嬉し恥ずかし海水浴2 ※
林太郎が荷物番を開始してから、はや三十分が経過していた。
左隣では成人男女のカップルがパラソルの下に折り畳み式のカウチを二つ並べて日焼け止めを塗り合っていた。
最初は男の背中を女が、次は男がビキニを着た女の背中をそれは優しく(イヤらしい)手つきで日焼け止めを丁寧に塗り込んでいる。
「前も塗ってあげようか」などと言って胸に手を伸ばす男に、女が「ばか」と甘えた声で恋人の頭の優しくこつんとやっている。
恋人達には悟られないようにその様子を横目でのぞき見しながら(出歯亀と言う)、己の境遇とのあまりの格差に目に涙を滲ませる林太郎であった。
「そろそろ交代の時間だよな」
隣のイチャつきぶりにいたたまれなくなった林太郎は、シートから立ち上がってきょろきょろと辺りを見渡した。近くでビーチボールで遊んでいると真紀は言っていたが、クラスメイト達の姿はどこにもない。
「くそっ。あいつらどこに行きやがった」
荷物を置いて探しにも行けず、林太郎は苛々と腕時計に目をやりながら彼らの帰りを待っていた。それから二十分が経ったが、誰一人として現れる気配がない。
肝心のエリスも来ない。林太郎はどうでもよくなって、皆の荷物の上に腕を組み頭を乗せて寝転がった。
「ちょっと、やめてよ」
隣の女の嬌声につい目をそちらに向けると、男が女の太ももの内側を撫でさすりながら、ビキニのブラの紐を指に引っ掛けて遊んでいる。あんまり引っ張るので、もう少しで片方の胸が露わになりそうだ。
(何なんだ、このエロカップルは!ここは公共の海水浴場で、お前らのプライベートビーチじゃないんだぞっ。イチャイチャイチャイチャしやがって。やるならホテルにでもしけ込んでからやれよ!)
((海水浴場で欲情、なんちって))
(おうがい、くだらん親父ギャグをかますんじゃない!ますます気分が悪くなる)
林太郎は赤面した顔を右へ向けた。右隣りは家族連れだ。若い父親がむずがる女児を抱っこしてあやしている。林太郎の隣では小学低学年くらいの男の子が一人、スコップで砂に穴を掘って遊んでいた。左とは対照的にとっても健全な風景だ。
「うみ~、うみにいく~」
女の子が海に向かって小さな指を広げて泣いている。
「ママがトイレから戻ってくるまで待ってようね。お兄ちゃん一人にできないから」
父親が困った顔で女児をあやすが、小さな妹はやだぁと泣き声を張り上げた。
「息子さんのこと見ていてあげましょうか?俺、荷物番なんで、ずっとここにいますから」
左はイチャイチャ、右は女児の泣き声では堪らない。林太郎は思わず父親に助け舟を出した。
窮状を見兼ねて声を掛けてきたらしい、隣の超爽やかな笑顔の高校生に、「いいんですか。それじゃ、少しの間だけよろしくお願いします」と、ほっとした表情で、父親は幼い娘と一緒に波打ち際に遊びに行ってしまった。
林太郎は再び荷物を枕にして寝転がって、隣で一生懸命穴を掘っている七、八歳くらいの小学生を見た。男の子の細い腕では砂に大きな穴は掘れないだろう。林太郎はシートから起き上がると、その男の子に声を掛けた。
「おい、坊主。お兄ちゃんが砂でいいもの作ってやるから、スコップを貸してごらん」
男の子が林太郎にスコップを手渡した。林太郎はすごい勢いで砂に穴を掘り始めた。穴が深くなると砂が湿り気を帯びてきた。
「そら、坊主。湿った砂を両手で掻き出せ。こっちに二つ山を作るんだ」
林太郎は男の子と一緒に湿った砂で大きな山を並べるように二つ作った。仕上げに山の天辺を少し削って小さな突起物をこしらえる。
「ほら、坊主、井坂先生の原寸大の爆乳だぞ。どうだ、すごいだろう?」
「わーい。いさかせんせいのばくにゅうだー」
低学年小学生男子が手を叩いて喜んでいるところにエリスが現れた。
バネ仕掛けの人形のように立ち上がった林太郎は、エリスの目に留まぬ前にマッハの速度で足を動かして砂山を崩した。
「お待たせ、林太郎。あら、みんなは?」
「そこら辺で遊んでいる筈なんだけど」
林太郎は改めてエリスを見た。
水着はシンプルなコバルトブルーのワンピースだ。その上に白いパーカーを羽織っている。ビキニでないのがちょっと残念だが、エリスのすらりと伸びた美しい脚に小さく息を飲んだ。
「お、エリス!やっと来たか」
真紀がビーチボールを持って現れた。真紀の後ろから健吉達が続いて戻ってくる。
「結構遅かったな。急用でも入ったのか?」
人差し指の上でビーチボールをくるくる回しながら真紀はエリスに尋ねた。
「急用っていうか、待ち合わせの場所に向かっている時に、偶然知り合いに会ったの。どこに行くのか聞かれて、海って言ったら、その子がどうしても一緒に行きたいっていうから連れて来たのよ」
エリスが後ろを向いて手招きすると、大きな浮き輪を抱えた人物が隣の家族のパラソルの中から、にゅうっと顔を覗かせた。
「あれえ、亀ちゃんじゃないか~」
「げっ!上田!」
健吉の呑気な声と同時に、林太郎は驚愕の悲鳴を上げた。
「誰?こいつ」
真紀が怪訝そうに万年を見る。万年は不敵な笑みを浮かべると集まって来た林太郎のクラスメイト達に雄弁に自己紹介を始めた。
「そこの筋肉女子よ、よくぞ聞いてくれた。俺は上田万年。帝峰高校の二年生だ。代々上級官僚を輩出している上田家直系の次男である。そこに突っ立っているアホ面の森林太郎とは中学三年の夏休みに塾で邂逅して以来、学業でライバル関係にあり」
「あーもう、お前の自己紹介なんて誰も聞いちゃいないって、…って、お前、海水浴場に来るのに何で制服姿なんだよ」
「それは俺が帝峰高校の生徒だと、きさまの学校の奴らに知らしめる為に決まっているじゃないか」
げんなりとしている林太郎に、当たり前だという顔で万年はふんと鼻を鳴らした。
「安心しろ。俺だって制服で海に入るほど愚かではない」
そう言って万年は、エリスと真紀、くららが見ている前で制服を脱ぎ始めた。
「わっ!バカかお前!幼児じゃあるまいし、女子の面前で堂々と服を脱ぐんじゃないっ」
慌てて止めに入る林太郎に「え?だって下にはちゃんと海パン履いてるぞ」と目をぱちくりさせる万年である。
「おい、健吉、このバカを更衣室に連れて行ってやれ」
林太郎が口にする前に、プロ級お世話係の健吉は万事心得ているとばかりに万年の手を取って、さっさと歩き出している。
(くそうっ。隣のエロカップルみたいにエリスと二人っきりでイチャイチャする予定だったのに、何でこうもお邪魔虫が湧いて出るんだ)
それはエリスが林太郎が熱望するようなデートをこれっぽっちも望んでないからである。
そうとは知らずに林太郎は奥歯を強く噛みしめてぎりぎりと擦り合わせるが、エリスが目の前にいるだけで満ち足りた気分になって落ち着きを取り戻した。
気を取り直した林太郎は、日焼け止めを取り出そうとバッグの中をかき回した。もちろん、エリスに背中に塗ってもらう為である。
ようやく見つけた日焼け止めをエリスに渡そうと、林太郎は最上級の笑みを作って言った。
「ねえ、エリス。俺の背中に日焼け止め塗ってくれないかな。俺さ、肌が弱くて日焼けすると赤くなってヒリヒリしちゃうんだ…あれ?」
手を伸ばした場所にはもうエリスはいなかった。エリスはビーチボールを抱えて、真紀とくららの三人で波打ち際に向かってそれは楽し気に走って行く。遠ざかるエリスの姿を日焼け止めのボトルを握りしめたまま、林太郎は呆然と見送るしかなかった。
誰かの手が、林太郎の手から日焼け止めを優しく取り上げた。
「背中に手が届かないんだったら、俺が塗ってやるよ」
気がつくと、エリスのいた場所に、頬をうっすらと赤く染めた岩崎が立っている。炎天下のなか、林太郎の背中に冷たい汗がどっと噴き出した。
「や、大丈夫っ。自分で塗れますからっ」
岩崎の手から日焼け止めを奪い返すと、林太郎は自分の掌に中身をぶちまけてべちゃべちゃと背中に塗り出した。
「なあ森、お前、泳ぎは得意だったよな。俺と遊泳禁止境界線の浮き球まで競争しないか?」
嬉しそうに近寄ってくる岩崎から素早く身を翻して林太郎はシートの上の荷物の山にしがみ付いた。
「お、俺はまだ荷物番してなくちゃいけないから。岩崎は坂本か原田の奴と泳いで来いよ」
岩崎は少し残念そうな顔をしながら坂本と原田を誘って海へと歩き出した。林太郎が再び荷物番を買ってくれたので、二人は大喜びで岩崎の後を追って海に飛び込んでいく。
腰まで海に浸かり波を被って大騒ぎしている三人の様子を、林太郎は悄然と見つめた。




