林太郎進路に悩む
健吉の家から外に出ると、林太郎は背中を丸めて残暑の中をとぼとぼと歩き出した。
少し歩くと住宅街の一角にある小さな公園の脇に出た。太陽の日差しが厳しく風もない。熱中症を恐れてか、遊んでいる子供は誰もいなかった。
木の下に小さなベンチがあるのに気が付いた林太郎は、バックパックをベンチに置いた隣に腰掛けて、近くの自販機で買った飲料水を飲みながら、二つ並んでいるブランコを眺めた。
「なあ、おうがい君。俺、あんたにちょっと相談したいことがあるんだ。聞いてもらえないかな」
((ほう、珍しいの。何だ?言ってみろ))
それまでずっと寝転がっていたおうがいは、体を起こして胡坐をかき、身を乗り出すと林太郎の様子を窺った。林太郎は大きく息を吸ってから、ふうと吐き出した。
「…俺ってさ、医者になれると思う?」
((なれるも何も、お前はその人並外れたスケベ心を満たす為に、医学部に入り産婦人科医になると決めているのであろう?だがな、良く聞け林太郎。産婦人科の医師というのは、妊婦と赤子の命を預かるという重責を担うのであるぞ。いつの時代も出産というのは危険が伴う。不測の事態があるかも知れん。緊急事態にまるっきり対応出来ないただのスケベなダメ医師のお前が陣痛で苦しむ妊婦の股の間を覗き込んで興奮しているのに気付いた女性看護師が怒り呆れ果てお前の首根っこをむんずと捕まえてこのエロヤブ医者めが今すぐ神聖な産室から出て行けと))
「黙れおうがい。俺がいつ産婦人科医になると言った?いくら退屈してるからと言って、俺をスケベなダメ医師という設定で創作なんかするんじゃない。本当にまじめな話なんだから、ちゃんと聞いてくれよ」
((承知仕った))
真剣な表情の林太郎に、おうがいは胡坐を正座に変え、襟を正して神妙に頷いた。
「はっきり言って構わないからね。あのさ、俺って、医者に向いていると思う?」
恐る恐るといった口調の林太郎に、おうがいは間髪入れずに、滑舌良く、あっけらかんと宣告した。
((じゃあ、はっきり言うね。向いていないと思う))
「うわ~マジですか~~」
林太郎はがっくりと肩を落とし、首を付け根から九十度以上項垂れさせた。
((うん。向いてない。お前の前世であり、現在はお前の精神の一部となったこの余が断言するのだから、間違いなく向いてない))
「そこまで言わなくてもいいじゃないか。俺、おうがい君の言葉にものすごく落ち込んだぞ」
((だって、はっきり言えっていったの、林太郎君でしょ?))
おうがいはポケットから扇子を取り出してパタパタと顔を扇いだ。
((それに、そんなこと聞くこと自体、自分が医者に向いてないって思ってるからなんでしょ))
「まあ、そうだけど」
林太郎は膝に頬杖を付いて自分の足元に目を落とした。
乾いた土の上を大きな黒蟻が一匹歩いている。
「教室でシャーペンが手にぶっ刺さった時があったろう?自分の掌から血が流れ落ちるのを見たらすんごく怖くなって、変な悲鳴上げちまった。どういう訳か、血の赤いのが、怖かった。あれから、俺って医者には向いてないんじゃないかって、そう考えるようになってさ」
((そうであったな。鼻血を噴いた時も、血に染まった教科書を見た途端に白目剥いて失神してたしね。医学部行ったらさ、解剖の実習あるでしょ?最初にねずちゃん解剖したりしてさ。仰向けにしたねずみのおなかの真ん中を縦一文字にツーとメスを走らせてから果物の皮むくようにペロンって左右に剥ぐとね、内臓膜にぴっちりと包まれた内臓が露わになるの。次に中身が透けて見えそうなくらい薄い内臓膜にメスの先を軽くスーッと入れると))
「わあああっ!やめてスプラッタ無理絶対ダメなのもう止めてくれぇっ!その先言わんでいいからあぁっ」
頭を抱え体をぶるぶると震わせながら、林太郎は情けない声を出した。
「…想像するだけでこうだもんな。やっぱ、向いてないよなあ」
((医学部に行っても医者ではなくて医学者になればよいではないか。ほら、あいぴいえすとかっていう細胞を作る学者さんとか。それでも遺体での人体解剖は避けて通れんぞ))
「ぐわ―――!想像する前に失神しそうだっ」
自分の顔を両手で覆った林太郎は、喉の奥で呻き声をビブラートさせた。
((林太郎よ、お前は何故、医者になろうと思ったのだ?))
おうがいの問いに、林太郎はベンチの背もたれに両腕を広げて寄り掛かり、頭を上に向けて深緑色に茂った木の葉を眺めてから口を開いた。
「親父の七回忌の時に親戚のおじさんから“林太郎君は頭がいいから、将来お医者さんになるといいね”って言われたからさ。それで俺が“うん分かった、僕お医者さんになる”って言ったら“じゃあ、T大医学部かな”“うん、僕T大医学部に入る”って感じで。周りにいる大人全員がすごいねって褒めてくれて、嬉しそうに俺を見てたからさ。その頃の俺って貧弱なべそかきっ子だったから、母さん以外の大人に褒めて貰えたのって、それが初めてで…」
((なるほどな。余の時代なら、差し詰め“軍人さんになる”って言っていたのと一緒だの。子供がそれを言うと、大抵の大人は偉い子だと喜んだものだよ))
「…どうしたらいいかなあ」
林太郎は空っぽの公園をぐるりと見渡して呟いた。
「おうがい君は軍医だったんだろう?野戦病院で負傷した兵隊の治療とか手術をするのって、すごいじゃないか。並大抵の精神じゃ務まらないだろうからさ。俺にもその能力が少しでも残っていたら良かったのにな。健吉は前世で優秀な大臣秘書官だった相沢謙吉のお世話スキルを百%(パー)受け継いでいるし、上田だって前世から引き続いて語学が得意だ。野木だって、人を傅かせてしまう気迫の持ち主だし。あいつの前世が陸軍大将だったって聞けば納得できるもんな。何だか、俺だけ損している気分だよ」
ぶつくさ言う林太郎におうがいはぴしゃりと言った。
((血や内臓が死ぬほど苦手であるならば、毎日、ゾンビやスプラッタ映画の過激な映像を見て目を慣らせばいいではないか。何事も努力あるのみだ))
「…お前、それ、本気で言ってんのか?」
睨み付けようにも相手は自分の頭の中だ。林太郎は溜息をつくしかなかった。
((林太郎、この際だから言っておくが、余はお前が思い描くような医者ではないのだぞ。それに、余のスキルを本当に受け継いでしまっているのなら、お前は医者には不向きな人間ということになる))
「えっ。そうなの!」
おうがいの衝撃の告白に、林太郎はベンチからずり落ちそうになって叫んだ。
((だって、余は軍隊衛生学の権威でトップ官僚だもん。確かに軍医ではあったが、兵士の衛生や栄養管理の命令を下すのが仕事であって、大陸の戦地で負傷した兵隊の治療に従事する野戦軍医はなかったのだ。思えば、権威主義の塊であり、石のような頑迷さで下の意見に耳を貸さない愚か者であった。こんな人間が医者を名乗って良い筈なかったと、今更反省しても遅いがな…))
「医者に向いてないって?!そうか、おうがい君もスプラッタはかなり苦手だったのか!」
明るい表情になった林太郎に、おうがいはやれやれと首を振って肩を竦めた。
((人の話に全く聞く耳を持たなという余の負のスキルだけが、君にしっかりと受け継がれてしまったのは本当に残念だと思ってるよ))
「医者に向いていないって話もだけど、もっと悩んでいることがあるんだ」
林太郎は最初に眺めてた二つのブランコに視線を戻した。
「エリスのことだ」
((ふむ…))
「エリスは、ユニセフで働く夢を叶える為にアメリカの大学に進学するって言っていた。それが本当なら、俺はエリスと離れ離れになってしまう」
((受験は来年であろう?まだ時間はあるではないか))
そうだけど。そうなんだけど。
「来年なんて、あっという間さ。上田みたいにアメリカの大学に留学できればいいけど、俺ん家、母子家庭だしさ。日本の大学だって国公立じゃないと家計が厳しいって、母さんに念を押されているし」
父が生きていたとしても無理だろう。
アメリカの私立大学の学費は日本の私立の倍以上だ。それに名門大学のある街の生活費は目玉が飛び出るほど高い。
空中をふわふわと歩いていた足が、一気に地べたに着地した感じだった。
林太郎は足元を見た。さっきの蟻がまだ土の上を歩いていた。
餌でも探しているのか、右に行ったり左に行ったりしている。少し進んだと思うと足を止めて、触角を動かしたまま動かない。
「お前も、俺と同じだな」
容赦なく太陽が照り付ける公園で、林太郎は一人、地面を見つめていた。




