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百三十二年後の恋


 万年(かずとし)は自分の背中を揺さぶっていた健吉を振り払うと、すっくと立ちあがってエリスを睨み付けた。それから、ふっと笑みを漏らして空を見上げた。


「エリス・ワーゲルト。きさまの言葉には感謝せねばならんな」


 万年は、いつも下校途中の林太郎を待ち伏せする時に隠れている電信柱に片手を付いて滔々(とうとう)と語り出した。


「たった今、俺は、開眼した。本音を言えば、俺は官僚なんかになりたくないのだ。物心ついた時から両親と祖父母及び上田家一族から、官僚になれ官僚になれと、念仏を唱える如く言われ続けて、官僚呪縛に陥っていたのだ。それが今、きさまの言葉で奴らの洗脳が解けた。実は、俺は語学にすごく興味があるんだ。今まで誰にも言わなかったが、本当は言語学者になりたいんだ。アマゾンの奥地に住んでいる少数民族の解読不能と言われている言語を研究するのが夢なのだ」


「へー。そうだったんだ。全然、知らなかった」


 健吉が心底驚いた顔をした。


「凄いじゃないか!お前にそんな偉大な夢があったなんて。いいか上田、その夢を絶対に実現させるんだぞ!」


 林太郎は力を込めて万年を激励した。


「誰も知らないアマゾンの秘境に住んでいる人々と寝食を共にして、生涯を掛けて彼らの言語を解読するんだ。お前は優秀だ。不可能を可能にする男だ。五十年後、必ずや少数民族の言語を解読し、世界にその名を轟かせているだろう。お前のライバルである、この俺が保証する」


 林太郎の言葉に、万年は顔を赤らめて恥ずかしそうに身を捩った。


「そ、そうか?森林太郎、きさまからそんなに応援されるとは思ってもみなかったぞ」


「水臭いこと言うなよ。友達だろ?」


 林太郎は、はっはと笑い、万年の肩を親しげにぽんぽんと叩いた。


(上田万年、早く日本の裏側に行っちまえ。そして一生、俺にその(ツラ)見せるな!)


「ええ~!亀ちゃん。話が違うじゃないか~」

 万年の百八十度変更してしまった進路宣言に、健吉が情けない声を上げた。


「僕は亀ちゃんが優秀な官僚になって、日本の行き詰った経済を救済してくれるって思っていたんだよ?日本の天文学的借金とか少子高齢化問題とか、全部解決してくれるって、すっごく期待していたのにぃ」


「すまんな、相沢。俺の優秀な頭脳は俺自身の為に使うと、たった今決めたのだ。よく考えれば、どうして俺がこの国の愚民共の面倒を見なければならんのだ!相沢、お前の方がよっほど官僚向きだ」


「え~、僕が官僚に向いてるって~?何でそう思うの?」


 健吉の間延びした質問に万年は林太郎を指差して高らかに叫んだ。


「相沢健吉!お前はこの男の面倒を幼稚園時代から見てきているのだろう?顔がいいだけのこんなクズ(おとこ)が社会で真っ当に暮らしていけているのは、長年、お前の超人的なお世話があってこそだ。だからお前にはこの国を正しい方向に導く力がある。俺に代わってお前が官僚を目指すのだ」


(俺が屑ならお前は塵だ!)


 そう叫びたいのをぐっと堪えて、林太郎は万年と健吉の会話を黙って聞くことにした。無論、エリスを意識しての事である。


「でもさ、僕は勉強出来ないから、国家試験になんかとても受からないよ」

 健吉は困ったように頭を掻いた。


「それに亀ちゃんも言った通り、林太郎君のお世話で(つちか)ったスキルを活かして、将来は保育士になろうと決めているんだ」


 万年は健吉の両肩をがっしと掴んで、真剣な顔を健吉の正面に据えた。


「いいか、相沢。国民の世話も幼児の世話も基本は一緒だ。これからはA・I(人工知能)の時代だ。基本的な国家の運営はA・Iがやってくれるだろう。だからお前はA・Iに使われて国民のお世話をすればいい。俺はA・Iを使って未知の言語解読に(いそ)しむことにするぞ」


「そうか。亀ちゃんにそこまで言われると、何だか僕、官僚やれそうな気がしてきたな」


「そうだ、相沢。お前のお世話スキルで日本を再生させるのだ!」


 健吉と万年の会話はもはや宇宙次元だ。

 林太郎は呆れ果てて二人のやり取りを聞いていた。

 確かに、万年と比較すれば健吉の方が官僚向きだ。いや、万年と比べれば、誰だって官僚になれる筈だ。


「よし。そうと決まったら、相沢、お前にこれから上田家に伝わる官僚心得を叩きこんでやる。今から俺ん家に来い」


 万年は健吉の首に腕を回して歩き出した。

 人の良い健吉は嫌と言ない様子で、万年に引っ張られていく。

 途中、林太郎とエリスに振り向いて「また明日ね」と手を振った。


「上田万年。あいつがトップ官僚になった暁には日本は滅ぶ。必ず滅ぶ。っていう訳で、ワイゲルトさんは日本を救った勇者だな」


 意気揚々と遠ざかっていく万年を見ながら思わず独り言を口にした林太郎のすぐ側で、くすりと笑う小さな声がした。

 林太郎は驚いた。自分の隣にいつの間にかエリスが並んで立っていたからだ。


「あ」

 

 林太郎は何を喋っていいか分からずに、ただ、隣のエリスを見つめた。


(何やってんだよ、俺。やっと、エリスと二人きりで話せるのに)


「傷は痛くないの?随分出血していたようだけど」


 エリスが先に話し出してくれて、林太郎はほっとした。


「うん、少し、痛いかな。保健室で井坂先生に鎮痛剤貰って飲んだけど、効き目が薄れてきたみたいだ」


「早く病院に行かないとね。一昨日は貧血で倒れて今日はその怪我じゃ、家に帰ったらお母さんがびっくりするわよ」


「大した怪我じゃないよ」


 林太郎は保健室での騒動を思い出した。骨が足から飛び出したサッカー部員に比べれば、こんなのかすり傷だ。


「それに、家には誰もいないんだ。母さんは働いててさ。俺のこと心配して二日続けて早く帰って来てたから、今日は遅くなると思う」


「共働き?じゃあ、私の家と一緒ね」


「いやあ…うちは親父が俺が幼い頃に交通事故で死んじゃっていてさ。それで母さんが働いているっていう」

 言った途端に、林太郎を見るエリスの瞳が大きく開かれた。

 エリスの唇が薄く開く。嫌というほど聞いてきた言葉がエリスの口から出てくる前に、林太郎は喋り出した。


「謝らなくていいよ。ワイゲルトさん。どうしても家庭の話になると嘘は付けないから、俺は本当のことを言うしかないよね。それでちょっと気まずくなって、相手がまず始めにご免なさいとか、それは大変でしたねとか言うんだ。誰からも同情されたくないし謝られたくもない。俺だって相手に気を使わせたくない」


「そうね」


 エリスは少し俯き加減で林太郎から顔を逸らした。


「言葉って、難しいわね」


「うん。でも、思いやりから出た言葉は、素直に嬉しい。だから、その」


 林太郎はエリスから視線を外して、万年の電信柱に目をやった。


「ワイゲルトさんが俺の怪我を心配してくれるのは…嬉しい」


 エリスが黙ったままなので、心配になった林太郎はエリスの顔に視線を戻した。

 エリスは目をゆっくりと瞬きしながら、林太郎を見ていた。

 その頬はさっきよりも薄紅色に染まっている。微かに揺れ動くエリスの青い瞳が自分の瞳を射抜くのを、林太郎は息を飲んで見つめ返した。


 林太郎が瞬きした瞬間、エリスはさっと顔を逸らした。


「こんなところで立ち話してちゃ駄目よね。森君、早く、病院に行かないと」


「林太郎でいいよ」

 平静を装ったつもりだが、随分と切羽詰まった声になった。


「アメリカって友達同士、名前で呼び合うんだろう?だからさ、俺のこと森君じゃなくって、林太郎って呼んで欲しい。…あの、さ、健吉もそう呼んでいるし、君に名前で呼ばれる方が慣れてる…ああ、いや、そうじゃなくて」


 つい口を滑らせてしまった林太郎は、慌てて言葉を濁した。


「うん。いいよ」


 エリスは微笑んで頷いた。嬉しそうな表情に見えるのは、林太郎の強烈な願望のせいだろうか。


「お互い名前で呼び合いましょう。私のことは、ワイゲルトさんじゃなくて、エリスって呼んでね」


「エリス…」


 やっと、その名を呼べた。


 エリス。エリス。俺の最愛の人。



「林太郎、また明日ね」


 エリスは林太郎に手を一振りすると、家路へと歩き出した。

 その後ろ姿が建物の陰に隠れて見えなくなるまで林太郎は見送った。


(エリス。俺の名前を呼んでくれたね)




 嬉しさのあまり病院に行くことをすっかり失念していた林太郎は、会社から帰って来た母、恵子に怒られながら夜間救急外来に連れて行かれるまで、エリスへの想いにどっぷりと浸っていた。


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