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ビターチョコレート其の弐

「エリス?」


 エリスの席の前で立ち竦む林太郎の腕を真紀が引っ張った。


「エリスは気分が悪いんだってさ」

 驚いた林太郎を、真紀が怒った顔で睨んでから声を落とした。


「お前、今、大きな声でエリスに挨拶しようとしたろ?」


「…うん」


「堀田達がこっちを見てひそひそやっているぞ。気を付けろよ」


「分かった」

 林太郎がしょんぼりと頷くと、真紀は鼻を鳴らして自分の席に座り直した。


(やっと、エリスと話せるようになったっていうのにな)


 林太郎は力なく椅子に座ると、机の上に頭と上半身をぐったりと横たえた。

 

 喋れないのなら、顔くらい見たい。


 大体、好きな子の顔というは、自分でも知らないうちに見つめているものである。

 その子が同じクラスで、しかも自分の席の近くに座っていたら、自然に顔がそっちへ向く。

 それでも姿が見えなければ体ごと捩じって見る。

 そして、その子の様子をひたすらこっそりと観察するのである。

 

 だけど、好きな子が自分の真後ろにいる場合は、その手は使えない。

 

 もっと運の悪いことに、林太郎の気のあるクラスの女ボスとその手下二人に自分の挙動を見張られている。

 それが原因でエリスが嫌がらせを受けないようにと、林太郎の前の席の暴力的筋肉女子の真紀にエリスとの接触を固く止められている。


(何なんだ、この絶望的な状況は)


 林太郎の胸にふつふつと怒りが込み上げてきた。


(こんなのおかしいだろ?後ろを振り向いて、エリスに、“具合、大丈夫”?って声を掛けることすら出来ないなんて)


 よし、決めた!と、林太郎は心の中で叫んだ。


(俺は今から後ろを向いてエリスに声を掛けるぞ。堀田の奴らなんかどうでもいい。あいつらがエリスに嫌がらせを始めようものなら、俺が全力で阻止する。大根田が出張ってくるようなら、俺の頭脳を駆使して、筋肉バカゴリラを生田と対決するように仕向ければいい。俺の計算では、巨体の大根田より生田のスピードの方が勝る。サッカーで鍛えている生田の足蹴りが大根田の急所にヒットすれば、勝敗は決ったも同然だ。大根田が負ければ、虎の威を借る狐の堀田なぞ恐れるに足らずだ。万が一、生田が負けちゃった時は、妹をボコられた武闘派四兄弟が怒り狂って大根田の息の根を止めに来る。大根田に一分の勝ち目もない)


 どっちに転んでも、林太郎自身には火の粉は降りかかってこない。

 人が聞いたら「あんたそれ人としてどうなのよ」と呆れ返る“全部生田に任せちゃえ作戦”だ。


 林太郎が意を決したその直後、突然、エリスが座っていた椅子を後ろに引き倒して立ち上がった。

 大きな音に驚いて後ろを振り返った林太郎の脇をすり抜け、エリスは教室の前の引き戸を開けると教室から出て行った。


「おい、エリス、どうした!」


 真紀が慌ててエリスの後を追いかけていく。

 今、二人の後を追って教室を出たら、かなり目立ってしまう。ざわつき始めた教室で、林太郎は立ったまま全開になった引き戸を見つめていた。


 エリスの後を追って行った真紀と入れ替わるように教室に入って来た鈴木が、クラスの生徒達に告げた。


「ワイゲルトさんはかなり体調が悪いようですね。今、生田さんに付き添われて保健室に行きました。アメリカから来て日が浅いですから、時差の影響も残っているでしょうし、まだ日本の生活に慣れていなくてストレスを感じているのでしょう」


 鈴木の納得いく説明に、クラスはすぐに落ち着きを取り戻した。


 ホームルームの後、健吉が鈴木に呼ばれた。鈴木が健吉に何か伝えている。健吉は真紀に頼んでエリスの持ち物をまとめてもらうと、鞄を持って教室を出て行った。

 

 健吉が教室に戻ってくるまでの間、林太郎は高速で貧乏揺すりをしながらその帰りを待っていた。


 一時間目が始まる前に、健吉が保健室から戻って来た。林太郎の顔を見た健吉が、すぐにエリスの容態を説明し始めた。


「エリスちゃん、今日はこのまま早退するって。お母さんが車で迎えに来るってさ」


「…そうか」


 林太郎は肩を落とした。

 それから後ろを向いてエリスの机をじっと見つめた。

 エリスがいなければ堀田達もこちらに気を向けないし、真紀も文句は言わない。


(誰の目も気にせずに見ていられるのが、机だけなんて)

 

 林太郎はエリスの机をそっと撫でた。




((林太郎よ、エリスとの恋は、途方もなく前途多難であるな。あれとの恋は昔も昔、明治の時代に終わっているのだ。二人が時を同じくして転生し巡り合ったのは運命ではなく、全くの偶然だとは思わんか?))


「じじい、何が言いたい?」

 林太郎は恐ろしく不機嫌な声でおうがいに唸った。


((転生前はベルリンの貧困街生まれだが、今のエリスは大富豪の一人娘と聞いたぞ。2LDKの中古マンションに住んでいるお前とは、住む世界が違い過ぎる。それにあの美貌だ。アメリカの超セレブ男子達が放っておく訳がなかろう?現に、有名な若手俳優と付き合っていたとエリス自身が言ってたではないか))


「だから?」


((今、エリスを諦めれば、心の傷もそれほど深くなかろうよ。幸い、お前は(性格には問題があるにしても)かなりのイケメンだから、女に困ることは…))


 ごんっと鈍い音がおうがいの上に降ってきた。

 頭蓋骨が振動するのに驚いて、おうがいは慌てて口を噤んだ。


「いっってぇぇぇ!」


 林太郎が悲鳴を上げて自分の頭を抱えてベッドに転がっている。


((林太郎!お前、自分の頭を思いっきり殴っただろう?!何て馬鹿なことをする!!))


「お前が、そんなこと言うからだっ」

 ベッドにくの字に体を折り曲げながら、林太郎は叫んだ。


「エリスを、諦めろだなんて。このクソジジイが!」


((悪かった))


 おうがいは即座に謝った。林太郎を傷付けるつもりなど毛の先程にもないからだ。


((林太郎、やはりお前は余であるのだな。一途にエリスを思うその気持ちは、百年以上時が経っても変わらんとは))


 いつの時代でも、初恋ほど純粋なものがあるだろうか。

 ただ、誰もが知っている通り、その殆んどは成就することない。

 若き日の思い出は記憶の水底で眠りにつくのが常である。


「おうがい、お前はエリスとの愛を成就させたんだろ?俺だってエリスと両想いになる権利がある!両想いになる!絶対なるっ!」


((林太郎の気持ちは痛いほど分かるが、それ、相手の気持ち次第だからねえ。まあ、応援はするけど))


「おい、おうがい!俺はお前の生まれ変わりだぞ。自分の恋路を応援しないのか?しないんだったら、金輪際パソコンの画像は一切見せないからな」


((はい、分かりました。応援します))


 林太郎の脅しにあっさりと屈したおうがいであった。


  だが。


((こうも熱心に復縁を望むのは、余がエリスと別れた経緯を林太郎が知らぬからだ))


 おうがいは自分の思考と林太郎の思考を遮断して呟いた。


 おうがいは林太郎のエリスとの記憶を完全に操作していた。

 エリスをモデルに執筆した小説「舞姫」の 詳細を彼の思考から締め出し、教科書を読もうとする気をも起こさせないように、美しい記憶しか見せていないのだ。

 

 老年であるおうがいの狡猾な策が弄して、若い林太郎はその記憶にすっかり参ってしまい、ふわふわと夢心地だ。

 

 今は成功しているものの、学校で現国の授業が進めば、その内容を否が応でも知ることになる。


((若気の至りであった。勢いで書いたこの小説が、まさか明治期の古典の名作として現代の教科書に使われるとは…))


 おうがいは苦り切った溜息をついた。

 最初の頃は古典的表現で小説を発表していたおうがいであったが、夏目漱石の成功を目の当たりにして、次第に口語体で小説を書くようになっていった。


 だが、自分の横やりで口語体の使用を大幅に遅らせた教科書が現言一致の文章を載せるようになったのは、何と太平洋戦争後のことである。


 これほど皮肉な運命に翻弄されるのは、やはり、転生前の上田万年の呪いであろうか。

 万年をしつこくいじめたことを、おうがいは今更ながら後悔した。


 林太郎には偶然の一致と言った。


 同時代、同年齢で生まれ変わったエリスがアメリカから日本に転校して来て、林太郎が在籍する高校の同じクラスで再び出会った。いくつも重なった偶然を、人は“運命”と呼ぶのではないのか。


 自分と同じ結末が二度と繰り返さないようにと、それだけを祈る事しか出来ない。


((どうにしたって、ままならぬことなのだ))


 これ以上起きていて林太郎と会話する気持ちにもなれない。

 林太郎の頭の片隅で、おうがいは悲し気に目を閉じた。


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