最終話・この恋を抱きしめて※
学校から帰ると自分の部屋でスマホの画面を開いた。
エリスにメールしようと文面を考えるが、何も思い浮かばない。
机の上にスマホを置いて液晶画面をじいっと眺めていたら、林太郎の念力が通じたのか、着信が入った。慌てて画面を見ると、真紀からのメールだった。
「なんだ。生田からか」
がっくりと肩を落としながらメールに目を通すと、明日、学校をずる休みして、健吉やくらら、坂本などのクラスメイトや、女子サッカー部のメンバー達で、エリスを羽田まで見送りに行くと書いてあった。
〈お前も来い〉との真紀の誘いに〈考えておく〉と返信した。
その後、真紀からは何の連絡も入らなかった。つっけんどんな林太郎の返信文に怒ったのか、呆れているのか、それとも(あいつに限ってそれはないと思うが)傷心の林太郎を、そっとしておいてやろうとの配慮か。
「明日か…」
林太郎はいつものように部屋の窓から空を見上げた。窓から見る空は四角く切れて、とても小さく、圧迫感しか感じない。
林太郎はエリスにメールを打とうと、スマホの画面に再び指を置いた。指は動かず、目だけが同じ文字を何度も追った。
いかないで
(エリス、アメリカなんかに行かないで。ずっと俺の側にいて。君の夢は、とても大きな夢で、俺も応援したいけど。だけど、本当は、君と離れたくない)
林太郎はスマホを両手に持った。エリスと呟き、平たい画面にそっと頬ずりをする。
「エリス、君が、好きだ」
今、この気持ちをメールに打って送れば、エリスは心変わりをしてくれるだろうか。
だとしたら。
((エリスを本当に大切に思うのならば、林太郎、お前はそのままスマホを握りしめているだけにするのだぞ))
頭の中でおうがいの声がした。
はっとして、机から頭を持ち上げる。部屋をきょろきょろと見渡してから、林太郎は溜息をついた。
「何だ、うたた寝しちゃったのか。おうがい君の声が聞こえた気がしたけど、多分、夢だな」
たとえ夢であっても、頭の中で聞こえたおうがいの声に嬉しくなって、林太郎は次第に暗くなっていく自分の部屋でスマホを握りしめたまま、じっとしていた。
羽田空港国内線ターミナルの二階の中を、ショルダーバッグを肩に掛けてエリスは歩いていた。
母の紗世には、見送りは入らないと言って、マンションの前で別れた。娘の決意を尊重した母親は、幾分寂しそうな表情でマンションのエントランスの前からエリスを見送った。
一人、モノレールに乗って羽田国際空港に着いた。大型のスーツケースを出発ロビーの手荷物カウンターに預けると、出張や旅行で人が多く行きかう中央の広間から航空会社搭乗チケット売り場の前を、エリスはぐるりと見渡した。
「今日は、水曜日か。今の時間は授業中だものね」
学校の友達が見送りに来ていないかと探してしまってから、エリスは目をぱちぱちと瞬きしてから、大きく息を吐いた。
「さて、行くか」
縦長の巨大なロビーを、搭乗ゲートに向かって歩き出す。
「エリス!」
「エリスちゃん!」
「おい、エリス・ワーゲルト」
後ろから自分を呼ぶ複数の声に驚いて、エリスは振り返った。
真紀とくらら、万年や坂本、岩崎、原田、それから健吉が立っていた。その後ろには女子サッカー部員が一列に並んでいる。
「みんな…」
涙が溢れそうになる目を強く擦って、エリスはにっこりと微笑んだ。
「今日、学校あるのに。来てくれたんだ。ありがとう」
最上級の笑顔を作るエリスに、真紀が涙を溢れさせた。
「エリス!短い間だったけど、すんごく楽しかったからなー!お前と一緒にサッカー出来て、俺は幸せだった。俺は絶対プロのサッカー選手になるぞっ。お前も頑張れよ!」
「真紀ちゃん」
エリスの目からも涙が溢れた。それを見た真紀とくらら、女子サッカー部の部員達が辺りを憚らずわんわん泣き出した。女子が大泣きを始めた脇で、男子達が困った様子でエリスを見ている。その表情に、エリスは涙を流しながら大笑いした。
「エリスちゃん、元気でね。君のことは絶対に忘れないよ」
健吉が泣きそうなのを我慢して顔をくしゃくしゃにするのを、エリスは手で涙を拭いながら何度も頷いた。
「健吉君も、万年君も、みんな元気でね。本当に楽しい高校生活だった」
エリスは見送りに来てくれた友人達一人一人に握手した。
「そろそろフライトの時間だね」
寂しそうな健吉に、エリスは小さな声で尋ねた。
「林太郎は?」
周りをきょろきょろと見回すエリスに、健吉が力なく俯いて言った。
「ごめんね、エリスちゃん。林太郎君とは、連絡が付かなくて…」
「そう」
悄然としている健吉の肩に手を置いて、エリスは言った。
「林太郎に伝えてくれる?あなたに会えて、良かったって」
エリスは背筋を伸ばすと、皆に手を振りながらバッグを抱え上げて出発ロビーへと向かった。最後に林太郎に会えないのは辛いけど、仕方がない。今、林太郎は身を切られる思いでいるのだろう。辛過ぎて、エリスを見送ることができないのだ。
(うん。でも、それでいい。それで)
エリスはチケットカウンターの脇を闊歩しながら、出発ロビーに向かってまっすぐに進
んでいった。
「エリス」
後ろで声がした。エリスが、この世で、一番聞きたい声だ。
急いで振り向くと、林太郎が一人で立っていた。
「林太郎」と小さく叫んでから、エリスは林太郎に駆け寄った。
「来てくれたんだ」
色んな言葉が頭の中を駆け巡る。だけど、何も口にできずに、ただそれだけ言うのが、やっとだった。
「うん」
林太郎もエリスと一緒のようだ。何か言おうと口を動かすが、言葉が出てこない。困ったような、悲しいような、だけど一生懸命に笑顔を作っている林太郎の顔を、エリスはじっと見つめた。
林太郎が、エリスに向かって、そっと右手を差し出した。
「エリス、夢を叶えるんだ。俺は応援している。だから、頑張れよ」
「ありがとう、林太郎」
エリスは自分に差し出された手をしっかりと握りしめた。林太郎の掌がエリスの細い手を包み込む。
(大きい手。こんなに広くて、大きくて、しっかりとしていたんだ)
エリスは握手を交わした林太郎の手をゆっくりと放した。
「じゃあ」
そう言うと、エリスは林太郎に背を向けた。再び出発ロビーへと歩き出す。金属探知機の列に並んだ。そこを通れば、搭乗ゲートに入る。
「エリス!」
後ろから林太郎の声が追いかけてきた。
「会いに行くから!俺、絶対、お前に、会いに行くから!」
エリスは立ち止った。後ろから足を進める乗客がエリスにぶつかって、怪訝な表情をする。
「林太郎!」
バッグを放り出して、エリスは林太郎に向かって駆け出した。金属探知機に並んでいる乗客は、自分達の脇をすり抜けて走るエリスに驚いて一様に目を向けた。
「エリス!」
走ってくるエリスに向かって林太郎は両腕を広げた。飛び込んできたエリスを、自分の胸に抱き留める。
「林太郎!大好き」
「エリス、愛してる」
息も出来ないくらいに互いの体を掻き抱き、しっかりと背に手を回して、エリスと林太郎は空港の広間に立っていた。
「あ、あの、お客様…。あと少しでフライトの時間になりますので、金属探知機を通って搭乗ゲートにお入りになって頂かないと…」
若い女性のグランドスタッフに恥ずかし気に声を掛けられて、エリスと林太郎は体を離した。力強い青い瞳を林太郎に向けると、エリスは軽やかに身を翻して、搭乗ゲートへと駆け出した。
「行ってくるね、林太郎!」
「ああ、行ってこい!」
エリスは金属探知機を通って搭乗ゲートへと消えて行った。
林太郎も駆け出した。二人の抱擁を真っ赤な顔をしながら呆然と眺めていた友人達を置き去りにして、林太郎は走った。
「林太郎君、どこ行くの!」との健吉の慌てた声に、「展望デッキ」と答えて、林太郎は空港の出発ロビーの長い通路を走った。
通路のあちこちで「走るな」「危ないでしょ」と非難の声が上がる。林太郎は「ごめんなさい」と謝りながら、エスカレーターに乗って展望デッキを目指した。エスカレーターの階段を駆け出したいのをぐっと堪えながら五階まで上る。
展望デッキに出ると、強い風が顔に当たった。デッキから見下ろすと滑走路の上で大型の旅客機が発着陸するのが見えた。
「アメリカに行くのはどの機ですか?」
林太郎は飛行機にカメラを構えている初老の男性に尋ねた。
「あっちだよ」と男性が右の方向を指差した。それでも分からずにデッキをうろうろしている林太郎に、男性は丁寧に教えてくれた。
「アメリカ方面は北ウイングだよ。ほら、あの白いエアバス機だ。もうすぐ飛び立つよ」
林太郎はデッキから首を伸ばして滑走路を走り出した飛行機を目で追った。轟音と共にスピードが増し、巨大な機体がふわりと持ち上がる。脚を機体に格納した旅客機は、機首を上に向け、優雅な姿で上空に昇っていった。
「どうだい、綺麗だろう?」
林太郎は男性の指差す旅客機を眺めた。
「本当だ。とっても綺麗な飛行機ですね」
エリスを、エリスの未来を乗せて飛び立っていく旅客機を、林太郎は見上げた。
機体の白い色が、雲一つない秋の青空に溶けていく。
風に吹かれながら、林太郎はいつまでも広い空を見上げていた。
終




