第11話: 戻ってこい
使者の男は、馬から転がり落ちるようにして降りた。
埃を被った外套の紋章は泥に汚れていたが、金糸の刺繍は見間違えない。ハルトヴィヒ侯爵家の銀の百合。リリアーナが生まれ育った家の紋章だった。
朝の灌魔を終えたばかりのリリアーナが城門に駆けつけた時、使者は兵士に支えられて座り込んでいた。肩に提げた革の書状筒を握りしめたまま、荒い呼吸を繰り返している。
「リリアーナ……様……を……」
ルシアンが中庭に現れた。暗い金髪が朝日に光っている。灰青の瞳が使者を一瞥し、それからリリアーナを見た。
「お前宛てだそうだ」
城の一階の小さな部屋で、使者は震える手から二通の手紙を差し出した。
一通目は、父からだった。
『リリアーナ。私は間違っていた。領地に秋霧熱が蔓延し、薬草園は枯れ果て、侍医の薬は効かぬ。どうか戻ってきてほしい。領民を救えるのはお前だけだ。——私は、お前の庭の価値がわからなかった』
父の字が、震えていた。侯爵家の当主として書簡を何千と書いてきた手が——一文字一文字を刻むように、乱れている。
二通目は、クラウスからだった。
『リリアーナ。僕が間違っていた。君の薬草がどれほど大切なものだったか、今になってようやくわかった。頼む。戻ってきてくれ。僕は——』
そこで文が途切れていた。何度も書き直した跡がある。最後の一行だけが、薄いインクで付け足されていた。
『君の指先の匂いを、笑った自分が許せない』
リリアーナの手が——震えた。
手紙を握る指先が、微かに白くなった。怒りではなかった。悲しみでもなかった。ただ——体が覚えている。百本の蝋燭の下で「その薬草は毒かもしれぬ」と言われた夜のことを。
使者が膝をついた。
「お願いいたします、リリアーナ様。領民が……もう、死者が出ております……」
沈黙が落ちた。
小部屋を出ると、ヘルダが廊下の壁に背を預けて立っていた。
白髪を団子にまとめた小柄な背中。腰に薬草袋を下げている。膝が悪いはずなのに、城の石段を登ってきたのだ。
「お嬢ちゃん」
ヘルダの声は穏やかだった。責めるでもなく、急かすでもなく。
「どうするんだい?」
ただ、訊いた。
リリアーナはヘルダの薄い茶色の目を見た。深い皺の奥で、静かに光っている。母と同じ光だ。
「……ヘルダさん」
「うん」
「私は——この村に残ります」
声は揺れなかった。
「でも、薬だけはお届けします」
夜。薬草園に出た。
月明かりの下、薬草たちが灌魔の残光を纏って微かに光っている。月見草の白銀の花弁が月光を反射し、翠玉葉の翡翠色の葉が風に揺れていた。
星霜花の芽のところに膝をつく。
小さな芽は、三日前より僅かに伸びていた。白い茎が月明かりに細く光っている。まだ針のように細い——だが確かに、この北の土に根を張っている。
父の手紙を思い出した。震える字で書かれた「どうか戻ってきてほしい」。七年間、一度も言わなかった言葉だ。リリアーナが毎朝薬草に声をかける姿を窓越しに見ていたのに——その重みを量ろうとしなかった人が、ようやく。
戻れば、領民を救える。
だが——戻るということは、自分を追い出した場所に帰るということだ。讒言を信じた父の下に。話を聞かなかった元婚約者の下に。
それは——嫌だ。
怒りではない。恨みでもない。ただ、もう——あの場所に自分の居場所はない。
ここには、ヘルダがいる。薬草園がある。「先生」と呼んでくれる領民がいる。ルシアンがいる。
星霜花の芽に指先を伸ばした。
「……お母様。私、ここに根を張りました」
翌朝、リリアーナは使者の前に立った。
「私は、この村に残ります」
使者の顔が絶望に歪んだ。
「で、ですが——」
「でも」
リリアーナは穏やかに、けれど揺るがない声で続けた。
「薬だけは、お届けします。星霜花の予防薬と、秋霧熱の治療薬を調合します。量は多くなりますから、二日ほどお待ちください」
使者が顔を上げた。
「領民を見捨てることはできません。けれど、私は戻りません」
振り返ると、ヘルダが腕を組んで小屋の前に立っていた。にやりと笑った。
「お嬢ちゃんらしいねえ。じゃあ、手伝うよ。霜晶草をたんまり摘んでくるからね」
ヘルダは膝をさすりながら立ち上がった。六十年の膝が、今日ばかりは痛みを忘れたように軽い足取りで畑に向かっていく。
二日間、夜を徹して薬を調合した。
星霜花の若い葉を丁寧に摘み、霜晶草と月見草の根を配合する。山の清水で煎じ、灌魔を注ぐ。薄紫の光が指先から溢れ、薬液に染み込んでいく。
ヘルダが霜晶草の「雪の涙」——冬を越した株だけにつく白い結晶——を持ってきた。解熱の力が普通の三倍ある。学院の教科書には載っていない、五十年の経験が裏づける民間薬草学の知恵。
「お嬢ちゃん、少し休みな」
「大丈夫です。あと少しで——」
「休みな、って言ってるんだよ」
ヘルダが薬草茶の杯を突き出した。有無を言わせない眼だった。リリアーナは苦笑して杯を受け取った。
蝋燭が何本も燃え尽きた。ルシアンが差し入れに来た。黒パンと干し肉、それに温かいスープ。
「……飯は食ったのか」
「今、ヘルダさんにお茶をいただいたところです」
「茶は飯じゃない」
スープの椀を調合台の端に置いて、ルシアンは何も言わずに出ていった。
二日目の夕暮れ、ガラスの小瓶が三十六本、調合室の棚に並んだ。予防薬と治療薬。学院式の配合と民間薬草学の知恵を注ぎ込んだ、渾身の薬。
使者に薬を託す朝。
小瓶を詰めた木箱を馬の背に括りつける間、リリアーナは一通の手紙を書いた。
クラウスへの手紙は、短かった。
『クラウス様。私の手は、薬草の匂いがします。それは変わりません。どうかお元気で。——リリアーナ』
父への手紙は、さらに短かった。
『お父様。お体にお気をつけください。薬の使い方は同封の手順書をお読みください。——リリアーナ』
恨み言は書かなかった。怒りも書かなかった。書くべきことだけを書いた。薬師として——それだけのことだった。
使者が馬に跨った。木箱が二つ、馬の両脇に括られている。
「リリアーナ様。本当に——戻っていただけないのですか」
「ええ」
リリアーナは微笑んだ。穏やかに。静かに。
「私の薬草園は、ここにありますから」
使者の馬が走り出した。蹄の音が街道に響き、やがて南の山道に消えていく。
リリアーナは振り返らなかった。
薬草園に戻ると、ヘルダが畝の端に座っていた。膝をさすりながら、星霜花の芽を見ている。
「お嬢ちゃん」
「はい」
「いい薬を送ったね。あの薬なら、効くよ」
「ヘルダさんの霜晶草があったからです」
「あたしの霜晶草と、お嬢ちゃんの腕がね」
ヘルダがにやりと笑った。それから星霜花の芽を指差した。
「見な。少し伸びたよ」
星霜花の芽が、昨日より僅かに高くなっていた。白い茎が月見草の影から顔を出すように、真っ直ぐに伸びている。
「……伸びてる」
リリアーナの声が、ほんの少しだけ震えた。今度は——喜びだった。
「大切なものは、ちゃんと根を張るんだよ。お嬢ちゃんと同じさ」
ヘルダの言葉が、胸の奥に染みた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第十一話「戻ってこい」——リリアーナの選択の話です。
父とクラウスからの手紙に、リリアーナの手は震えました。でも答えは最初から出ていた。「この村に残ります。でも薬だけはお届けします」——戻らない。けれど見捨てない。この矛盾のない両立が、リリアーナという薬師の在り方です。
ヘルダの「どうするんだい、お嬢ちゃん」は、短編S01-P16のあのシーンと同じ問いかけです。責めるでもなく、急かすでもなく。答えはリリアーナ自身が出す。ヘルダはただ、霜晶草をたんまり摘んできてくれる。
クラウスへの手紙は「私の手は、薬草の匂いがします」。かつて「少し青臭いな」と笑った匂い。それは変わらない——変わらないということが、もう全てなのです。
歩人
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