涙、涙で一日が過ぎ
林太郎が布団に包まったまま目を覚ますと、恵子がベッドの脇に立っていた。
「どうしたの林太郎、学校に行く時間、とっくに過ぎているんだけど」
布団の中から目だけ出して時計を見ると、もうすぐ八時四十五分になる。
「…昨日からおなかが痛くて。今日は学校休む」
「あらそう。じゃあ、先生に伝えて貰うように、健吉君にメールしておきなさいね」
学校に行きたくない時の常套句が久しぶりに林太郎の口から飛び出したのに少し驚いた恵子だったが、にっこりと笑って、林太郎が丸くなっている布団をポンポンと叩いた。
部屋から出て行こうとする恵子に林太郎は布団に潜ったまま、「母さん、今日、会社は」と訪ねる。
「朝一番の新幹線で帰って来たから、ちょっと遅く出勤するわ。十時半には家を出るから、後は宜しくね。チャーハンでも作っておくから、気分良くなったら食べてね」
そう言い残して恵子はドアを閉めた。林太郎の部屋の向こうから洗濯機を回す音と、床に掃除機をかける音が同時に響いてくる。
((お前の母御は本当にタフであるな。感心するぞ。彼の前世は巴御前やも知れぬな。あの逞しい母御から、どうしてこんな稀代のべそかきっ子が生まれたのか、余は不思議でならぬ))
「稀代のべそかきっ子で悪かったね。死んじまった親父に似たんじゃねえの」
ふくれっ面で言う林太郎だが、いつもと変わらぬ様子で自分に話してくるおうがいに、ほっとしているのも事実である。
林太郎は布団から出るとスマホを取り出した。健吉にメールで今日は学校を欠席するのを伝えた。すぐさま〈分かった〉とスマホに連絡が入った。
少し迷ってから〈エリスは学校に来ているの?〉と文字を打つ。すぐに消去して〈俺の他に今日休みの人いる?〉に文面を変えた。健吉から〈林太郎君だけだよ〉との返信があった。
「エリスは強いな。ダメなのは、俺だけだ」
再び布団に潜り込むとまたウトウトし始めて、そのまま眠ってしまった。起きると洗濯機も掃除気の音も止んで、家の中は静まり返っていた。恵子も出社したようで物音一つしない。
林太郎はベッドから起き上がって風呂場に行った。脱衣所の鏡に映る自分の姿に目をやる。思わず「うわ、ひっでえ、かお」と舌打ちした。
恵子が言った通りに、ダイニングテーブルの上には大盛りのチャーハンが作って置いてあった。壁の時計を見ると、とっくに昼を回っていた。
レンジで温めたチャーハンをかっ込んでいると、スマホにメールの着信音が鳴った。見ると希輔からだ。〈健吉から腹痛を起こして学校を休んだ聞いたが大丈夫か〉の文に、〈うん、まあ、何とか〉と、歯切れの悪い返信をする。〈明日は学校に行く〉と追加で文字を打って送信してから、林太郎は後悔した。
「学校になんか行けない。あんな酷いことしておいて、どんな顔してエリスの前の席に座れるっていうんだよ」
食事を中断して、林太郎は部屋に戻った。ベッドに腰かけると背中を丸めて溜息をつく。脳裏に昨日の出来事が甦ると、林太郎の目からまた涙が溢れてきた。
「ああ、くそっ」
何も手に付かず、布団に包まることしかできない林太郎だ。ベッドでもぞもぞやっているうちに無為に時間が過ぎた。
いつの間にか微睡んでいた林太郎はスマホの電子音に叩き起こされた。布団を撥ね退けてスマホの画面を見ると、紗世の電話番号だ。
「はい、森です」
息せき切った声で応答すると、紗世の沈んだ声が聞こえてきた。
「森君、ごめんなさい。私、あなたに酷い事をしてしまった」
「何ですか、酷い事って?」
意味が分からずに聞き返すと、紗世は声を震わせた。
「私、エリスをアメリカに行かせない為に、あなたを利用したの。エリスが日本に戻ってくるって言ったのは嘘。あの子がアメリカからスカイプで私に言った言葉は、“日本の学校で学園祭が終わったらアメリカに戻る”よ。どうしても自分の将来の夢を実現したいからって。あの子があなたに好意を抱いているのは分かっていたし、あなたもエリスに好意を持っているのを知っていたから、あなたがアメリカ行きを引き留めれば、あの子の決心が揺らぐと期待したのよ。それがかえって逆効果になってしまった。エリスを頑なにさせて、あなたを傷付けてしまった」
紗世の声は涙声になっていた。
「エリスは昨日、酷く落ち込んで学校から帰って来たの。理由を聞いら、“ママのせいだ”って叫んで泣き出した。それからあの子とは口を聞いていない。私が余計な手回しをしたせいで、あなたとエリスの関係を悪くさせてしまった。私、何てバカなことをしのかしら。森君、本当に、ごめんなさい」
後はもう紗世の取り乱した泣き声しか聞こえない。林太郎が紗世を慰める始末となり、落ち着きを取り戻した紗世に、自分は大丈夫だからと念を押して電話を切った。
電話を切った林太郎は深々と溜息をついた。
「紗世さんを慰めていたら健吉になった気分がしたよ。お陰で、俺の気分も落ち着いてきた」
((昨日のお前は、エリスの母御どころではない取り乱しようであったぞ))
「そうだよね。健吉って、ホント、忍耐力あるよな」
健吉の類まれな忍耐力を培わせたのは林太郎である。世界とは、意外にうまく回っているものである。
「なあ、おうがい君。これから俺、どうしたらいい?」
ベッドに蹲って、林太郎は悲しげな声を出した。
((このままずっと部屋に閉じこもっているわけにもいかんだろう))
「そうだね。今日を入れて二日後には文化祭だし。…文化祭が終わったら、エリスはアメリカに帰っちゃうのか」
泣きそうに顔を歪める林太郎に、おうがいが((しっかりせい))と活を入れた。
((よく聞け、林太郎。エリスは今、心の中の“エリス”を消そうと必死だ。子供の頃、エリスは己の強い意志で“エリス”の封印に成功した。だから過去と同じやり方で“エリス”をねじ伏せようとしている。だが、その方法が上手くいってないから、“エリス”はエリスの中で増大しているのではないか?思い余ったエリスは、愛する者から離れることで、自分の精神を傷つけて“エリス”を心の底に押し込めようする荒療治に出たのだ。それで封印に成功すればよいが、失敗すれば、エリスの心が崩壊してしまう。エリスを助けなければ。めそめそしている暇はないのだぞ))
「でも、どうやったら、エリスを救えるの?」
涙声で呟く林太郎に、おうがいは励ます口調で言った。
((余は紗世殿から“エリス”の存在を聞いてから、ずっと考えていたことがある。多分それが、エリスと“エリス”の両方を救う唯一の方法だ。だが、余は精神だけの存在だからな。お前が動かなければ、何一つとして実現せんのだ。林太郎、手伝ってくれるな?))
おうがいの切迫した言葉に、林太郎は強く頷いた。
「エリスが幸せになるなら、俺は何だってするよ」
((ならば、林太郎。これから余が見せる映像をよく覚えていてくれ。これが二人のエリスを救うカギとなる筈だ))
林太郎はおうがいに促されるまま、目を閉じた。
瞼の奥に広がる映像は、今までに見たこともない美しいものだった。
インターホンが鳴ったので、林太郎はリビングにある通話ボタンを押して「新聞なら間に合ってます」と面倒くさそうに言った。言い終える前に「野木だ」との怒った声に驚いて、すぐに玄関の扉を開けた。
マンションの入り口にむっつりとした表情で希輔が立っていた。学校から直行したらしく、制服のままだ。希輔は鋭い目を見開いて、林太郎のぼさぼさ頭と、くたくたのトレーナーに視線を滑らせた。
「…森、お前、すごい格好だな。学校の女子に見せたら肝を潰すの請け合いだぞ?」
「ははは。家にいるときはいつもこんな格好だよ」
笑いながら突っ立った髪を撫でる林太郎をじっと見つめてから、希輔は片手を突き出した。
「見舞いだ。ほら、パティスリー・ニシモトのイチゴショートケーキを買ってきたぞ」
目の前に突き出された小さな箱を林太郎は戸惑った表情で見た。
「ありがとう…って、これ、野木がニシモトで買ってきたの?」
「そうだが?お前がこの店のケーキに目がないと相沢に聞いたんでな」
林太郎は、希輔がケーキの並んだショーケースを鋭い目つきで覗き込む姿を想像した。
こんなに目付きの怖い顔の客が来て、女の子の店員さんはさぞかし緊張したろうなと、思わず噴き出しそうになった。
希輔がじっと自分を見つめているのに気が付いて、林太郎は慌てて緩んだ口元を引き締めた。
林太郎の様子を意味ありげな表情で眺めていた希輔は、「上がらせてもらうぞ」と靴を脱ぎ始め、林太郎が止める間もなくリビングへと入って行った。




