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雨、上がる


(な、なんだ?)


 突然のことに驚いて体を(すく)ませる林太郎に、希輔は恫喝するような声で言った。


「森、壁に背を張り付けるようにしてまっすぐに立て。それから腹に力を入れろ」


 言い終える前に希輔は林太郎の腹に殴るような格好で己の拳を突き付けた。


「ぐえっ」

 アヒルの悲鳴のような声を上げた林太郎を、希輔は恐ろしい形相で睨んだ。


「なんだ、このふにゃっ(ぱら)は。普段、お前がどれほど怠惰な生活を送っているのがよく分かるな。いいか、森。ヘビィメタルの超絶技巧演奏には筋肉の瞬発力とその持続力が必要とされる。アスリートと一緒だ。分かるか」


「ふぁ」


 情けない返事が喉から出た途端に、希輔が林太郎の胃の辺りに押し付けている拳をぐりぐりと動かした。痛みに林太郎の喉から再びぐええっと、悲鳴が上がる。


「エレキの演奏には腕及び手首の筋肉、ドラムは腕は勿論、胸筋と足の筋肉も鍛えなければ、空気を切り裂くような音は出せない。そしてボーカルは声が楽器だ。その声を鍛えるにはまず腹筋からだ。何故なら、高音と低音で叫び続けるには腹の底から発声しないと、すぐに声帯がやられてしまうからだ。だからボーカルにとって腹筋を鍛えることは、最も重要なのだ」


 説明の合間にも希輔が胃をぐりぐりやるものだから、林太郎は痛みに涙目になって「ぐぇぐぇ」を繰り返した。


「野木っ、痛いから、ぐりぐりするの、もうやめて!」

 悲鳴を上げて哀願する林太郎を睨みつつ、希輔は非情な言葉を口にした。


「痛いか?痛いのが嫌だったら、俺の拳をお前の腹筋で押し戻せ」

 林太郎は精一杯腹に力を込めて、希輔の拳を押し返した。


「はい、そのまま十秒~」と、残酷な宣言をして希輔がカウントダウンを始める。それを十回繰り返した後にやっと希輔の拳から解放された林太郎は、床にへたり込んだ。


「森、疲れるのはまだ早いぞ」


 希輔が首を振って他の二人に合図する。柳澤と田向が、がたがたと音を立てて机を並べ始める。自分の前に縦長に並んだ机を林太郎は怪訝そうに見つめた。


「森、この上に横たわれ」

 机の上に手を置いた希輔が命令口調で林太郎に指示を出した。


「えー。何で机の上なんかに寝そべらなくちゃいけないんだ?発声練習とかしないの?」


「その前に声帯の周りの筋肉を鍛える。横になって首を上げる運動をするんだ。床の上じゃ埃っぽいから喉を痛めるだろう?それで机に寝ろと言っている。早くしろ」


 さすが陸軍大将の生まれ変わりだけの事はある。希輔の表情も声も威圧感が半端ない。嫌と言えない林太郎が渋々机の上に寝転がると、希輔は林太郎の後頭部を片手で支えて持ち上げた。


「俺が手を離したら、首だけの力で三十秒間、頭を持ち上げているんだぞ。分かったな。はいっ、いち、にい、さん、しぃ…」


 林太郎は顔を真っ赤にして歯を食いしばりながら、恐ろしく長い三十秒を必死で堪えた。




「はあ…」


 一人で帰宅する林太郎は、心底疲れた様子で溜息を吐いた。追い打ちをかけるように、朝から降り続く雨が激しさを増している。

 頸部の運動とやらが終わった後は発声練習だった。

 最初は低音から始めたのだが、希輔達の音楽性からして、当然、血を吐きながら地を這う悪魔が生贄を求めて唸るかの如くおぞましい低音である。

 

 ピアノがないので希輔がエレキで発声の音源を取ってくれるが、とてもじゃないが、最初から地鳴りのような悪魔的声音が林太郎の喉から出てくる筈もない。


「喉の奥でビブラートをかけろ!」と希輔に怒鳴られてやっと出てきたうげぇうげぇという声を「なんだ!そのゲロを吐くような汚らしい声は!」と怒られ、今度はスラッシュメタルの高音域でひぃ~ひぃ~と声を上げると「お前は絞め殺されているニワトリかっ!」と怒鳴られる。


 終いにはイラついた希輔にピックの先で頭を突かれた。


「もうこんな同好会やめる。やめてやるっ」


 と、正面切って言えないのは、“鼻血王子”で学校中のからかいの的になっているのを、希輔が守ってくれるとの約束を反故にされたら林太郎自身が困るからだ。


「明日も今日と同じ事やらされるのかなぁ。ボーカルだっていうのに、全然カッコ良くないじゃん。っていうか、明日、腹と首が絶対筋肉痛になってるよなぁ~」


 自分の格好良い姿をエリスに見て貰いたいと始めた筈なのに、同好会活動の初日から泣き言を口にしている林太郎の姿を、一体誰がカッコイイと称賛してくれようか。


「森、秋の文化祭がお前のデビューの場だ。それまでには俺達の演奏レベルの声を出せるようにしろ。分かったな」


 日清、日露戦争を戦った明治の陸軍大将に正面切って言われると、その気迫に軍医であるが武人ではなかった林太郎は「はい」と大人しく答えてしまうしかないのである。


「いや、もう、それ無理でしょ。無理に決まってるでしょ」


「林太郎?」


 ぶつぶつ文句を言いながら歩く林太郎の後ろから、自分の名を呼ぶ小さな声がした。


 渋っ面のままで振り向くと、何と、エリスが立っている。


「エリス!部活は?」


 慌てて顔の表情をいつものイケメンに戻す林太郎に、エリスが言った。


「雨だから中止。運動公園内の体育館でフットサルしていたんだけど、バトミントン部と交代制だから、今日はお終い」


「そうなんだ」


 帰り道が一緒でも、サッカー部に入ったエリスの方が帰宅時間は遅い。期末テスト前の一週間とテスト中は健吉と三人で帰ることもあったが、二人で歩くのは初めてである。


「今日は健吉君と一緒じゃないの?」


「ああ。あいつは保健委員会の集まりがあるから」


「そうなんだ」


 軽く相槌を打つと、エリスは口を閉じてしまった。並んで歩けるのは嬉しいが、困ったことに会話が続かない。焦っている林太郎に、エリスがそう言えばと、再び喋り出した。


「林太郎、ロック同好会に入ったんだってね。女子サッカー部の子が言ってたよ。今、学校中がその噂で持ち切りだって」


 エリスがにっこりと微笑むのを見て、林太郎は表情を固まらせた。


(学校中だって?どんだけ暇なんだよ。人の噂話ばかりしやがって)


 内心では鬼のように憤っているが、エリスには爽やかな笑顔の林太郎である。


「健吉が同好会入っているの、つい最近知ったんだよね。あいつ、委員会とかも頑張っているだろ?俺も何か活動始めようかと思ってさ。それで」


 半分は嘘である。エリスにカッコイイところを見せたいが為に、安易な考えからロック同好会に成り行きで入ってしまったのが真相である。

 しかし、今、こうして口にしてしまった以上は嘘を貫かなくてはならない。ロック(実はメタル)同好会を辞めたくても辞められない泥沼的状況に、自ら足を踏み入れていく林太郎であった。


「そうなんだ。頑張ってね、林太郎」


「う、うん」


 エリスに励まされて、さらに後に引けなくなった己自身を呪うばかりである。トホホの林太郎に、エリスが少し曇った表情で言った。


「あのね、林太郎。話は変わるんだけど…」


「うん、何?」


 ロック同好会の話を終わらせたい林太郎は、勢いを付けてエリスに返事した。

 そんな林太郎とは対照的に、エリスは顔を下に向けながら呟くような声を出した。


「…舞姫の小説の事なんだけど。あの結末、どう思う?」


「あ、ああ…。あれね…」


 その話は同好会以上に口にしたくない。だが、エリスが話たいのなら仕方がない。


「酷い結末だよね。こんなのありえないってクラスの女子も怒っていたけど、女の子からしたら当然だよ。愛した男の裏切りで、ヒロインは人生を台無しにされてしまうんだから」


 自分が書いた小説だ。あの悲惨な結末も、己の頭から生み出された。


「悲劇と言っても小説の中の話だよ。それに、あの小説が書かれたのは百年以上も前だしね」


 恋人をモデルにした小説だ。いくら創作とはいえ、愛した(ひと)を狂気へと向かわせる結末はあんまりだ。百年経とうが二百年経とうが、口上で踊る薄っぺらな言い訳は醜悪でしかない。


「君がヒロインと同姓同名で、俺は作者の本名と同姓同名。しかも健吉まで話に出てくるなんてすごい偶然で、クラスメイトの反応には本当に参ったけれどね。でも、現実の話じゃない」


 現実である。人が人としてこの世に存在する限り、愛し合う行為は未来永劫続くのである。


 そしてまた、愛への裏切りも。

 空々しい言葉が次から次へと出てくる。そんな自分に林太郎は嫌悪感を覚えた。

 

 喋り終えて、林太郎は身構えるようにしてエリスの次の言葉を待っていた。

 エリスは口を噤んで横を向いたまま林太郎と並んで歩いている。


 エリスの歩くのが少しばかり速くなったのを林太郎は感じた。

 並んでいたのが、少しずつエリスの体が前へ出る。エリスの速足はついに小走りになった。


「エリス?」


 エリスの脚は早い。瞬く間に間隔が開く。その距離を埋めようと、林太郎も駆け出した。

 突然エリスは足を止めて、自分に追い付こうと走って来た林太郎を振り返った。大きな目を更に大きく見開いて、林太郎を見つめる。その様子にただならぬ気配を感じた林太郎は何も喋れないで、エリスの顔に戸惑いの視線を当てるばかりだ。


 そんな林太郎を見て、エリスがやっと口を開いた。


「あなたが舞姫の結末をどう思っているかよく分かった。それでね、林太郎。あなたは小説の中のエリスをどう思う?」


「どう、思うって…」


 困惑しかない表情の林太郎に、エリスが上目遣いで意味あり気に微笑んだ。

 何ともまあ、小悪魔的な魅惑に満ちた表情だ。


「じゃあ、質問を変えるわね。林太郎、小説の中のエリスが現実に存在しているとしたら、あなたはその少女をどう思う?」


「えっ!!!」


 エリスのとんでもなく思いがけない質問に、林太郎は首まで赤くなってしどろもどろで答えた。


「それは、その、かわ、可愛いと思うよ」


「可愛い…。それだけ?」


 エリスが近寄って来た。爪先立ちになって、林太郎の顔に息がかかるほど、自分の顔を近づけてくる。


「い、愛しい」


「愛しい?それ、好きってことかな?」


「うん。す、き。…好き」


 だって小説の中のエリスは君なんだから。


 現実に、今ここに、俺の前に、いるんだから。


 そうとは言えずに必死で言葉を紡いだ林太郎である。


「ふうん」


 エリスは満足そうににっこりと微笑んだ。

 強制的に告白させられた状態に、林太郎はこれ以上ないくらいに赤くなっている。


「あ」


 小さな声を上げて、エリスが空を見た。


「雨、上がったね」


 傘を畳むと、大きな目をくりくりと動かして空を仰ぐエリスの様子を、林太郎はぼうっとしながら見つめていた。


「林太郎、また明日ね」


 元気に手を振って身を翻し駆け出すエリスを、林太郎は声もなく見送った。

 雨が上がった空には夕焼雲が浮いていた。林太郎の顔に負けないくらいに真っ赤である。

 もうすぐ梅雨も明けるのだろう。


「あと少しで、夏休みだな」

 林太郎はぽつりと呟いた。


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