第13話: 枯れた薬草園
旅商人が持ち込んだのは、荷物だけではなかった。
「——ハルトヴィヒ領の薬草園、完全に枯れたそうですぞ。通りかかった時、門が開け放たれたまま放置されとりました。中は枯れ枝と乾いた土だけで、見る影もない」
ルシアンが中庭で商人と言葉を交わすのを、リリアーナは調合室の窓越しに見ていた。
ルシアンがこちらを振り返った。灰青の瞳が何かを伝えようとしている。
調合室に入ってきたルシアンは、扉を閉めてから口を開いた。
「星霜の庭が完全に枯死した。守護結界も消えている」
完全枯死。
リリアーナの手が止まった。乳鉢を握ったまま、動かない。
半年前の報せでは、半分以上が枯れていた。それでもリリアーナの灌魔を最も濃く受けた月見草の古株——園の中央の最も絆の強い一帯——あそこだけはまだ耐えているはずだった。
それも、終わったのだ。
あの庭の薬草たちが——一株残らず枯れた。母が三十年かけて育て、リリアーナが七年間毎朝声をかけた薬草たち。名前をつけた子もいた。最初に植えた月見草を「月の雫」と呼んだ。二年目の春に初めて花が咲いた時、一人で泣いた。
マティアスが手順書を払いのけた日のことを、リリアーナは知っている。
使者が来た時、使用人の一人が囁いた。「リリアーナ様が書き残した手入れの手順書を、あの侍医殿は一瞥もせずに払いのけました。『こんなものは雑草の山だ』と」
リリアーナが一晩かけて書いた紙束。薬草一つ一つの世話の仕方。水やりの時刻、剪定の角度、隣り合う株との間隔。灌魔の量と周期。月見草は朝日が昇る前に、氷雪蘭は日陰に移してから——。
マティアスの靴が、その紙束の上を通り過ぎた。
教科書に書いてないことは、迷信だと。
その迷信が、領民の命を守っていたのに。
「……そうですか」
リリアーナの声は平坦だった。乳鉢を棚に戻す手は、震えていない。
ルシアンがリリアーナを見ている。
「辛いか?」
「いいえ。枯れたものは、もう元には戻りませんから」
それは事実だった。園の絆が完全に断たれた薬草園は、薬師が戻っても再生できない。
夕暮れ。薬草園に出た。
畝の間にしゃがみ込み、灌魔を始めた。薄紫の光が指先から滲み出し、月見草の根に広がる。白銀の花弁が、リリアーナの魔力に応えて微かに揺れた。
辺境の月見草。王都の「月の雫」とは血縁のない株。でもこの子たちも、同じように灌魔に応えて光る。
「……ごめんなさい」
声が零れた。辺境の月見草ではなく——王都で枯れた、あの子たちに向けて。
「ごめんなさい。……私が、いなくなったから」
涙は出なかった。声も震えなかった。
薬師が自分の薬草に向ける——純粋な悔恨だった。あの子たちは、リリアーナの魔力で生きていた。リリアーナが離れたから、枯れた。追放されたのだから仕方がない。だが薬師として——あの子たちを残してきたことだけは、胸の奥の小さな棘だった。
「——リリアーナ」
目を開けると、ルシアンが畝の端に立っていた。いつの間に来たのか。この人はいつもそうだ。
「一つだけ聞く。戻りたいか」
リリアーナは首を横に振った。迷いはなかった。
「いいえ。枯れた園に戻っても、あの子たちは返ってきません」
辺境の薬草園を見渡した。月見草の白銀。翠玉葉の翡翠。紅陽草の赤。夕陽に照らされて、全ての薬草が生き生きと光っている。
「それに——ここの子たちを、置いていくわけにはいきません」
ルシアンが小さく息を吐いた。
「……そうかよ」
声が掠れていた。
「お前が育てた園は、ここにある。——それでいい」
翌朝。
「リリアーナ先生! せんせー!」
マーラとフリッツが柵の向こうから走ってきた。フリッツが両手に野花を抱えている。
「先生にあげる!」
「……ありがとう。薬草園の入り口に飾りますね」
薬効のない、ただの野花。だが園の入り口に花があるのは——温かかった。
フリッツが水汲みに走っていく。先月三人だった手伝いが六人に増えていた。薬草園が、領民の暮らしの一部になっている。
ヘルダが畝の端で膝をさすりながら、翠玉葉を摘んでいた。
「お嬢ちゃん、この翠玉葉、明日が摘み頃だよ。金の葉脈が光ってるだろう?」
「ええ。朝露が乾く前に摘みましょう」
日常だった。薬師としての、辺境の日常。
星霜花の茎が、伸びていた。
南東の隅に膝をつくと、白い茎が畝の土から指の長さほど出ている。細い——だが真っ直ぐに伸びている。蕾はまだない。
「伸びたね」
ヘルダが後ろから覗き込んだ。
「ええ。蕾はまだですけれど……確かに伸びています」
「焦んなさんな。大切なものは、ゆっくり育つもんさ」
リリアーナは頷いた。
枯れた庭は戻らない。だがこの園は、枯れない。リリアーナがここにいる限り。
同じ朝——。
ハルトヴィヒ領では、三人目の死者が出た。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第十三話「枯れた薬草園」——二つの薬草園の対比です。
リリアーナは泣きません。ただ薬草園でしゃがみ込み、枯れたあの子たちに「ごめんなさい」と呟く。それは人への弱さではなく、薬師が自分の薬草に向ける悔恨です。
マティアスが手順書を払いのけた回想を挟みました。「こんなものは雑草の山だ」——教科書に載っていないことは全て迷信だと。その迷信が、三十年と七年をかけて領民の命を守っていたのに。
歩人
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