ビターチョコレート其の壱
林太郎の頭の中でおうがいが唸っている。
((ううむ))の連続だったのが、((うおおっ))になり、遂には((わおおおおおー!))と、犬の遠吠えの如き歓声になった。
声を出す度、一オクターブずつ声域が上がっていくのだから、うるさくて堪らない。
「おうがい君、あんたもういい年なんだから、もう少し静かに見たらどうだ」
林太郎はおうがいに文句を言いながら、カーソルを動かした。
((おい、ちょっと待て!その画像はまだ鑑賞中だ。元に戻せ))
「ちっ。この熟女好みが」
林太郎は忌々しげに舌打ちして、おうがいの要求通りパソコンの画像を戻した。
肩まで切りそろえた髪の一部を口の端に咥えた若い女が、その裸体に派手な柄の着物を少しだけ肩に掛けて、腰に巻いた赤い長襦袢の裾を思い切り広げた格好でアンティーク調の長椅子に横たわっている。
((ふむ。これはなかなかに芸術性の高いものであるぞ。万年の兄というのは趣味が良いな))
「…そうかぁ?」
中学三年時、遊びに行った万年の兄の部屋に忍び込んで、パソコンからエロ画像をこっそり(ごっそり)盗んできた林太郎であったが、高校二年となった今、万年兄の秘蔵ファイルでは物足りなさを感じている今日この頃である。
(まあ、中学三年の夏休みから高校受験の前日まで、見倒すだけ見倒したからな。なんかもう、どうでもいい画像ばかりだ)
うわあ、こいつ、とんでもないエロ中坊だったんだとか、あんた、それでよく高校受かったね、という読者の真っ当な反応は脇に置いといて、話を先に進めよう。
机の上に頬杖を付いて、溜息交じりにカーソルを動かしながら、林太郎は過激なピンク画像を次々とおうがいに見せていった。
おうがいが好むのは大正ロマン風の画像で、平成生まれの林太郎には興味のないものばかりだ。
「じいさん、物好きだな。着物を羽織った画像ばかり、どうして長々と鑑賞しているんだよ」
((秘すれば花というではないか。お前が好む即物的な画像はあられもなさ過ぎて、芸術を愛する余の心に迫ってくるものがない))
「何が芸術だ。全部エロ画像じゃないか」
うんざりした表情で林太郎は溜息をついた。おうがいがファイル画像を見始めてから早くも二時間が経過している。
昨日は手の怪我で、おうがいに約束した画像を見せられなかった。
さすがに学校では大人しくしているが、帰宅した途端におうがいは林太郎の頭の中で癇癪を起し、秘蔵ファイルを見せろと喚き始めた。
おうがいには実体がない。あるにはあるのだが、それは林太郎の体だ。
おうがいがあまりにギャーギャー騒ぐので、林太郎は自分の頭を思わず拳で殴り付けてしまった。当然、激痛が走ったのは自分の頭で、おうがいは林太郎の行為を嘲りながら言った。
((ふははは。愚か者めが。余は精神だけの存在であると言っただろう。お前の肉体感覚、特に痛覚などとは共有せずに切り離してある。だって、痛いのやだもんね。分かったら早く画像を見せろ))
そんなわけで、本当は恵子が帰ってくるまで夕寝をしたい林太郎だが、眠たい目を擦りながら、おうがいの命令通りにカーソルをクリックし続けているのである。
「なあ、もういいだろう?さっきから同じのばかり見ているんだけど」
((そうか?全身を縄で縛られているこの画像はまだ見ておらんぞ))
「それは一番最初に見たやつだよ。はい、おしまい」
荒々しく息を吐いて、林太郎はパソコンの画面を閉じた。さすがに満足したのか、おうがいは文句を言わなかった。が…。
((パソコンの画面をずっと凝視してたから余は疲れた。林太郎、チョコレートくれ))
「またかよ」
頭の中におうがいが現れてから、どれだけのチョコレートを口に入れただろう。甘いもの大好きの林太郎ではあるが、さすがに食傷気味である。
「しょうがないなあ」
机の一番上の引き出しを開けてチョコレートを取り出した。板チョコが縦にびっしりと並んでいる。おうがい用に買ってきたのだが、林太郎以外の人間が見たらびっくりする量だ。
「俺の少ない小遣いが板チョコで半分以上吹っ飛んだぞ」
林太郎はぶつくさ言いながら、チョコを小さく折って口の中に放り込んだ。
何故、林太郎がおうがいの言いなりになってチョコを食べるのかというと、下記の理由で脅されているからだ。
((チョコレートは余の命の源である。林太郎がチョコを食べないと余は餓死してしまう、かも知れん。もし、余が死んだら、余と一体化している林太郎の脳の部分が壊死してしまう、かも知れん。だから林太郎、チョコを食べろ))
「かも知れん、かも知れんって、お前、本当はチョコ食べなくても平気なんじゃないのか?」
((林太郎がチョコレートを食べると余の疲れが取れるのは間違いない。きっとチョコレートに含まれるポリフェノールが余の精神に良き作用を与えているのだろう))
「もう、胸焼けしそうだよ」
げんなりした表情で、林太郎は口の中で半分溶けたチョコレートを飲み込んだ。
((胸焼けではなく、胸が一杯なのだろう?))
意味あり気に笑うおうがいに、林太郎は「うるせえ」と頭の中で唸った。
今朝、林太郎は天にも昇る気分で学校へと急ぎ足で向かった。
昨日の帰り道、初めて二人だけでエリスと話せた。互いを名前で呼び合う約束もした。
早くエリスに会いたい。
「林太郎くーん、待ってよう。そんなに急いでどうしたの~」
ずっと小走り状態で林太郎の後を追う健吉の息を切らした悲痛な声も、全く耳に入らなかった。
女生徒の群れが自分を取り巻く前に、林太郎は教室に飛び込んだ。
堀田達の目があるからあまり大っぴらには話せないが、おはようの挨拶くらいはエリスと交わすことが出来ると思ったからだ。
エリスは自分の席に座って、窓の外を眺めていた。
照れた笑みを浮かべながら席に近づいてくる林太郎に気が付いて、エリスは正面を向いた。
「おは」まで元気に口に出した林太郎だが、「よう」は咄嗟に喉の奥に押し込んだ。
何故なら、エリスが、昨日とは別人のような冷淡な表情で林太郎を見たからだ。
その瞳は、転校してきた当初、エリスが林太郎に見せた以上に冷たく閉ざされていた。
エリスは黙って林太郎を一瞥すると、無表情な顔を再び窓の外へと向けた。




