腐女子きららの微笑み
「おっはよー!林太郎君。昨日は大変だったねえ。鼻血はもう大丈夫?」
登校途中に後ろから健吉に呼び掛けられるのは林太郎の日常だが、健吉の甲高い声で「鼻血」というのは勘弁して欲しかった。
いつもなら林太郎の周囲に寄ってくる女子生徒達が、今日は遠巻きでこっちを見ながらくすくすと笑っている。彼女たちの様子からすると、林太郎の“鼻血事件”はLINEやSNSで学校中に広まっているのは確実であった。
「ああ」
林太郎は不機嫌な顔で健吉に返事をした。
「あれえ、珍しいね。今日はワイシャツの裾、スラックスの中にインしてないんだ」
健吉は目敏く林太郎の格好に目を付けた。
「不測の事態に対応する為だ。俺は、死ぬまで、いや、死んでもワイシャツの裾をズボンの上に出すと決めたのだ」
「?」
林太郎の不可解な返答に首を傾げてから、健吉はスマホを取り出してポチポチとメールを始めた。
「朝から誰にメールしてるんだ?」
不貞腐れの極みといった表情の林太郎の問いに、健吉はにっこり笑った。
「エリスちゃんだよ。林太郎君のこと随分心配してたから、今日、学校に来ること教えてあげようと思って」
「え、そうなんだ」
不機嫌は何処へやら、林太郎は歓喜の表情で健吉を見た。
(エリスが俺を心配してくれていた!それって少しは俺に関心あるってことだよね?)
「健吉君、ちょっとお願いがあるんだけど」
林太郎は健吉に手を合わせた。手など合わせなくても林太郎の頼みは大概何でも聞いてくれる健吉だが、林太郎が「君」付けで呼ぶ時には身構えて話を聞く態度を取る。
「何、お願いって。あ、お金だったら貸さないからね。今月出費が多くてお小遣いピンチなんだから」
「金じゃないって!借りてる金はそのうち返済します。すいませんもう少し待って下さい」
「もう少し待つけどね。林太郎君に貸したお金が戻ってくると、杉山つくしちゃんの写真集が二冊も買えるのになあ」
杉山つくしとは健吉の一推しているアイドルである。恨めし気に溜息をつく健吉に「いや、ホントワリィな」と林太郎は片手を立てて軽く謝った。
「で、なに、お願いって?」
「俺、部活に入ろうと思ってさ。運動部とか」
「そうなの?!」
健吉がものすごく驚いた声を出した。
「林太郎君、中学では十二分にサッカーで汗を流したから、高校の三年間はだらだら過ごすって宣言していたのに」
「そんなに驚くなよ。まあ、心境の変化ってとこかな。それでさ、お前、二年時からでも入れる運動部って知ってる?」
「そうか。林太郎君の最初の“お願い”の意味が分かったぞ」
健吉は謎の解けた探偵のような表情で、機関銃掃射の如く喋り出した。
「実は人見知りが激しい林太郎君に僕が付き添って岨野山田高校の運動部を隈なく回りながら林太郎君が入ると決めた運動部の部長さんに林太郎君を入れて下さいって僕が頼んでそれで無事に入部出来たら林太郎君の事宜しくお願しますって部員の皆に僕が頭を下げるって、そういうお願いなんだよね?」
「…まあ、そういうことになります。はい」
「うん、分かった。いいよ。放課後、一緒に運動部を巡回してみよう」
健吉は大きく頷いて仏様のような慈悲深い微笑みを林太郎に向けた。
林太郎が教室に入ると同時にクラスがさざめいた。
覚悟はしていたが、クラスメイトの視線が痛い。皆とあまり視線を合わせたくない林太郎は、床に目を落としながら自分の席に向かうことにした。
今日は林太郎より登校が遅れているのか、エリスの姿は席になかった。
林太郎は正直ほっとした。
おうがいのせいで、会話どころか、今日はエリスの顔に視線を当てることすら出来そうにない。
顔では平静さを装って入るものの、実はしょげ返っている林太郎に真紀が明るく声を掛けてきた。
「森、お前、昨日は散々だったな。鼻血で死んじまうかと思ったぜ。あんまり無理すんなよ」
「確かに酷い出血だったけど、こうやって生田の前にいるんだから、もう大丈夫だ」
いつもの調子と変わらない真紀に林太郎は救われた思いで席に着いた。真紀がにやにや笑いながら、スマホの画面を林太郎の前に突き出してくる。
「いいもん見せてやる」
真紀がスマホの画面を開いた。林太郎がのぞき込むと、そこには鼻から血を流してぐったりとしている林太郎をお姫様だっこする岩崎の姿が映っていた。
とんでもない画像を目にして、林太郎はギャッと悲鳴を上げた。
「何だよこれっ、気持ち悪いっ!早く消去しろ!!」
「やだね。消すなんてもったいない。我ながらベストショットだと思ってるんだぜ?あと、これもなかなかいいアングルで映ってるだろ」
真紀はスマホの画面を変えた。それは、林太郎が岩崎におんぶされているものだった。
「これ、俺が最初に気を失った時のだな?生田、お前いつの間にこんな汚らわしい写真撮ってたんだよ!」
「林太郎君、気持ち悪いとか、汚らわしいとか、岩崎君に失礼だよ」
健吉が珍しく怒った顔で林太郎を咎めた。
「岩崎君は気を失っている林太郎君を保健室まで運んでくれたんじゃないか。それにだっこして運ぶ時、林太郎君の鼻血が岩崎君のワイシャツにけっこう付着しちゃったんだよ」
「…それは、悪かった」
「僕に謝ったってしょうがないでしょ。ちゃんと岩崎君にお礼を言いなさい」
まるで保育士の先生に叱られた幼稚園児である。
林太郎はすごすごと岩崎の元へ向かった。それから無理やり口角を引き上げて笑顔を作った。
「や、やあ、岩崎。二回も保健室に運んでもらってありがとう。重かったろ?迷惑かけたな」
「なあに、森を運ぶくらいどうって事ないさ。それより鼻血はもう大丈夫なのか?」
岩崎は頬をぽっと赤らめて、小首を傾げると瞬きを繰り返して林太郎を見た。
(ぽって…。岩崎、何で顔を赤らめてんだよ。まさかお前、俺を抱っこしたせいで変なスイッチ入っちまったんじゃないだろうな)
林太郎は嫌な汗で背中を濡らしながら岩崎からじりじりと後ずさった。直後、背後に異様な気配を感じて思わず後ろを振り返った。
気配の主は鴻池くららだった。
くららは分厚い眼鏡の奥にある瞳をぎらりと光せながら、林太郎を凝視していた。
まるで獲物に狙いを定めた豹のように鋭い目つきだ。
林太郎の怯えた瞳と視線が合うと、くららはぞっとするような微笑みを浮かべてからVサインを突き出した。それから机に向き直るとiPadを取り出して、両手の指を超高速で動かし始めた。
「あの腐女子の行動は、もしや…」
「あ、そうだ。事後報告になるけど、この二枚の写真、鴻池に送信しておいたからな」
真紀の爆弾発言に、林太郎の顔が紙のように白くなった。
「お前、何で俺に断りもなく鴻池にそんな写真送信するんだよっ」
「だってさぁ、この写真がどうしても欲しいって、鴻池に縋りつかれて号泣されたもんだから、つい」
泣きそうな表情で猛然と抗議する林太郎に、真紀は決り悪そうに頭を掻いた。健吉が二人のやり取りを心配そうに眺めている。
「つい、じゃないっ!生田、お前、鴻池がどんな小説書いているか知ってんだろ!」
「まあな。いいじゃねえか、減るもんじゃないし。鴻池の他には誰にも見せないから安心しな。そういえば鴻池の奴、あの写真をネタに小説を書いてネットに発表するって言ってたぜ」
「ひ―――」
林太郎はムンクの叫びを自分の顔に精密に再現して、くたくたと床に崩れ落ちた。
「わあ。林太郎のその恰好、まるで万年君みたい」
教室に入って来たエリスにも追い打ちの言葉を打ちかまされた林太郎は、半日立ち直れない状態に陥った。




