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真実の行方・後編


 林太郎は自分の部屋のベッドで、この世から全てを遮断するかのように布団を被り、自分で作った小さな暗闇の中で、手足を折り曲げて丸まっていた。


 大量の涙を流しながら教室の床にへたり込んで正体を失くしている林太郎を家まで連れて帰って来たのは、勿論、健吉である。

 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしている林太郎の手を引いて下校した時には、夕方の六時を過ぎていた。

 日も暮れて、校舎には人影がなかったので、林太郎の惨状を学校の生徒に見られることはなかったが、帰宅途中、商店街の灯りや電柱に設置されている街路灯に照らされて露わになる林太郎の様子に、買い物帰りの主婦や家路に向かうサラリーマンなどの好奇心に満ちた視線を向けられるのは避けようもなかった。


 林太郎が学校から泣きながら帰るのは、小学校までは日常茶飯事だった。


 その頃は大して人の目を気にすることもなかった健吉ではあるが、高校二年で、しかも背丈が自分よりもはるかに伸びた林太郎の手を引っ張って歩くというのは、さすがにに気恥ずかしい思いである。


 しかしそこはプロ級お世話係としての自負がある。


 べそべそと泣き続けて足元が危うい林太郎をしっかりとガードしてマンションまで連れて帰り、濡れタオルで林太郎の涙と鼻水で汚れた顔を丹念に拭き上げ、制服を脱がせてトレーナーの上下を着せてから、ダイニングテーブルの椅子に座らせた。


 冷蔵庫にあるペットボトルのお茶をコップに入れて、タオルを両手に掴んだまま、未だ涙を零して鼻を啜り上げている林太郎の前に置いた。


 お茶を飲んで少し落ち着いた林太郎の様子を確かめてから、健吉は自分が帰った後にドアの施錠をきちんとするようにと念を押して、マンションから出て行った。


「林太郎君、きちんと鍵を閉めておいてね。強盗なんかが入ってきたら大変だから」


 林太郎は健吉の言葉に無言で頷いていたが、もし、本当に強盗が押し入ってくるのなら、それでもいいと自暴自棄な思いでいた。


 出刃包丁を突き出して金をよこせと言われたら、金なんかないから、どうぞお刺しなさいとトレーナーをめくって、自分の胸を強盗に突き出すだろう。


 そうは言っても、林太郎が住んでいる古びたマンションに金の匂いがする筈もなく、嗅覚の鋭い泥棒であれば見向きもしないのが現実だ。


 ドアの鍵を掛けてなかったことで、恵子に怒られる確率の方が遥かに高い。林太郎は椅子から立ち上がると玄関まで行ってドアの鍵を掛けた。


「ああ、そうだ。今日は母さん、泊りがけの出張があるから、家には帰ってこないんだった」


 自分のこんなヨレヨレの状態を母親には見せたくはない。何があったのかと追及されるのもごめんだ。 今日、一人で夜を過ごせることに、林太郎はほっと胸を撫で下ろした。


 時計を見ると八時近くになっている。冷蔵庫の中に恵子が用意してくれた夕食が入っている筈だがとても食べる気になれず、健吉がコップに注いでくれたお茶だけを飲んで、林太郎は自分のベッドに直行した。


 布団を被ってから数時間が経過した。

 泣き疲れてウトウトした林太郎に、おうがいの声が聞こえてきた。


((すまん、林太郎。本当に、すまなかったの))


 聞いたこともない悲しげな声に、林太郎は目を覚ました。


((余が前世の記憶を操作したのは、お前の精神に重い負荷を掛けたくなかったからだ。それが(あだ)となって、このようなことになるとは。本当に申し訳ない))


 おうがいの萎れ切った声をぼんやりと聞きながら、林太郎は口を開いた。


「おうがい君が、どうして俺に前世の記憶を見せなかったか、やっと理由が分かったよ。エリスとの恋を諦めろって言っていたのも」


 布団の中で力なく半分開けた目から、また涙が溢れてきた。


「エリスはすごく震えていた。怖かったんだ。なのに、俺、いくらエリスを失いたくないからって、無理やりあんな事…。最低だ」


 林太郎は髪をぐしゃぐしゃに掻き毟りながら嗚咽を繰り返した。


((すまん、林太郎。余のベルリンでの行いが、エリスとお前にこのような災いをもたらしているのだ。生まれ変わって再び出会ったお前達を、これほど(さいな)むことになろうとは。全て余の責任である。死んでも詫びをし切れん))


「違う。俺のせいだ」


 林太郎は指を唇に押し当てた。舌先に鋭い痛みが残っている。


「…エリスが抵抗してくれて良かったよ。もう少しで、大変な事、しでかすところだった」


 林太郎は布団から出てベッドの上に腰かけた。

 カーテンを開け放した窓を眺める。走っている車のライトが差し込んで、部屋が一瞬明るくなった。立ち上がって机の上の間覚まし時計を手にする。窓から差し込む電燈の薄明りに翳すと、午前一時を回っていた。


((林太郎、食事を取らぬのは良くないぞ。空腹でなくても、何か少し口に入れたらどうだ?))


「そうだね。母さんが出張から帰って来て、俺が何も食べていないのがバレちまったら、まずいからな」


 林太郎はキッチンに入って冷蔵庫を開けた。恵子の用意していった夕食をレンジで温めてからテーブルに持っていく。仕方なく食べ始めたのが、口に入れた途端に空腹が襲ってきた。


「米粒一つ喉を通らないと思っていたのに。体って、現金だよな」


 力なく笑う林太郎におうがいが((若いってのはそういうもんだ))と力強い口調で言った。


((余は胃がんで死んだからな。病気が進行して本当に食えなくなる辛さは身をもって知っている。食え、林太郎。人間、食えるうちが花だ))


「何か、すごく説得力あるな」


 無理やり笑うと、また涙が溢れ出した。

 鼻を啜りながらも何とか食べ終えて食器を片付け、部屋に戻る。風呂にも入った方がいいだろうが、否が応でも洗面所の鏡に映る自分の泣き腫らした顔は見たくなかった。ベッドに横になったが、目が冴えてしまって眠れない。


「ねえ、おうがい君。前世のエリスは馬車に轢かれて死んだって、本当なのか?」


 林太郎の質問に、おうがいは躊躇なく答えた。


((本当だ))


「そうか。酷いな」


 林太郎は掠れた声で呟いた。自分の声とは思えない。どこか遠くで知らない人間が呟いたように聞こえた。


((何も言い訳もするつもりはない。全て余の責任だ))


「その話、詳しく聞いてもいいかな」


 焦点が合ってない瞳で暗闇を凝視しながら、林太郎は言った。


((話しても、大丈夫か))


 おうがいに林太郎はこくりと頷いた。


 林太郎の心がずたずたの状態であっても、今話す必要がある。覚悟を決めたおうがいは、抑揚のない声でゆっくりと話し出した。



((エリスと出会ったのが原因で、上官の不振を買っても恋に迷い帰国せず、母が死んだ辛さをエリスの優しさで紛らわせようとした。エリスと彼の(ベルリン)で骨を埋める決意も出来ていないのに、ずるずると関係を続けて挙句に妊娠させた。エリスの口から子を授かったと聞いた時には、嬉しさよりも恐ろしさが先立った。もうこれで日本には戻れないのだとな。


 相沢謙吉が天方伯のロシア外遊に伴ってベルリンに姿を現した時には、縋る思いで会いに行った。果たして、相沢は余に帰国するよう忠告した。余はエリスを日本に連れて帰ろうとしたが、異国の貧しい身の女など放っておけと相沢に止められた。お前は前途ある身だ。(しか)るべき家から妻を娶らなければ出世もないぞと言われ、余は逆らえなかった。


 だが、余の口からエリスに真実を伝えることは出来なかった。

 天方伯のロシア外遊での通訳を無事にこなし、エリスの家に戻った。つわりが酷いエリスに真実を伝えられずに三日が過ぎた頃、業を煮やした相沢が突然家にやって来て、エリスに余が単身で帰国すると告げた。

 ショックを受けたエリスは泣きながら家を飛び出した。後を追いかける余と相沢から逃れるように表通りまで走って、そのまま馬車の行き交う大通りを突っ切ろうとした))



「それで、馬車に轢かれたのか」


((即死だった。余は錯乱状態になって、馬車の重い鉄製の車輪の下敷きになっているエリスの体を引っ張り出そうとした。誰かの怒鳴り声と泣き叫ぶ声が重なって、余の耳に聞こえてきた。それが自分の喉から吐き出されているものだと気付いた途端、意識を失った。


 意識を取り戻すと病院のベッドの上で、相沢の苦り切った顔が余を見下ろしていた。


 余は、完全に自失した状態で何もできなかった。エリスの葬式も、一人残されたエリスの母親を田舎の親戚に幾らかの金を包んで預けに行くのも、全て相沢が取り仕切った。


 ベッドから起き上がれるようになると、相沢と一緒に帰国の途に就いた。

 気分が優れないと言って誰とも会わず、客船の二等部屋に籠ってエリスを失った悲しみに身を捩っていた。

 失ったものが、どれほどかけがえのないものだったのかを思い知ったところで、後の祭りだ。

 

 愚かな男は、帰国後に短い小説を書いて発表した。どんな形であれ、エリスの存在を、この世に残しておきたかったからだ。結末を変えたのは、たとえ小説の中であっても、余とエリスの子を死なせることが出来なかったからだ))


「そうか」


 林太郎は横たわっていた体をベッドから起こすと、壁に背中を付けて膝を折り曲げ両腕で抱え込んだ。 

 膝に顎を乗せてシーツに目を落とす。窓から入ってくる僅かな電燈の光に、シーツの輪郭が薄ぼんやりと闇に溶けている。


 暫くそうやって膝を抱えていた林太郎だが、思い出したように小さく呟いた。


「おうがい君、あんたさ、最低だ」


((ああ。林太郎の言う通りだ。余は、最低な男だよ))


「だけど、あんたは、俺だ。エリス…ごめん。前世も、今も、傷つけて、ごめん」



 静まり返った部屋の中で、林太郎は自分の膝に顔を埋めて、肩を震わせた。



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