第14話: 毒の痕跡
ルシアンの左腕から、また一筋の銀色が消えた。
調合室の灯架の下、氷雪蘭の結晶を当てた前腕に灌魔を施す。薄紫の光が銀色の紋様に染み込み、金色の解毒薬と結合して毒紋を分解していく。
前腕の肘寄りにあった最後の枝が、薄くなり——消えた。
「……前腕の紋様が、全て消えました」
「腕が軽い。——生まれてこのかた、こんなに左腕が軽いのは初めてだ」
ルシアンが袖を下ろしながら、片目だけこちらを向けた。灰青の瞳に、いつもの軽さが戻っている。
「上腕にはまだ残っていますので、治療は継続です」
「薬師に言われると反論できないな」
治療が終わり、片付けをしていると、ルシアンが立ち上がらなかった。
普段なら軽口を一つ残して部屋を出ていく。だが今日は椅子に座ったまま、灯架の炎を見つめている。
「一つ、聞いていいか」
「……何でしょう」
「お前が追放された時のこと。正確には——どういう経緯で、ああなった」
リリアーナの手が一瞬止まった。乳鉢を棚に戻す姿勢のまま。
「……どうして、急に」
「急じゃない。ずっと聞こうと思っていた。使者を追い返した時の返答——あれを聞いて確信した。お前は冤罪だとわかっていた上で、追放を受け入れた」
灰青の瞳がまっすぐに向いている。
「知っていて何もしなかったのか? それとも——何かしていたのか?」
リリアーナは調合台の前の椅子に腰を下ろした。
「マティアスが私の調合室に毒草を紛れ込ませていたこと……知っておりました」
声は平坦だった。
「最初に気づいたのは、調合室の棚の配置でした。私は薬材を魔素の属性順に並べています。その中に、私が置いた覚えのない影夜草が一株——毒草です。自分の棚に、自分の手で置いていないものがあるのですから、薬師であれば一目でわかります」
ルシアンは無言で聞いている。
「調合室の出入り記録を確認しました。深夜の時間帯に、マティアスが鍵を使って入室した記録が残っていました。侯爵家の侍医ですから、鍵の使用権限はある。ただし——わたくしの調合室に用事があるはずがありません」
「——証拠を集めていたのか」
ルシアンの声が低い。
「はい」
リリアーナは腰の薬草ポーチの留め具を外した。乾燥した月見草の花弁の下、革の底を裏返すと——一通の書簡があった。赤い封蝋で閉じてある。
「これを」
調合台の上に静かに置いた。
ルシアンが封蝋を割り、書簡を読んだ。
マティアスが調合室に侵入した日時の記録。影夜草が棚に置かれた推定日時。そして——目撃者。
「目撃者がいるのか」
「はい。庭番の老人が、深夜に調合室の前でマティアスとすれ違っています。手に影夜草の葉を持っていたのを見ています。黒紫の葉は特徴的ですので、薬草に詳しくない者でも見間違えません」
ルシアンが書簡を読み終えた。指に力が入っている。
長い沈黙。
「……クラウスは、これを知らなかったのか」
「知りません。私がこれを完成させたのは、あの夜会の三日前です。クラウス様に見せる時間はありましたが——見せませんでした」
「なぜだ」
「見せていれば、追放されなかったかもしれません。ですが——かもしれないだけです」
リリアーナは穏やかに答えた。
「クラウス様は、自分では何も判断できない方です。マティアスの讒言を鵜呑みにし、私の薬草を毒と呼んだ。証拠を見せたところで、マティアスが別の弁解をすれば、またそちらを信じたでしょう」
「それに——証拠をあの場で突きつけることは、報復になります」
「報復の何が悪い」
ルシアンが低い声で言った。
「お前は冤罪で追い出された。八年の薬草園を奪われた。婚約を破棄された」
「報復が悪いとは申しておりません」
リリアーナは微かに首を傾げた。
「ただ——この書簡は、報復のために作ったものではございませんの。事実を、事実として記録しただけです。いつか必要になると思いましたの」
ルシアンがじっとリリアーナを見つめた。
「……お前、怖い女だな」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
「褒めてる。本気で」
ルシアンが椅子から立ち上がった。
「一つだけ言わせろ。お前にかけられた冤罪——俺はそれを、許さない」
声が低かった。軽口ではなかった。
「お前の薬が毒ではないことは、俺のこの腕が証明している」
左手を持ち上げた。紋様の消えた手首。清らかな肌。
「お前がその書簡を使う時が来たら——俺も出る。辺境伯の名前くらいは、役に立つだろう」
「……ルシアン様」
「礼は要らない。俺の薬師を冤罪で追い出した連中に、筋を通させるだけだ」
俺の薬師。
あの時と同じ言い方だった。使者を追い返した日と——同じ温度の声。
「……ありがとうございます。お心遣い、忘れません」
ルシアンが出ていった後、リリアーナは封蝋を割られた書簡を丁寧に折り畳んだ。
調合室の棚——薬学書を並べた隅の引き出しに収めた。ポーチの底ではなく、もう少し確かな場所に。
必要な時が来るまで。
翌朝の薬草園で、星霜花の茎がさらに伸びていた。指の二本分ほどの高さ。まだ蕾はない。
リリアーナの書斎の引き出しには、封蝋の破片をまとった書簡が一通、静かに眠っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第十四話「毒の痕跡」——伏線を表に引き出しました。
リリアーナは報復のためにこの書簡を作ったのではありません。事実の記録です。「いつか必要になると思いましたの」——この姿勢こそが、リリアーナの「怖さ」であり、ルシアンが本気で感心する理由です。
学院の権威を盾に讒言する男。しかし証拠は残る。薬草は嘘をつかない——事実も嘘をつかない。
歩人
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