナー伯爵嫡男殿」
丁寧な敬称の中に、剥き出しの事実が埋め込まれていた。クラウスの唇が一瞬引き結ばれたのを、リリアーナは見た。
ルシアン様が調合室に来たのは、それから四半刻後だった。
「来た」
一言だった。扉に背を預け、腕を組んでいる。
「存じております」
リリアーナは乳鉢を棚に戻しながら答えた。窓から全て見ていたとは言わなかった。
「会うか?」
「……今日は調合が残っておりますので」
ルシアン様の灰青の瞳が、微かに細まった。
「断るのか」
「お断りするのではありません。今日は調合中ですので——と、お伝えください」
声は穏やかだった。一切の感情が混じっていない。拒絶ですらない。ただ——事実として、調合の予定が入っている。それだけのこと。
ルシアン様が、ふっと息を吐いた。
「……お前、怖い女だな」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
「褒めてる」
ルシアン様が扉を開けて出ていった。廊下を歩く足音が遠ざかる。
午後。クラウスが薬草園の近くに立っているのを、リリアーナは調合室の窓から見た。
柵の外だ。中には入っていない。ルシアン様が「薬草園には薬師の許可なく立ち入るな」と伝えたのだろう。クラウスは柵の外から、薬草園を見つめていた。
その顔が——凍りついている。
月見草の白銀が朝日に輝いている。翠玉葉の翡翠が金色の葉脈を明滅させ、紅陽草が東の斜面で赤く発光し、星砂草の砂金が琥珀色に散っている。守護結界の薄紫が淡い天蓋のように園を覆い、灌魔の残光が薬草の葉先に宿っている。
生きている園。呼吸している園。薬師の魔力に応えて輝いている園。
クラウスの瞳に映っているのは——おそらく、もう一つの園だった。
枯れ果てた星霜の庭。乾いた土と枯れ枝だけが残った、かつての母の誇り。リリアーナが去った後、二ヶ月で萎れ始め、半年で半壊し、十ヶ月目に完全に枯死した園。
あの園と同じ薬師が、辺境でこれほどの園を育てている。
リリアーナは視線を園の奥に移した。星霜花の蕾が、午後の陽光を受けて薄く光っている。まだ固い。開くまでにはしばらくかかるだろう。
——でも、蕾がついた。
それだけで十分だった。
夕刻。ヘルダが薬草園の裏手から姿を現した。
白髪を団子にまとめた小柄な老婆が、腰の薬草袋を揺らしながら歩いてくる。手には摘んだばかりの霜晶草が握られていた。
「お嬢ちゃん。あの馬車、何だい? 伯爵家の紋章が見えたけどね」
「……元婚約者のクラウス様が、いらっしゃいました」
「ほう」
ヘルダの薄い茶色の目が、深い皺の奥で光った。リリアーナの顔をじっと見てから——ふっと息を吐いた。
「……いい顔してるねえ。追い出した側が追いかけてきた、って顔じゃないよ。何とも思ってない顔だ」
「何とも思っておりませんもの」
「だろうねえ」
ヘルダが霜晶草を調合台に置きながら、ぶっきらぼうに言った。
「あの子は見たかい?」
「あの子?」
「星霜花さ。蕾がついただろう。今朝、あたしも見たよ」
リリアーナの表情が——ほんの少しだけ、ほどけた。ヘルダの前だけで見せる、肩の力が抜けた顔。
「ええ。まだ小さいけれど……蕾です」
「そうかい。——大切なものは、ちゃんと根を張るもんだよ。人もね」
ヘルダはそれだけ言って、杖をつきながら帰っていった。
日が暮れた。
ルシアン様が調合室に顔を出したのは、夜の灯架が灯ってからだった。
「明日、もう一度会いたいと言ってる」
「そうですか」
「会うか?」
リリアーナは金色の薬液を小瓶に注ぎながら、少しだけ考えた。
「……明日の午前でしたら、お時間がございます」
ルシアン様が目を細めた。
「断らないのか」
「お断りする理由がございませんもの。——ただ、お話をお聞きするだけですわ」
ルシアン様が沈黙した。灰青の瞳がリリアーナを見ている。
「……お前が決めたならいい。俺も同席する」
「ありがとうございます、ルシアン様」
「領主として当然のことだ。——客人の対応は、領主の仕事だからな」
いつもの軽口。だがその声が——今日は少しだけ、低かった。
ルシアン様が出ていった後、リリアーナは小瓶に封をした。
金色の薬液が、灯架の光を受けて静かに輝いている。ルシアン様の命を繋ぐ薬。この薬がある限り、リリアーナの手はここにある。
クラウスが待っている。明日の朝、答えを聞くために。
だがリリアーナの答えは——もう、決まっていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第十六話「ブレンナー家の馬車」——第3アークの幕開けです。
この話で最も大切にしたのは、星霜花の蕾です。母が三十年かけて育てた薬草園から持ち出した種が、辺境の寒い土地で十ヶ月かけて根を張り、初めて蕾をつけた。クラウスの到着と星霜花の蕾——リリアーナの過去と未来が、同じ朝に交差しています。
クラウスが薬草園を見て凍りつくシーンは、リリアーナが一言も語らずに勝利を見せる場面です。辺境で十ヶ月の園がこれほど美しく生きている。そしてヘルダの「大切なものは、ちゃんと根を張るもんだよ」——この言葉は薬草のことであり、リリアーナ自身のことでもあります。
次話、リリアーナはクラウスと正面から向き合います。その時に告げる言葉は——「お断りいたします」。
歩人
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