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花火とエリスと林太郎(二)

 ((浴衣が良く似合っているの))

 

 嬉しそうに言うおうがいに、「綺麗だ」としか語彙(ごい)が頭に浮かばなくなった林太郎は、小さく「うん」と頷いて、エリスの浴衣姿を目で追った。

 

 林太郎の後ろでリビングの扉が開く気配がした。

 

 青のユニフォームを着た三人の男女が現れて、大きなテーブルをリビングに運び込む。その上に白のリネンクロスを掛けてサンドイッチなどの軽食と飲み物を置き始めた。

 エリスの母が娘の学友を見渡して「さあ、召し上がれ」と優しく微笑んだ。

 楽しそうに軽食を頬張る健吉達を、林太郎は少し離れた場所で見つめていた。


「林太郎?」

 

エリスが隣に来て林太郎を見た。その目が「どうしたの」と問い掛けるように瞬いてから、林太郎の手元を見た。


「これは?」


「おみやげと思って、買ってきたんだけど…」


 軽食とはいえ、見るからに高級そうなサンドイッチに、駄菓子があまりに場違いだと気付いた林太郎は、困った表情で右手の白いビニール袋に目をやった。


 エリスはおずおずと差し出された林太郎の手からビニール袋を受け取ると、中を覗いてにっこり微笑んだ。


「駄菓子だ!嬉しい。ありがとう」


 エリスの笑顔に林太郎は、ほっとした。


「酢イカは入っていないのね」

 エリスがビニール袋の中を覗きながら言った。


「買って来なかったよ。この間、口に入れた途端に目を白黒させていたじゃないか」


「残念。リベンジしようと思ってたのに」


「何だよ、リベンジって」


 林太郎が口の両端を持ち上げた途端、窓の外が明るくなった。皆、反射的に窓の外を見る。


 窓全体が花火の光で輝いていた。

 三十階建てのマンションから見る花火は、それは巨大で豪華だった。

「わあっ」という声が全員から上がった。全員が食事をやめて窓側に寄って行く。林太郎も窓辺に行こうとして、エリスにTシャツの裾を掴まれた。


「外、行かない?」


「外?かなり蒸し暑いし、駅前は見物客で一杯だろうから、花火は良く見えないと思うけど」


「でも、外に行きたい。ここの窓からだとテレビに映っている花火を見ているみたいで、現実感がないんだもん」


 確かにそうだ。林太郎は先にリビングを出て行くエリスの後を追った。


「外に出るの、お母さんに言わなくていいの?」


「大丈夫よ。子供じゃないんだし」


 エリスはシューズケースから下駄を取り出すと、赤い鼻緒に足の指をぐいと押し込んだ。


「履けた」と言って、玄関ドアを開けると小股で走り出した。


「何だか、危なっかしいな」


 エリスが日本に来たのは五月の半ばだ。浴衣も下駄も生まれて初めて身に付けただろう。足元をふらつかせながらエレベーターに乗るエリスに、不安を隠せない林太郎である。


 マンションのエントランスを出ると、蒸し暑い空気が顔に当たった。思った通り、駅の西口のビル前にある広場は人でごった返していた。

 アーケードに並んだ商店街の前にいくつかの出店があって、食べ物や飲み物を売っている。真っ暗になったビルとビルの間から花火が絶え間なく打ち上がるのを、見物客が幸せそうに眺めていた。


 広場に飛び出したエリスはちょこちょこと歩きながら「こっち、こっち」と林太郎を呼んだ。花火が良く見える場所を探しているようだが、すぐに人の波に押されて、よろよろとあらぬ方向に行ってしまう。


「エリス!ああ、ほら、やっぱり」


 今にも転んでしまいそうな姿に、林太郎は急いでエリスの後を追った。


 人の流れを避けようと、エリスはビルの壁に背中を擦りつけるようにして立っていた。

 浴衣と下駄で、いつものように体を動かせないエリスは、駆け寄ってくる林太郎に困った様子で目をやった。

「大丈夫?」と聞くと、エリスは小さく頷いた。頷いたが、その表情は不安そうである。


 花火は佳境に入ったようだ。

 林太郎達の周りに見物客がどんどん増えていって、全く身動きが取れなくなった。仕方なくビル壁に背をもたれさせて二人で花火を見上げていると、人ごみをかき分けるようにして、若者の集団が近づいて来た。空の花火を指差して何事か喚いている。全員、かなりアルコールが入っているようだった。

 

 一際大きな花火が上がった。

 彼らは林太郎達の前で足を止め、花火を見上げて大きな歓声を上げた。酔っている彼らの足元は、エリス以上にふらついている。上背のある男が大声を上げながら後ろ足でエリスに背を寄せてきた。自分の後ろに人が立っているのに全く気付いてないようだ。逃げ場のないエリスが恐怖で体を竦ませた。


「危ない」


 林太郎は男とエリスの間に自分の体を差し込んだ。ビル壁に大きく広げた両手を付いて、背中でエリスをガードする。


 同時に花火が連発で夜空に上がった。


 赤、青、白、黄色に緑。若者達は興奮して腕を振り上げ言葉にならない叫び声を上げた。背中合わせになっている大男がげらげら笑いながら、林太郎に勢いよく何度も背中をぶつけてくる。


「くそっ。酔っぱらいが」


 林太郎は舌打ちしながら首を捩じって後ろの大男を見た。髪は黄色で、派手なアロハシャツから突き出た逞しい腕に黒いタトゥーが大きく彫られている。自分がこのままエリスの盾になって、若者の集団がどこかへ行くのを待つしかないと判断した。

 林太郎の思惑とは裏腹に、若い男達はその場に足を止めてしまっている。打ち上げ時間が終了に近付いて、ラストスパートとばかりに夜空一面に花火が咲き出したからだ。


 花火の上がる大音響と見物客の歓声を耳にしながら、林太郎はビルの壁に両手をついて立っていた。


 自分の体の下でエリスが小さく身じろぎした。見物客が皆、夜空に次々と浮かぶ花火を見上げているのに、エリスは林太郎の体で視界を遮られ、林太郎は目の前のビル壁を眺めている。


「花火大会どころじゃなくなっちゃったね」


 苦笑する林太郎の顔を、エリスは小さな顎を上に向けて静かに見つめた。


 林太郎の目から視線を外すことなく、少し動きを速めた瞼の淵を彩る白金の睫毛の間から、夜空に浮かぶ花火に反射して七色の宝石へと変化した瞳が林太郎に注がれている。


 林太郎は息を詰めてエリスを見た。


 伸ばしていた両腕をゆっくりと折り曲げて、自分を見上げているエリスに顔を近づけた。


 エリスの瞼が落ちた。


 エリスの長い睫毛を見た。細い鼻筋を見た。

 それから林太郎は目を閉じて、エリスの唇にそっと自分の唇を重ねた。


「おお、すげえー、ナイアガラだ」


 後ろの酔っぱらいの声にはっとした。

 一瞬で周りの賑やかな音が林太郎の耳になだれ込んでくる。林太郎は慌ててエリスから唇を離した。


「ご、ごめんっ。こんなところ、で」


 林太郎は真っ赤になった顔をエリスから逸らせて地面に目を落とした。


 エリスは無言だった。


 林太郎がそっとエリスの表情を窺うと、悪戯の共犯者のような顔をして小さく微笑んだ。

 

 花火大会の最後を締めるナイアガラが終わると、見物客の人波が動き出した。

 河岸を変えるのだろう、林太郎の後ろにいた若者グループも移動を始めた。エリスと林太郎は二人並んでビル壁に背中を預けていた。


 十分ほど立っていると人の波が引いて、ビル前の広場は閑散とした。


「帰ろうか」


 林太郎は人のいなくなった広場を見ながらエリスに言った。


「うん」


 下駄に目をやりながら、エリスが小さく頷いた。足を動かすと鼻緒を通した指と指の間に激痛が走る。無理に動かすと、ふらりと体がよろめいた。

「ほら、気を付けて」


 林太郎は手を伸ばしてエリスの手をしっかり握りしめると、ゆっくりと歩き出した。

 エリスは小さな幼児のようにおぼつかない足取りで歩き始めた。その様子を、林太郎が心配そうに見つめた。


「下駄で足が痛いんだろ」


 林太郎の言葉に、エリスが恥ずかしそうに無言で頷いた。


「慣れないのにあんなに走り回るからだよ。かなり痛いの?家まで歩ける?」


「…大丈夫、だと、思う」


 激痛に歯を食いしばり、エリスはすり足で歩を進めた。

 エリスの額に玉の汗が浮かんでいるのを見て、林太郎は思わず言った。


「おんぶしようか?」


 エリスは自分の足に目を落とした。その顔が暗闇の中でも分かるくらいに赤くなっていく。浴衣で林太郎に背負われた自分の恥ずかしい格好を想像したようだ。


「いい。歩く。マンションまで、ちょっとの距離だもん」


「でも」


「絶対、あ、る、く」


 エリスは必死の形相で、よたよたと歩き出した。



 林太郎はエリスの手を握ったままエリスに歩調を合わせて慎重に足を進めた。

 握ると握り返してくるエリスの華奢な手を、自分の胸から溢れてくる愛おしさでしっかりと包みながら、林太郎は歩いた。



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