決意
林太郎は自転車を押しながら帰宅の途に着いていた。
九月に入ると、夕闇も少し急ぎ足でやって来る。自転車に乗って帰りたいのは山々だが、震えている足でペダルを漕ぐのは危険だろう。
薄暗闇の中、林太郎は自転車が倒れないようにグリップをしっかりと握りしめて、ふらつく足を前に進めた。
「エリスは、自分の前世を知っていたのか」
林太郎の中におうがいがいるように、エリスの中にもエリスがいる。
「つい最近現れたおうがい君と違って、物心ついた時にはもう、エリスには“エリス”がいたんだ。それって、どんな感じなんだろう?」
おうがいが突然心の中に出現した時、林太郎はパニックに陥って気を失った。
心の中に、もう一つの別の心が押し寄せたのだ。どんな人間だって正常でいられるわけがない。靄がかかったようにしか思い出せないのは、おうがいが当時の記憶を林太郎からシャットアウトしているからだ。それにしても、だ。
「おうがいめ、あいつ俺に、エリスには前世の記憶がないって断言してたのに。ほんっとうにいい加減な奴だよな」
林太郎はぷりぷり怒りながら自転車を押して歩いた。だが、つい先程の紗世との会話を思い出すと、おうがいへの怒りはすぐに何処かにいってしまった。
(ずうっと側にいてあげて)
紗世の言葉が頭の中に甦る度に林太郎の頬は桜色に染まり、口元がだらしなく弛緩した。
「誰に言われなくたって、俺は最初からそのつもりだ。ずうっと、エリスの側にいたい。いる。絶対、ぜえったい、いる!」
往来を歩いている人達にぎょっとした顔をされるのも構わないで、林太郎は大声を出して己の決意を辺り一面に響かせた。
「“ずっと側にいてあげて”って、エリスとのお付き合いを紗世お母さまに公認して頂けたんだから、俺とエリスの間には何の障害もないんだ!やったね!俺はエリスとずっと一緒にいていいんだぞーっ。ずっと、て…はっ」
ずっと、ずっとを繰り返し口にしているうちに、青い空に舞う白い鳩と教会から鳴り響くベルをバックに、金色に輝く二文字が林太郎の頭に浮かび上がった。
「もしかして、それはエリスとの結婚を、許すってお言葉なのかしら?…紗世お母さま!林太郎は、そのように受け取っても差し支えないのでしょうか?」
林太郎は顔はおろか、耳まで紅潮させて、足を止めた。頭の中でワーグナー(ピアノソロで、ターン・タ・タ・ターン♪ね)とメンデルスゾーン(こっちはオーケストラで、タ~ッ・タッ・タッ・タ~ラララ・ターララ・ターララ・ラ~♪だ)の結婚行進曲が同時に鳴り響く。
極度の至福(興奮)状態へと上り詰めた林太郎は、思わず両手から自転車のグリップを離してしまった。
アスファルトの歩道に自転車が叩き付けられるガシャンという音と共に、「ちょっとぉー!気を付けてよー。危ないじゃないのよぉ」というおばさんの怒った声で我に返った。
「すいません。ごめんなさい」
林太郎は自分を睨んでくるおばさんに何回も頭を下げて謝ってから、歩道に倒れた自転車を起こした。自転車がなければスキップして帰りたいところだが、そうもいかない。
体の震えはなくなったので自転車に乗って帰ればいいのだが、浮遊している感覚の足でペダルを漕げば、車道にはみ出て車と正面衝突する可能性もある。
安全確保の為、やはり自転車には乗るべきではないだろう。
そういうわけで、林太郎は自転車を手で押しながら器用にスキップして家路に急いだ。
((林太郎、お前は、エリスの母御の話をよく聞いていたか?))
えらく真剣な口調のおうがいに林太郎は鼻歌交じりで「ああ、聞いてたよ」と言った。
「紗世さんの、エリスが前世を記憶している話には心底驚いたよ。それが本当なら、エリスは俺との逢瀬を覚えているってことだよな♡」
目尻が垂れ下がり、鼻の下がにゅーんと伸びる林太郎である。
「ねえ、おうがい君。俺も前世を記憶しているんだって、エリスに言っちゃっていいかな?ベルリン時代には成就しなかった恋だったけど、現世ではしっかりと結ばれる運命なんだって知ったら、エリスもきっと感動すると思うんだけど」
((林太郎、それは絶対やめておけ。感動するどころか、エリスは大変なショックを受けると思うぞ))
「えー。何でだよ」
林太郎はおうがいに自分の考えを否定されて、ふくれっ面をした。
((女子に言い寄られることが多いお前には、成就しなかった恋がどんなものか、理解出来んのだろうな。別れた当時の記憶を、今のエリスにわざわざ思い出させることもあるまい。エリスと結ばれたいのであれば、お前は何も知らないふりをしていた方が賢明だ))
「そういうもんかねぇ」
林太郎は気もそぞろで答えた。心が躍る今、おうがいの忠告など耳に入る筈もなく、鼻歌と共に軽く受け流してしまう。
「何にしても、エリスと俺は結ばれる定めにあるのだ。おうがい君だって嬉しいだろう?あれ?おうがい君?」
林太郎は何回もおうがいの名を呼んだが、おうがいは返事をしなかった。
「何だよ、急に黙りこくって。分かったぞ。俺とエリスが結婚するもんだから、ショックを受けちまって、声が出なくなったんだな」
少し挑発してみるが、おうがいは一言も喋らない。林太郎は怪訝な顔で首を傾げた。
「いつもなら、“こりゃ林太郎!何を性急な事を言っておる!お前は十七ぞ。法律上、まだ結婚出来る歳ではないではないか!”とか言って怒り出すのに、今回はだんまりかよ。一体どうしたんだ?さては、また嫉妬しているんだな。やだねぇ、年寄りはひがみっぽくて」
林太郎は明るい声で意地悪を言ってから、自分の頭の中に聞き耳を立てた。
言葉どころか気配すらなくなったおうがいに、林太郎は「何だよ」と怒ったように呟いて、完全に陽が落ちて夜へと変わった街中を、自転車を押しながら一人で歩いた。
翌日、エリスは学校に来ていた。
教室の入口で、エリスが席に座って本を読んでいる姿を見つけて顔を輝かせている林太郎に、隣に立っている健吉がほっとした笑顔を向けた。
自分の机にバックパックを乗せてから、「おはよう」と声を掛ける。エリスは本から顔を上げて林太郎を見た。自分に小さく微笑みを返したエリスに、林太郎は安心した。
予鈴が鳴って鈴木が教室に入って来た。
「文化祭まであと一か月を切りました。今日は、三組が受け持つことになった発表の課題内容を、皆さん放課後に残って決めて下さいね」
鈴木の言葉に、クラス全員が重苦しい雰囲気に包まれた。
岨野山田高校では、文化部と同好会の発表、それからカフェや売店、お化け屋敷などが毎年開催される。それが今回、「楽しいだけでは小学校の文化祭と一緒である。学年ごとに最低でも一クラスは、国内外の政治経済や環境などの社会問題を提起するレポートを模造紙三枚から五枚にまとめて発表を行うように」との、校長からの通達があったのだ。
各学年は六クラス。そのうちの一クラスを後から諍いのないようにと、くじ引きで決めることになった。六分の一の確率の貧乏くじを見事に引いてしまったのが、三組である。
くじ引きの代表となった坂本が「任せとけ。カフェか、お化け屋敷を引き当ててやる」と意気揚々と出掛けたと思ったら、すぐに真っ青な顔で戻って来た。その瞬間、三組の生徒達は、一番やりたくない“社会問題”を発表するという禍いが、己のクラスに降り掛かったことを悟った。
放課後になると、「塾だから」「親戚が遊びに来るから」「飼い犬の散歩」「盆栽の手入れ」などと口実を付けて、教室を逃げるように出て行く者が続出した。残っているのは真紀やエリスの運動部の数人に、林太郎や健吉などを合わせた十人にも満たない数だった。
「それでは、二年三組の、文化祭で発表する社会問題の課題を決めたいと思います。何か良い案はありませんか」
進行役の坂本がげっそりとした表情で、教卓の前で教室に残ったクラスメイトを縋るような目でぐるりと見渡した。
(社会問題って、急に言われたってなあ…)
林太郎と同じく、皆、困った顔で黒板を眺めている。そんな中、エリスがさっと挙手をして席を立った。
「紛争や人種差別を受けて極貧生活を余儀なくされている子供達の窮状をレポートするといいと思います」
はっとして、林太郎は後ろのエリスを振り向いた。
エリスの青い瞳が坂本をしっかりと見据える。それしか案はないのだと、決意を露わにした表情だった。エリスの気迫に押された坂本が上擦った声を出した。
「そ、それ、いいですね!どうですか、どなたか他の案はありますか?」
無論、あるわけがない。課題がすぐに決まって、坂本の悲愴な顔に少し血の気が戻ってきた。
「で、貧しい子供の現状って、どうやって調べればいいのかな。図書館とか行くの?」
「ネットで検索すれば、いいじゃない?」
意見を出し合っても、少人数だから決まるのも早い。取り敢えずネットで見つけた記事を持ち寄るという事で、今日の話は終わった。
エリスが帰り支度を始めたのを林太郎は見ていた。
「私、真紀ちゃんと先に帰るね。林太郎と健吉君は、これからロック同好会に行くんでしょう?文化祭のライブ、楽しみにしているからね」
にっこりと笑うエリスに、林太郎はにこやかな表情で頷いた。だけど。
さっきのエリスの表情を見てから、胸騒ぎが収まらない。
(何だよこれ。昨日は紗世さんの言葉に、あんなに嬉しくって仕方がなかったのに。どうしてこんなに不安になるんだ)
なあ、おうがいと、林太郎は頭の中に語り掛けたが、おうがいは紗世と会った帰りの後からずっと姿を現さない。
真紀と教室を後にするエリスは、一度も林太郎を振り返らなかった。




