現世のふたり2
「…アメリカ行きのフライトの時間は、いつになるの?」
林太郎はベンチから立ち上がって、少し前へ足を進めた。エリスはベンチに座ったままだ。
「…明後日の、正午、ちょっと、前」
「そうか。じゃあ明日は、学校、来るんだよね」
「うん。行くよ。みんなにさよなら、言わなくちゃ、いけないから」
小さく頷いたエリスを横目で見ながら、林太郎は肩に斜め掛けにしてあるワンショルダーのバッグから紙袋を取り出して、エリスの手に押し付けた。
「何?」
手に押し付けられた紙袋を眺めてエリスが首を傾げる。
「餞別だ。開けてみて」
林太郎はエリスを振り返らないで言った。背後でがさがさと紙袋を開ける音がする。
「…酢イカ」
エリスの絶句する気配を感じて、林太郎は声を張り上げた。
「エリス、お前は将来ユニセフに入って、自国の支援が行き届いていない貧困地帯とか紛争地域の子供達に読み書きを教えたいんだろう?だったら、現地での食材を苦手だから食べられません、なんて言えないよな? その子達が食べているものを、君も美味しそうに食べなくちゃいけない」
「林太郎…」
林太郎はエリスを振り返らなかった。
何故なら、大量の涙が目から溢れていたからだ。どう踏ん張っても大粒の涙が止まることなく、頬を伝ってぼろぼろと顎へと落ちていった。
「だから、何でも食べられるように訓練しなくちゃ。まずは酢イカを克服するんだ。酢イカの味くらいで目を白黒させていたら、お前の夢なんか、叶えられないんだからな!」
途中から怒ったように大声で喋り出したのは、泣いているのを気付かせないためだ。だけど、エリスにいつまでも背中を向けてはいられない。林太郎は、頭を掻くふりをして顔の前に腕を突き出し、シャツの袖を器用に横に動かして涙を拭った。
鼻水が垂れているのに気が付いたのは、シャツで涙をふいた後だった。
袖にべったりと張り付いた透明な鼻水が、林太郎の鼻の下で透明なスライムのようになって伸びた。慌ててそのまま横へ擦ると、まるで生きているかのように、今度は頬に張り付いた。
涙は止まらず、鼻水も垂れたままだ。「稀代のべそかきっ子」と、おうがいに呆れられた状態に林太郎は陥っていた。
幼稚園児だって、こんな酷い有り様で泣いている子はいないだろう。笑ってしまうほど情けない顔になっているのを自覚した林太郎は、絶望のあまりがっくりと肩を落とした。
「林太郎、どうしたの?」
心配そうな声と共に、エリスが立ち上がる気配がした。林太郎は再び数歩前進してから後ろに腕を突き出して、「何でもない。大丈夫」と手を振った。
エリスの中に、もう、“エリス”はいない。それは、持ち主のいない十九世紀の記憶が次第にエリスから消えていくという事だ。
死んでしまった記憶から、生きている今の思い出へと記憶は塗り替えられて積み重なっていく。
だから。
(こんな酷い顔をエリスに見せるわけにはいかない。エリスの記憶に、俺の情けない顔が最初に上書きされるのなんか、死んでもごめんだ)
林太郎はエリスに背を向けたまま「じゃあな、エリス。明日、学校で」とぶっきらぼうに言ってから、自転車を止めた公園の入り口へと走り出した。その場所は十メートル以上ある。それだけ離れれば、涙に濡れた顔もはっきりとは分からないだろう。
自転車のサドルに跨ってから、ちらりとエリスに目をやった。エリスは酢イカの入った紙袋を胸に押し当てたまま、ベンチから立ち上がって林太郎をじっと見ている。
口を大きく開けて無理に笑顔を作り、エリスにバイバイと明るく手を振ってから、林太郎は自転車を急いで漕ぎ出した。
住宅の角を曲がるとすぐに公園は見えなくなった。
林太郎は我慢出来なくなって、「うわあああん」と泣き叫びながら自転車を漕いだ。帰宅途中の低学年の小学生に「あのお兄ちゃん、泣いてるよ」と指を差されても構わなかった。
マンションに戻ると、盛大にしゃくりあげながら駐輪場に自転車を止めた。
マンションの階段脇で野良猫にエサを上げているおばさんから、あからさまに不振そうな顔をされても、泣きながら「こんにちは」と挨拶して、その脇を通り過ぎた。
家に入り、自分の部屋に入ると少し気分が落ち着いた。
大きく息を吐いてからベッドに横たわる。
「おうがい君」と掠れた声を出しても、頭の中から返事は聞こえなかった。
林太郎はゆっくりと目を閉じた。頭の中に浮かぶかも知れない懐かしい映像を探そうと、精神を集中させた。
林太郎の中から去る時に、おうがいは映像化した記憶を全て持ち去ってしまったようだった。
おうがいが見せてくれた美しい映像はどこにも見当たらず、ただ、瞼の内側だけが、林太郎の目に張り
付いた。
気が付くと夜になっていた。
どうやらあのまま眠入ってしまったようだ。耳を澄ませたが、まだ恵子は帰っていないらしく、部屋は物音一つしなかった。
林太郎はベッドから起き上がって部屋の照明をつけた。
泣きながら寝入ってしまった顔を洗いに洗面所に行く。瞼が涙でふやけているのが分かったから、鏡を見ないで顔を洗った。冷たい水を何度も顔にかけて擦ってから、タオルで顔を拭いて部屋に戻った。
机に向かうと、スリープ状態にしてあったパソコンを立ち上げた。パソコン画面に暗証番号を入れてからクリックし、万年兄のファイルを開ける。
「おうがい君はいないんだし、これはもう、いらないな」
画面にずらりと並んだ女性の裸体画像を、林太郎は一つ一つ消去していった。
頭の中に、((こりゃ林太郎!画像を消すなんて勿体ない!))と言う声が甦ってこないかと少し期待していたが、自分がパソコンのキーを叩くカチカチと言う音しか耳に入ってこない。
林太郎は全部の画像を右端のゴミ箱のマークへと移動させた。(ゴミ箱を空にしますか)の文字にカーソルを置いてクリックした。
机に両肘を突き、手に顔を乗せて、何も映っていないパソコンの画面を暫く眺めた。それからぽつりと、「やっぱ、もったいなかったかな?」と独り言ちた。
「まあいいか。見たくなったら、上田んちに行けばいいんだし。あいつの兄ちゃんの事だ、ファイルの中身がパワーアップしている可能性がある」
玄関ドアの開閉音がした。恵子が帰ってきたようだ。
林太郎はパソコンを閉じて「腹減った~」と呟いてから、リビングへと向かった。
文化祭の代休が明けた火曜日。
いつものように遅刻すれすれで登校すると、林太郎の環境は激変していた。
姿を見つけるや否や、「森くーん♡」と林太郎に近寄ってくる女子生徒は一人もいなくなっていた。それどころか、林太郎と目が合った女子は皆、怯えた表情をして、そそくさと離れて行く。
(あちゃー。よっぽど、デスメタルを歌う俺の顔が怖かったんだな)
だけどこれで、登校時の煩わしい日課からは解放されそうだ。
心が軽くなった林太郎は意気揚々と昇降口に向かった。向かった筈なのだが…。
「あ、森だ!」
林太郎を指差して、嬉しそうな顔でぞろぞろと近寄って来る生徒がいる。デウカリオンのファン達だ。当然、皆、男である。ヘビィメタル好きな連中だから、髪型もやや奇抜で、制服を着崩した者が多い。
四方八方から寄ってくる男子生徒の群れに驚いて足を竦ませた林太郎は、彼らにあっという間に取り囲まれてしまった。
「森!文化祭のライブは感動したぞ!お前のデスボイスが、あれほど高度なものだとは思わなかった」
「いや、ホント!野木達の演奏をバックに違和感なく歌える奴って、今までいなかったからな。デウカリオンでボーカルやれるって、お前、本当に才能あるぜ」
爽やかな高校生とは程遠い男共に取り巻かれて、林太郎は非情に困惑した。少し離れて立っている健吉に目をやると、女子の時と同じく、にこにこ顔で林太郎を見守っている。
女子生徒に取り巻かれるのだって、本当は嫌だった。彼女達に悪気があるわけではないので、仕方なく女子の群れの真ん中に突っ立って、側に寄ってくる女の子のスリーサイズを目測しながら上手く受け答えして、冷静さを保っていた。
それが、今は、不良スタイルの男子生徒の群れに取り巻かれているのである。
女子のようにスリーサイズを目で測るわけにもいかず(そんなもん、絶対に測りたくない!)、林太郎は緊張の極みで立ち尽くすしかなかった。
「なあ、もりりん。お前これから、デウカリオンのボーカルやっていくんだろ?ってことは、高校卒業したら、あいつらと一緒にプロデビューすんだよな?」
茶髪の男子生徒が目をキラキラさせながら、林太郎ににじり寄ってくる。
「いや、その、プロになるかどうかは、まだ決めてなくて」
狼狽えながら返事をする林太郎に、耳にピアスをずらりと並べた男子が林太郎の肩に馴れ馴れしく腕を乗せた。
「もりりん、お前は先生達から“後にも先にも岨野山田高校からT大理三現役合格する唯一の生徒”って言われてるけどさ、俺は絶対、デウカリオンでボーカルやった方がいいと思うぜ。だってあいつらは、世界を股に掛けたヘビメタバンドになるんだからな」
ワイシャツの下に着こんだ派手なメタル柄Tシャツをのぞせた生徒が、林太郎の背中をバンバンと叩きながら言った。
「そうだぜ、もりりん。この岨野山田から世界に名を轟かす超有名なヘビメタバンドが輩出されるのは、後にも先にもデウカリオンだけだ!」
(何だよ、こいつら。俺が女子に囲まれていた時には、いつも敵意の籠った視線を向けてたくせに、急にこんなに馴れ馴れしくなって。それに、俺のこと“もりりん”なんて、変なあだ名で呼び始めるし。っていうか、この状況、一体どうしたらいいんだ―――?!)
林太郎は恐ろしく情けない表情を健吉に向けた。
林太郎がパニックを起こす寸前だとすぐに気が付いた健吉は、「ちょっと、ごめんね~」と言いながら、男子の群れを掻き分けて林太郎を引っ張り出した。ぽかんとした表情でいるデウカリオンファンに「またね~」と手を振ってから、林太郎の手を引っ張って駆け出した。
「助かったよ、健吉、ありがとう」
ぐったりとした様子で礼を言う林太郎に、「林太郎君、大丈夫?」と、いつもの心配した目を向ける健吉だ。
「女の子の群れに埋もれている林太郎君を引っ張り出すのは、幼稚園時代から慣れっこだけど、男子生徒の群れからは僕、今日が初めてだよ」
「…俺も、男子の群れに埋もれたのは、今日が初めてだ。まあ、それだけ、野木達のバンドがすごいって話なんだよな」
予鈴が鳴り始めた。急いで上履きに履き替える林太郎に、健吉が嬉しそうに言った。
「そうだね。林太郎君、デウカリオンファンの男子達に“もりりん”ってあだ名付けられてよかったじゃない。林太郎君をデウカリオンのメンバ―だって認知したから、親しみを込めて呼ぶんだよ」
「あだ名って、ただ森林太郎を縮めただけじゃないか。…まあ、鼻血王子よりかは、ずっとましだけどな」
林太郎と健吉は、二階の教室までダッシュした。鈴木の姿は廊下にも教室にもない。
「セーフ」と言いながら息せき切って教室の中に入ると、林太郎は、エリスの席に目を向けた。
エリスは真紀とくららに囲まれて楽しそうにお喋りをしている。
エリスがこの教室に現れてから、毎日、一番最初に、エリスを見た。
(今日が、最後か)
林太郎は笑顔でエリスに「おはよう」と挨拶した。エリスもにっこりと笑った顔で林太郎に「おはよう」と返す。その様子に、健吉が「良かったあ!二人とも、仲直りしたんだね~」と相好を崩した。
林太郎は自分の席に着いてから、隣の健吉に「ありがとな。エリスに体育館に来るように一生懸命に説得してくれて。お陰で、エリスの誤解が解けたんだ」と小さく耳打ちした。健吉が嬉しそうに「うん」頷いた。
休み時間になると、エリスがアメリカに帰ると聞きつけた運動部員が、どっと教室に押し寄せてきた。
大根田との一件があって以来、エリスは全ての運動部員のカリスマになったらしい。エリス詣でが収まる様子はなく、林太郎はエリスと会話するどころか、あまりの人の多さに自分の席から逃げ出す始末だった。
林太郎にもデウカリオンファンが絶えずやって来るものだから、その対応に追われてエリスと話すどころではなくなった。
午後には少し話せるようになるかと期待していたら、エリスは昼前に早退するという。
「何でっ!」と、思わず声を荒げてしまい、真紀に睨まれた林太郎である。
「ごめんね。明日の、帰国の準備があるから」
しょんぼりと俯いたまま消え入りそうな声を出すエリスに、林太郎は何も言えなかった。
昼食と昼休みの時間が終わり、午後の授業が始まった。
林太郎の席の後ろには、エリスの姿はなかった。
大好きなエリスが自分の後ろの席に座っているこそばゆさを、日々、背中に感じていた林太郎は、恐ろしい程の虚無感に胸を押し潰される思いで授業を受けていた。
後ろにエリスがいない。
この五か月間、当たり前になっていた風景が、一瞬で消滅してしまう恐怖に、林太郎は人知れず身を震わせていた。
(失うって、こういう事なんだな。おうがい君、あんたの気持ちがやっと分かったよ。だけど、あんたは、これからは永遠に“エリス”といられるんだ。よかったね)
頭の中に浮かんだ呟きに、またしても涙が溢れそうになった。目を瞬かせながら校庭を見る。エリスが教室に初めて現れた時と同じように、桜の葉は青々としていた。
(でも、あの時とは、色が変わっているんだ。誰も気が付かなくたって、確かに、全てが変わっていく)
何一つとして、同じものが存在しない奇跡の世界に、林太郎は生きている。




