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秘密Ⅰ


 エリスの姿がなかった。

 

 女子サッカーの早朝練習が少し長引いたのだろうと思っていたが、真紀が一人で教室に入って来たのを見た林太郎に嫌な予感が走った。


 昨日、慌ただしく帰り支度を始めたエリスは、ただ事ではない雰囲気を身に纏っていた。帰りがけに自分を見た時の悲しみに沈んだエリスの瞳を思い出して、林太郎は自分の席の前にある机へと歩いて来る真紀の顔を眺めた。真紀も林太郎を見ている。

 真紀は自分の机の上にバッグを置くと後ろを振り返り、立ったまま林太郎を見下ろした。


「おい、森。ちょっと、顔貸せ」


 教室を出て、誰もいない廊下の窓の端にまで行くと、真紀は後から付いてきた林太郎に向き直った。


「エリスから、言付(ことづ)けを頼まれた」


 真紀は微かに眉を顰めると、不安そうな林太郎の顔を眺め回した。


「あいつは今、アメリカにいる。親父に用があるんだと」


「…そうか、それで」


 電話が非通知モードになっていたのか。だけど。


「エリス、メールにも返信ないんだ。お父さんの具合でも悪いのかな」


「黙っていてくれってエリスに頼まれているんだけど、俺はお前を信用しているから言っちまうと決めた。あいつの両親、離婚するんだってさ」

 

 林太郎は目を見開いて真紀を見た。真紀が複雑な表情をして頷いた。


「エリスの幼い頃の両親はそれは仲が良かったらしい。だけど一年くらい前から親父に若い愛人が出来ちまって、その女に入れ上げた親父が、いくら慰謝料払ってもいいからエリスの母さんと別れて愛人と一緒になるって言い出したらしくてさ。駅前のあのマンションも財産分与の一部って聞いた。そんな風だから、両親の離婚は避けられない状況なんだけど、あいつは、父親の心変わりを受け入れられなくて…。それでアメリカに行って、愛人と別れるようにって親父を説得するって…」


「…そんなことがあったのか。全然、知らなかったよ」


 話を聞いて愕然としている林太郎に真紀は睨むようして顔を近づけた。


「お前、ホント、女心が分かってないよな。家庭のフクザツな事情なんて、付き合い始めたばかりでべらべら話せるかよ。惚れたオトコに重たいオンナと思われたくないだろうが」


 真紀の言葉に林太郎の顔がみるみる赤くなった。


「エリスが重たい女だと?俺は岩崎を海から救出した男だぞ?あの巨体を背中に担いでいたのをお前も見ただろうが。エリスの華奢な体くらいこの肩に軽々と乗せて」


「おい、森。照れ隠しで言ってるのは分かるが、これ以上ダジャレ的なバカ話を続けるつもりなら、俺はお前を叩きのめす」


 真紀は怒りの呟きと共に握った拳を目前に突き出したので、林太郎は素直に口を閉じた。


「エリスはお前に心配かけたくなかったんだよ。でも、いても立ってもいられなくって、アメリカに行っちまったんだ。メールで色々聞きたいだろうけど、あいつは今、自分の家族の事で頭ん中が一杯だ。だから、そっとしておいてやれ」


「うん。分かった」 

 

 真紀にはそう言って頷いたものの、やはり不安で仕方がない林太郎である。

 授業にも身が入らず、放課後のロック(メタル)同好会での練習に至っては、ぼんやり感が声にダイレクトに出てしまい、苛立った希輔にピックの先で何度も頭を突かれた。


「エリスちゃん、急用があるとかで突然アメリカに行っちゃったからびっくりしたけど、四、五日したら日本に帰って来るって先生が言ってたじゃない。元気出してよ」


 鈴木教諭から朝のホームルームで説明があったが、詳しい事情は真紀と林太郎しか知らない。帰り道、あまりにも気落ちした林太郎を見兼ねた健吉に何度も励まされる始末である。


「ああ、分かっているよ。大丈夫だ」


 そう言って無理に笑おうとするが、顔の筋肉が動かない。健吉をもっと心配させる結果になった。


(帰って来るって…。エリスの家って、日本とアメリカ、どっちが本当の家なんだ?母親は日本人で、エリスが日本語を流暢に喋れるからって、日本に来たのはつい最近で、生まれたのも育ったのもアメリカじゃないか)


 マンションの扉を開けて自分の部屋に入った林太郎は、肩に掛けていたバックパックを力なく床にずり落とした。ベッドに腰かけてぼんやりと窓の外を眺めていると、スマホに電話の着信音が鳴った。画面を見ると知らない番号だ。


「誰だろう?間違い電話かな」


 出てみると、聞いたことのある声がスマホのスピーカーから流れて来た。


「森林太郎君ね?こんにちは。私は紗世(サヨ)・ワイゲルトといいます。エリスの母です」


「エリスのお母さん?!」


 林太郎は驚いてベッドから跳ねるように直立した。


「びっくりさせて、ごめんなさいね。どうしてもあなたと話がしたくて、学級の連絡網に記載されている携帯番号に電話してしまったの。今、時間取れるかしら?大丈夫そうなら、駅の東口にある喫茶店で待ち合わせしたいのだけれど」


 紗世が喫茶店の店名を林太郎に知らせた。


「分かりました。今からお伺いします」


 電話を切ると、林太郎は急いで制服から私服に着替えてマンションを飛び出した。自転車に飛び乗って駅に向かう。東口の駐輪場に自転車を止めて喫茶店に向かった。


 年季の入った喫茶店はコーヒーに定評があり、この場所に出来てからずっと客が絶えないのは知っていた。ただ、店の入り口は狭く窓も小さくて、高校生達が気軽に入るようなカジュアルな作りにはなっていない。林太郎も今日入るのが初めてだ。


 林太郎は木で出来た重厚なドアを開けて、縦長の店舗の中を見渡した。一番奥にエリスの母、紗世の姿があった。林太郎は急いで店の奥に向かった。紗世は席から立ち上がって林太郎を迎えた。


「林太郎君、来てくれてありがとう。改めて自己紹介するわね。紗世・ワイゲルトです。もうすぐ夫との離婚が成立して結婚前の姓に戻るのだけれどね。だから、サヨって呼んでね」


「花火大会ではお世話になりました」


 紗世は嬉しそうに口元を綻ばせて、丁寧にお辞儀をする林太郎に握手を求めた。


「何でも好きなもの頼んで頂戴」と紗世がメニューを開いて林太郎に見せる。いつもの林太郎だったら遠慮なくメニューに載っている中で一番高いものを選ぶのだろうが、今はそれどころではない。


「じゃあ、アメリカンで」


「あら、ケーキは食べないの?エリスから、森君は甘いものが好きだと聞いていたのだけれど」


「いえ、コーヒーだけでいいです」


 母と娘の会話の中に自分が登場すると知った林太郎は、頬を赤らめて俯いた。林太郎の様子に紗世が目を細める。


「森君、安心して。エリスは家にいるから。昨日の夜遅い便でアメリカから戻って来たのよ。今は自分の部屋で休んでいるわ」


「本当!…です、か」


 林太郎は大きな声で叫びそうになった口を慌てて閉じた。


「ええ。学校の授業もあるし、これ以上父親を説得しても無駄だからって、早々に引き上げるって。あの子、とても頑固なところがあるから、父親が折れるまでアメリカに滞在するって言い出したらどうしようかと思っていたから、正直、戻って来てくれてほっとしているわ」 


(俺も、すごくほっとしています)


 そう力強く口にしたいのを堪えて、林太郎は黙って頷いた。コーヒーが運ばれてきて、林太郎の前に置かれた。黒い液体から湯気が上がって気持ちの良い香りが広がった。


「あの子ね、アメリカからスカイプで連絡取った時に、はっきりと私に言ったの。日本に帰るって。ここが帰る場所なんだって、あの子が思っていると知って、とても嬉しかった」


 紗世は涙を堪えるように瞬きした。


「エリスはね、幼い頃から精神的に不安定なところがあるの。成長するにつれてかなり収まってきたのだけど、一年前から私と夫の間に(いさか)いがあって、そのことにかなりショックを受けたせいで、また同じ症状が現れてしまった。あの子も随分と頑張ったのだけど、アメリカの高校でも色々あって、それで、どうしようもなくて日本の学校に転校させたの」


(精神的に不安定だって?それって、もしかして…)


 林太郎は、突然笑い出したり、教室をすごい勢いで飛び出していったエリスの奇異な行動を思い出した。


「あの、聞いてもいいですか?エリスの精神的不安な症状って、何ですか」


「ええ。勿論よ。だって私は、森君に頼みたいことがあるから、この話をしているんだもの」

 そう言って、紗世はコーヒーを一口飲んだ。


「あの子の、エリスの不安定な症状は、夢を見るからなの」


「夢?」


 林太郎の問いに、紗世は小さく頷いた。


「そう。夢よ。本当のことは私には分からない。だけど、あの子はそれを“夢”と表現している」


 手に持ったコーヒーカップに目を落として紗世は口を噤んだ。これから言おうとしていることに躊躇しているのが、その表情から見て取れた。


 林太郎は黙って紗世が口を開くのを待っていた。

 紗世の瞳がコーヒーから林太郎の目に移動した。心を決めた様だった。


 紗世の口から出てきた言葉に、林太郎は衝撃を受けた。


「ねえ、森君。あなた、前世って信じる?」

 


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