レイニーブルー3
ようやく期末テストが終わった。あと二週間も待てば、夏休みである。
健吉なんぞは楽し気に指を折って数えてるが、その前にテストの答案が返ってくるのを忘れてはならない。毎回健吉の追試の面倒を見ている林太郎だが、自身のテスト結果が今回、由々(ゆゆ)しき事態に陥るのは覚悟してた。
何故なら、現国のテストの出来が恐ろしく悪かったのである。
漢字の読み書き欄は埋めたが、後は殆んど何も書けないまま時間が来てしまった。答案用紙に何か書き殴った気はするが、よく覚えていない。
テストを監視している先生の「時間が来ましたから解答用紙を後ろから集めてきて下さい」の声を聞いて我に返った。
一番後ろの席のエリスが立ち上がって林太郎の脇に来た。林太郎はエリスの顔を見ないで、その手に答案用紙を渡すと、そのまま額をべったりと机に押し付けた。
漢字は書いたのだから0点ではないだろう。それにしても、林太郎が筆記テストなるものを受け始めてから空前絶後の最低点になるのは間違いない。
テストが終わった解放感はすぐに消え、答案用紙が返ってくるまでを気が滅入る思いで待っているという大多数の生徒の体験を、林太郎はこれから初めて経験するのである。
しかし、その前に林太郎は鈴木に職員室に呼ばれることになった。
「森君、君にだけ先に国語の答案用紙を返しておくね」
放課後、職員室の椅子に座っている鈴木が林太郎にそっと用紙を手渡した。覚悟はしていたものの、その点数に林太郎は言葉を失った。
「…15点」
読み書きの箇所だけ正解で、後は全てに小さく×が付いている。健吉の答案用紙で見慣れてはいるものの、実際自分の答案用紙にこの点数が付くのは衝撃だった。
「今回、残念なことに現国だけこんな点数になったんだけど、もしかして、“舞姫”の作者の森鷗外の本名が君と同じというのが、影響してしまったのかな?」
鈴木の言葉にはっとした林太郎は改めて解答欄を見た。
問題の内容などお構いなしで、「エリスちゃんごめんなさい」「あなたを傷つけるようなことは金輪際致しません」「だからもう許してお願い」「俺が悪かった」などと、悲痛な謝罪文で埋まっている。それもミミズがのたくったような字だ。
(何だこれ?!)
林太郎は目を剥いた。
まるで浮気が見つかった男が妻に書いた反省文である。林太郎は国語のテストの時だけ意識が朦朧としていたのを思い出した。
(くそっ!やっぱり、おうがいの仕業だったんだな!)
青くなって震え出す林太郎を見て、鈴木が表情を曇らせた。
「森君、悪かったね。君のことを明治の文豪の本名と同姓同名とクラスの皆に言ってしまったせいで、嫌な思いをしたんだね。舞姫の内容を考えると、浅はかだったと反省しているよ。本当に申し訳ない」
そう言って鈴木が自分に頭を下げるのを、林太郎は慌てて止めた。
「いえ、先生のせいじゃないんです。…まあ、小説の内容からして、作者の本名と同姓同名ってのは、ちょっと気まずかったですけど。でも、もう、舞姫の授業は終わりましたから」
「そうだね。あと少しで夏休みだ。一か月の休みを挟めば、皆気にも留めなくなるさ」
鈴木は林太郎の二の腕を軽く叩いた。
鈴木の言う通りだ。夏休みに入れば、舞姫の物語など、誰も思い出さなくなる。
林太郎は一礼してから職員室を出た。少し歩いてポケットから答案用紙を取り出した。
(なるほど。鈴木は自責の念から、俺にだけ早く国語の答案用紙を返したってわけか)
林太郎は答案用紙の右上に赤いペンで書かれた15点を、溜息と共に見つめた。
「あら、森君。一週間ぶり。職員室の前で会うなんて、珍しいわね」
顔を上げると、上倉かおりが大きなバインダーを胸元に抱えて立っている。林太郎は手に持っていた答案用紙を素早く丸めてスラックスのポケットに押し込んだ。
「こんにちは。上倉先輩。そうですね、この前お会いしたのは期末テストに入る前でしたね」
爽やかな笑顔で挨拶しているが、上倉かおりは、林太郎がかなり苦手なタイプである。
「あなたも職員室に用があるの?」
「はい。あ、でも用件は済みましたんで」
林太郎は急接近しながら話し掛けてくるかおりに笑顔で返しながら、背中を素早く廊下側に向けて逃げ道を確保した。
「放課後暇なら、少し生徒会の仕事を手伝ってくれないかしら。学級委員長達との会合もあるし、夏休みのプリントを全校生に配布する原稿も作らなければならなくて、忙しいのよ」
「いやあ、俺、同好会に入ったんで、今からそっちに顔出さなくちゃいけなくて」
咄嗟に口から出た林太郎の言葉に、かおりは、ああと頷いて、微かに眉を顰めた。
「そういえば、ロック同好会に入ったんですってね。あなたが同好会に入るなんて意外だったわ」
(うわぁ。もう噂が広まっているのか)
どうやらかおりは、林太郎がロック同好会に入ったのが気に入らないようだ。彼女からすれば、旧校舎の片隅で活動している同好会など、ただの暇つぶしにしか見えないだろう。だが、これで生徒会に入れとしつこく勧誘されなくて済むと思うと、ほっとする林太郎である。
「そういえば、あなたのクラスのアメリカからの転校生、すごい運動神経の持ち主ね」
羨ましそうな顔したかおりに林太郎は少し驚いた。
林太郎の表情を知ってか知らずか、かおりは少し横に首を傾げて林太郎の顔に視線を流すと、そのまま少し唇を尖らせた。
この表情に、どれだけの男子が、煩悩を刺激されてきたことだろう。
「エリスさんっていったわよね。ダンス部に勧誘したんだけど、さっさとフラれちゃったわ。ダンスにだけはどうしても興味が湧かないそうよ。あの子、すごくダンスに向いた体つきをしているのに、勿体ないわ」
「へえ、エリスって、そんなにダンス向きなんですか」
かおりの話に思わず食いついてしまった林太郎である。
「ええ、そうね。あの長い手足に小さな頭、細くて長い首と指。全く無駄な肉が付いていない華奢な胴体。その全てが美しい曲線で構成されているわ。私だと肉感的過ぎて綺麗にまとまらないポーズも、あの体だと、それは美しく表現できるでしょうね」
(それは、上倉先輩のお胸が肉感的過ぎるってことだな。去年、文化祭のステージで先輩のダンスを拝見した時、あの巨乳がステージで縦横無尽に飛び跳ねているのを見ているうちに、次第に落ち着かない気分になったのをよく覚えているぞ)
フムフムと訳知り顔で頷く林太郎である。
かおりの説明に、林太郎はエリスの踊る姿を想像した。林太郎におうがいが反応したようだ。エリスが派手なドレスを着て踊る姿が脳内に映像化された。
エリスはヴィクトリア座で二番目に人気の高い踊り子であった。内気な少女はその容姿の美しさを踊りの師匠に買われ、十五の頃からその身に見世物としての舞いを叩きこまれた。貧しい家計を助ける為に嫌でも踊り続けなければならなかったのだ。
前世の記憶はなくても、その辛さは魂に深く刻み込まれてしまって、消えることはないのだろう。
林太郎の中で、エリスは手足を伸ばして踊っている。
百年前であれば卑しいといわれてしまう舞姿なのだろうが、今を生きる林太郎には溜息が出るほど美しいものにしか映らない。
(おうがい君、エリスの綺麗な映像を見せてくれてありがとう。現国のテストなら気にしなくていいよ。俺が答案用紙にまともな解答を書けなかったから、あんな事になったんだろうし)
林太郎の心の言葉がおうがいに届いたようだ。
舞台の上でくるくると踊るエリスに緑色の幕が下りて、林太郎の頭から静かに消えた。
ロック同好会の活動に参加する為に、林太郎は旧校舎に向かった。
実を言えば、それもまた気が重い。
「何がロック同好会だ!あれは音楽じゃない、ただの騒音だ!それに何だ、あの金切り声と呻き声は。人が殺される断末魔の悲鳴と地獄から這いずり出て来た悪魔の呻き声の連続が、どうやったら歌に聞こえるっていうんだよっ」
固く握手をしてしまった手前、希輔には何も言えず、林太郎は怒りの矛先を健吉に向けた。
「そうなんだよ!さすが林太郎君、よく分かったね」
林太郎に理不尽に怒鳴られるのも何のその、健吉は明るい笑顔だ。思わず口にした比喩が健吉にヒットした理由が分からない林太郎は「え、何が?」と、間抜けな声で聞き返した。
「希輔君達の音楽はロックじゃない。詩吟と同じでロックというのは隠れ蓑さ。あれはヘビィメタルだよ。それも、一番ハードな演奏で知られるデスメタルとスラッシュメタルの融合なんだ」
「デスメタルとスラッシュメタルぅ?死と切り裂くメタル…。ああ、なるほど。だからあんな人間離れした声を出すのか」
思わず納得した林太郎に健吉が意気揚々と説明を続ける。
「希輔君はね、世界征服を目論んだ魔導士によって封印を解かれた古代神と、彼らが操る怪獣から人類を守る為に命を懸けて戦う勇者の姿を、デス&スラッシュ・メタルで表現したいんだって」
「……」
中二病的な希輔の世界観に、分かったような、分からないような表情で頷くしかない林太郎である。
希輔の世界観がオールディなヘビメタのCDジャケットのイラストに感化されていることは百も承知している健吉だが、その話を始めると長くなるので説明するのを端折っている。
「そんな熱い思い込めて、バンド名もギリシャ神話に出てくる最初の人間という意味の“デウカリオン”にしたんだって。高校受験が終わったら本格的にバンド活動を開始するっていう話を、僕は塾に通っている間、同じCクラスの希輔君からずうーっと聞かされ続けていたんだよ」
「健吉、上田とか野木みたいな奴らと塾で出会っちゃって、随分と苦労して来たんだな。それでも岨野山田に受かったんだから、お前、本当に勉強頑張ったんだな」
健吉を労う言葉が思わず口から零れてしまった林太郎である。
だが、健吉に一番苦労を掛けているのは自分だとの認識は全くない。
それにしても。演奏はともかく、あの喚き声がカッコイイとは微塵も思えない。
「とんでもない同好会に入っちまったなあ」
ぶうぶう文句を言ったところで責任は全部自分にある。
「取り敢えず、男の約束は守らないとな。野木が金返せって言わないくらいには同好会に参加しておこう」
林太郎はロック(実はヘビメタ)同好会が使用している開き教室の引き戸を開けた。
教室には既に希輔達が待機していた。柳澤と田向が椅子に座って熱心に雑誌を読んでいる傍で、希輔はエレキギターの弦の調整をしている。
どんな雑誌を読んでいるのか気になって、林太郎が首を伸ばして覗いてみると、「ヤングギター」と書かれた下に、ハードな服装の男が派手なエレキギターを手に持った写真の表紙が目に入った。林太郎が初めて見る音楽雑誌である。
「メンツが揃ったな。練習を始めるぞ」
希輔は一番遅れて来た林太郎を鋭い目で一瞥してから、エレキを机の上に置いて椅子から立ち上がった。
「柳澤と田向は自分のパートの練習をしていてくれ。俺は森の面倒を見る」
(俺の面倒?健吉みたいにお世話を焼くって事か?)
突然、希輔は所在無さげに突っ立っている林太郎の両肩を掴んで、その背中を教室の壁にどんと押し付けた。
健吉の説明ではデスとスラッシュの融合となっていますが、元々は一緒ですので大して区別は付けなくていいのではないかと思います。悪魔のような声で歌う(アレ歌か?)のがデスメタルって言われてる。




