そして秋
赤い。真っ赤だ。流れ出すのは、車輪の下。泣いている。喚いている。怒号が飛び交う。
「助けてくれ!」
林太郎は声の限り叫んだ。
握りしめた手は石畳の上にだらりと落ちて、いくら力を込めても再び握り返してくることはない。
絶望の唸り声を、血を吐くように喉から絞り出して名前を呼んだ。
握った血まみれの手に口づけた瞬間に瞼が落ちて、林太郎は闇へと落ちていった。
目を覚ますと大声で叫んでいた。
布団を掴むと自分の体から引き毟るようにして撥ね退けて、林太郎はベッドから飛び起きた。
動悸が酷く、呼吸が荒い。寝間着が全身から噴き出した汗で肌にべったりと張り付いている。顔に手をやると両目から溢れた涙で頬が濡れていた。
おうがいが今わの際の状態で布団に横たわっている悪夢を見た以来の、酷い目覚め方だった。
「くそっ。何だよ、これ。おうがいの仕業か?」
林太郎が呼び掛けると、微かに((うむ、すまん))という声が頭の奥から響いた。おうがいの声を聞くのは昨日の夕方以来だ。ほっと胸を撫で下ろしたものの、頭の中に響くその声の弱さに林太郎は表情を曇らせた。
「どうしたんだよ、元気ないな。具合でも悪いのか?」
((そうだな。少し疲れが溜まったか。すまんの、余の記憶が漏れ出てしまったせいで、お前に悪夢を見
せてしまった))
いつもとは違う、やけに沈んだおうがいの態度に、林太郎は苦笑した。
「夏休みの間、随分とはしゃいでいたもんな。自分が年寄だってこと忘れていたんだろ。疲れているんなら、チョコレート食べようか?鼻血が出ない程度にだけど」
((心遣い感謝するぞ、林太郎))
林太郎は机の引き出しから板チョコを取り出すと真ん中から割り、半分を口に入れた。口をもぐもぐやりながら、着替えを持って、風呂場に向かう。シャワーで嫌な汗を全て流し去ると、新しい下着に変えた。
その姿のまま居間に行くと、恵子は出社した後だった。ダイニングのテーブルにはいつも通りに朝食が用意されていた。
「すごい悪夢を見たような気がするな。起きた途端に忘れちまったから、いいけどさ」
パンを齧りながら溜息をつく林太郎に、おうがいが再び((すまん))と謝った。憎まれ口を叩かないおうがいを、林太郎は本気で心配した。
「なあ、おうがい君。おうがい君の記憶って、俺からどのくらいシャットアウトされているんだ?」
((余が記憶しているほぼ全てだ。物心がついた幼児期から死ぬ直前までのな))
「それって、六十年弱の記憶だろ?結構な量だよな。そのせいで疲労してんじゃないのか?大丈夫なのかよ。俺の頭の中に記憶を小出しにして負担を減らしたらどうだ?」
林太郎の提案に、おうがいは首を振った。
((余の記憶は明治の黎明期から大正後期のものだ。平成の世の、しかも十七年分しかないお前の記憶と余の記憶が混じってしまったら、一体どんなことになると思う?記憶処理を司る脳の部位に異変を来してしまうやもしれん。そうなったら、お前の精神は耐えきれないであろうよ。だから、そのようなことは二度と口にするな))
先程とは打って変わったおうがいの強い口調に、林太郎はパンを齧るのを止めて俯いた。
「おうがい君の言うように、前世の記憶と現世の記憶が混じってしまうのがそれほど大変な事なら、エリスは今までどうやって心を保ってきたんだろう?」
((彼は前世のエリスとは生まれた頃から一緒であったからな。己の一部として、何とか上手く扱ってきたようではあるが…))
「でも、今はそうじゃないみたいだ。それに紗世さんの話を聞いていたら、エリスが辛い思いをしているって分かった。おうがい君、俺はエリスを幸せにしたい。だけど俺は、どうしたらいいのか分からない。どうやったらエリスを幸せにできる?」
俯いたままで声を震わせる林太郎に、おうがいは、何故今、自分に体がないのかと恨めしい気持ちで一杯になった。
図体は大人より大きいくらいに育っているが、心の中にはまだ幼い林太郎がいる。毎朝一人でパンを齧っている少年の姿は、小学生の頃から続いているものだ。林太郎は気が付いていないだろうが、その寂しげな表情は今も変わらない。
そんな少年の、恋する人を一途に想う姿に、おうがいは大丈夫だからと抱きしめてやりたい衝動に駆られたのだった。
((お前は本当にエリスが大事なのだな。その心で包み込めば、エリスは必ず幸せになれる))
「そうかな?」
はにかみながらパンを齧り出した林太郎に、おうがいはしっかりと頷いた。
((林太郎、余もお前に協力する。一緒にエリスを幸せにしようぞ))
「あと一週間で文化祭だね。楽しみだなあ」
健吉が床に広げた模造紙の上に座ってふんふんと鼻歌を歌いながら、鉛筆で描かれた線を太いマジックペンでなぞっている。マジックペンの黒い線は大きな世界地図となり、模造紙いっぱいに広がった。
「グラフの色の塗り分けもするんだろ?間違えるなよ…って、おい、誰だよここ赤のマジックで塗ったの!」
林太郎が緑に塗ろうとした円グラフの部分が既に赤色になっている。
「あれ?そこ赤じゃなかったっけ?」
きょとんとした真紀に林太郎が怒鳴った。
「こっちの棒グラフと同色にするって言ったの、お前だろ?言った本人が間違えてどうすんだよ」
「はは、ワリイ、ワリイ。面積考えると棒グラフの色変えた方がいいな」
「せっかく綺麗に塗ったのに、無駄になっちまったじゃないか」
てへぺろで謝る真紀に文句を垂れながら、林太郎はマジックペンで赤く塗った別の紙を緑の棒グラフの上に張り付けた。
逃げるように帰ってしまうクラスメイトが多い中、少人数で始めた社会問題の発表内容が何とか体裁が整い始めてから、十日が経過した。後は手分けして、模造紙にグラフや地図と共にレポートを書き写すだけの作業となった。
「大分、形になってきたな。ま、殆んどがエリスのレポートなんだけどさ」
「いや、ホント、エリス様様でございます。ありがたや、ありがたや」
林太郎の言葉に坂本が蠅のように手をすり合わせてエリスを拝んだ。坂本に拝まれているエリスは、健吉が世界地図に色付きマジックペンで縦線を引いて区別した紛争地帯や極度の貧困地域の部分に夢中で注釈を書き込んでいる。
「しかし、大した熱の入れようだな。やっぱ、アメリカの名門高校って、日本の学校とは教え方が違うってことか。俺、国際問題なんか、一つも興味持ったことなかったし」
そう言って、原田が既にレポートの完成した模造紙の一枚を持ち上げた。そこには決しておざなりではない文章が書き連ねてある。原田の声が耳に入ったらしい。エリスが模造紙から顔を上げて、にっこり笑った。
「みんなが情報を持ち寄ってくれたから、こんなに立派なレポートが出来たんだよ。くららちゃんは文章作るのとても上手だし、字だって岩崎君が書いてくれたから、こんなに見やすくなったし」
「そういえばあいつ、柔道より、習字の方が段がずっと上なんだよな」
真紀が円グラフに色を塗りながらこっちを向いて喋り出したのを、林太郎が見咎めた。
「おい生田、お前は色を塗るのに全身全霊をかけて集中しろ。円グラフから赤色がはみ出しちまっているじゃないか。大きな円の中をどうしたらこんなに下手に塗れるのか、俺には理解出来ん。小学生だってもっと上手に塗れるぞ!」
「うるせえな!森、てめえの小姑的な性格の方が、俺には理解出来ねえぞ!」
言い争う二人に周りの生徒が笑った。
「正直、最初は、どうしよう面倒くさいって思ってたけど、これだけ形になってくると達成感が半端ないね。社会問題の発表で良かったかも」
健吉は自分が完成させた世界地図を眺めながら、嬉しそうに顔を輝かせた。
「ねえ、林太郎君。そろそろロック同好会に行った方がいいんじゃない?ライブの詰めの打ち合わせしなくちゃいけないよ」
「ああ、そうだな…」
ちらりとエリスを見ると、林太郎の視線に気付いたエリスが模造紙から顔を上げた。
「発表の準備は大体終わったから。部活で用のある人はそっちを優先してね」
「うん。じゃあ、遠慮なく。ほら、行こうよ林太郎君。希輔君達が待ってるよ」
「うん」
健吉に袖を引っ張られて、仕方なくバックパックを背負い教室を後にする林太郎である。
エリスは床に広げた模造紙の上で一生懸命手を動かしていて、林太郎に「頑張ってね」と手を振るどころか顔を上げる素振りも見せない。
消化不良を起こしたような表情でロック同好会の戸を開けると、希輔と柳澤、田向が練習の手を止めて、少し苛ついた表情で林太郎を見た。
「遅かったじゃないか」
不機嫌そうに口を曲げる希輔に、健吉が明るい声で言い訳した。
「ごめんね。僕達のクラス、社会問題担当になっちゃってさ。今までその準備に追われてたの。でももう、大体終わったから」
「ありゃぁ。くじ運悪かったのね。そりゃ、ご苦労さん」
柳澤が溜息と一緒に労いの言葉を吐いた。校長の思いつきに振り回されているクラスには同情しているようである。
「相沢、お前は詩吟の練習があるんだろう?森の面倒は俺が見るから、尺八同好会との打ち合わせに行って来いよ」
「うん、分かった。ありがとう。終わったらこっちに戻って来るから、待っててね林太郎君」
旧校舎の空教室から出て行く健吉をぼうっと見送る林太郎の顔を、希輔は鋭い目で覗き込んだ。
「どうした森。何だか、心ここにあらずって感じだな。文化祭のライブまで一週間だぞ。大丈夫か?」
まさに希輔の言った通りである。ぎくりとしたが、林太郎は澄ました表情で頷いた。
「ああ。歌詞も全部覚えたし、毎日家でも発声練習して喉を慣らしているから、大丈夫だよ」
恵子が帰ってくるまでの時間、希輔から借りたラジカセにデウカリオンの曲を録音したテープを大音響で流しながら、デス(悪魔)ボイスとハイトーン(断末魔)ボイスの両方の音域で叫ぶ練習をしてきた林太郎である。
激しい曲に乗って悪魔の唸り声と断末魔の叫び声を部屋中に響かせているが、窓を閉め切って練習しているので、近所迷惑にはなっていない。
エサを上げている野良猫数匹が何故か最近姿を見せなくなったと、一階に住んでいる猫おばさんが心配そうに近辺を探す姿を頻繁に見掛けるようになっただけである。
(それにしても歌詞がすごいよな。試験には絶対出ない俗悪語の羅列だもんな。英語にこんな単語があるって、俺はデウカリオンのメンバーになってから初めて知ったぞ。まあ、デスボイスで叫んでいれば、何言っても全然分かんないからいいんだけどさ)
この歌詞が何故か欧米で受けているらしい。感性の違いというやつだろうが、林太郎にはどうにも理解出来ない。
「音合わせは済んだ。これから歌を入れるぞ。森、用意はいいか」
「OKだ」
ドラムのスティックで三拍子を取った後、柳澤が激しくドラムを叩き出した。同時に希輔と田向が、ピックを弦に叩き付けるようにして高速演奏を開始する。エフェクターで歪ませたエレキの前奏の後に林太郎が歌(というより悪魔の)叫び声を上げた。
扉も窓も閉めた上にアンプの出力も小さくしているが、どうしても音が漏れ出す。
その異様な音と声に、「旧校舎って、昼間から幽霊が出て呻き声を上げるんだって」と噂が立って、不幸にも、演奏の音を漏れ聞いた生徒が旧校舎を見上げて、恐怖の表情を浮かべながら足早に立ち去っていくのを、デウカリオンのメンバーは知る由もない。
「よし。演奏に森の声が上手く乗るようになった。音程も外れていない。森、短期間でよくここまで仕上げたな。俺の見込んだ通りだ。お前、才能あるぞ」
手放しで褒める希輔に、林太郎は「そう?」と、恥ずかしそうにぽりぽりと指で頬を掻いた。
今日はこれで練習を終いにすると希輔が言ったので、林太郎はロック同好会の使用する空き教室で健吉を待つことにした。
三人が楽器を片付けているのを見ていたら、林太郎は自分が弁当箱を机の上に置き忘れてきたのに気が付いた。
(バックパックに入れるつもりで机の上に置いたのにな)
希輔達に健吉が尺八同好会から戻ったら教室に来るようにと頼んでから、林太郎はバックパックを背負って教室に向かった。




