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追憶1


 林太郎は家のドアを開けると思い切り音を立てて閉めた。

 それから廊下にバックパックを乱暴に投げ入れて、玄関ドアに拳を叩き付けた。鉄製の頑丈なドアが傷付くことはないが、林太郎の拳が見るまに赤くなっていく。

 母の恵子がその様子を見たらどれほど驚くだろう。帰宅しても誰もいない家を寂しく思う時もあるが、今はそれが救いになっている。

 

 万年を滅茶苦茶に殴り付けるところだった。

 

 あの万年(バカ)にとってはいつもと同じ戯言のつもりだったろう。

 だから、林太郎の激高スイッチを押してしまったとも知らずに、万年はけけけと笑い続けていた。

 

 林太郎は我を忘れて拳を振り回した。健吉が後ろから林太郎の体を羽交い絞めにして止めに入らなければ、何故それほど林太郎が怒っているのか理解できないまま突っ立って首を傾げている万年(アホ)の顔を、二、三発は殴っていただろう。

 

 林太郎が他校生と暴力沙汰を起こしたとなったら、岨野山田高校は上を下への大騒ぎだ。それも相手は帝峰の学生で、元事務次官の孫ときている。停学は免れないばかりでなく、息子を殴られて怒り狂った上田の両親に治療費と慰謝料を請求されてしまう可能性があった。


「ああ、くっそ。ホント、バカなことしなくてよかったよ」

 

 リビングのソファに力なく腰を下ろすと、林太郎は自分の髪の毛をくしゃくしゃにしながら呻いた。


「もう少しで母さんに迷惑かけるところだった」


((確かに、お前らしくない行動であったな))


 おうがいの声が林太郎の頭の中で響いた。


「じいさん、いつから起きてたんだ。その感じだと学校にいる頃からだな」


 林太郎は忌々し気に鼻を鳴らした。


((お前の言う通りだ。英語の授業の頃には目が覚めていた。お前は居眠りしていたから気付かなかったろうが))


「ああ、あの時か」


 林太郎はぼんやりと考えた。

 教科書を読むエリスの声が子守歌になるとは思ってもみなかった。

 彼女の美しい声を聞きながら夢を見ていた。エリスとの出会いを再現する夢。


((それから、俺のことはおうがい君と呼べ。約束であろう))

 

 おうがいが諫めるように声を低くして林太郎に言った。


「そうだね。ごめん」


((ほう。随分と素直に謝るんだな。少し気味が悪いぞ))


「今は、あんたに何も言い返す気力がないんだよ」 

 林太郎は学生服のままソファにだらりと横になった。


「おうがい君、あんたが俺の頭の中で喋るようになってから、俺は調子が狂いっぱなしだ。いや、違うな。あんたのこともあるけど、こうなったのはエリスと出会ってからだ」


 林太郎は顔に両の掌を載せて吐息のような声を出した。


「エリス。彼女に会ってから、俺は、何も手に付かないし、考えられない」


 エリスと会ってまだ二日も経っていないのだが、熱烈な恋にうなされる林太郎には時間の感覚もなくなったらしい。


((スペイン風邪の如し恋なりき、か。罹患(りかん)すると一気に発症し重篤に至るまでの日時は恐ろしく短い))


 明治大正期の医学者、文学者であるおうがいの言葉は、林太郎には理解し難い比喩である。


「何だよ、スペイン風邪って。一世紀も前のインフルエンザを枕詞に使うな」


 クッションに顔を埋めて切ない吐息を繰り返す林太郎の中で、おうがいも思案に暮れていた。



((林太郎の言う通り、これは由々(ゆゆ)しき状態だ))


 自分が森鷗外の生まれ変わりだと林太郎が気づいた瞬間、明治期の人格が現代の林太郎の人格と分裂して、かなり複雑な状態になってしまった。

 

 いくらおうがいの生まれ変わりとはいえ、林太郎は魂も肉体もまだ十六、七の少年だ。

 おうがいの持つ六十年あまりの記憶が一気に林太郎になだれ込んでしまうと、若い彼の精神は崩壊してしまうかも知れない。

 ここは記憶を小出しにしていかねばならぬと、おうがいは考えた。それも慎重に。



((林太郎よ。お前は、そんなにエリスの事が気になるか))


「そりゃそうだろう?すっごく、好きになっちゃったんだから!」

 今にも泣き出しそうな顔をして林太郎はおうがいに叫んだ。


「健吉みたいにエリスと普通に喋りたいし、坂本のように隣からエリスの顔を眺めていたい。それなのに、まともな会話一つ出来ていないんだぜ。エリスが俺に言った言葉は、“後ろを向かれて迷惑だわ”と、“シー・ユー・トゥモロー、チェ…”うわああああ!」


 林太郎は、両手で己の頭髪を引っ掴んで天井を仰ぎ見ながら絶叫した。


((秘蔵□□□□□□□ファイルの部分が抜けているぞ))


「言うな―――!!」


 林太郎は、両手で己の頭髪を引っ掴んだままクッションに頭をぼふぼふと打ち付けながら絶叫した。


「信じられない。あんなエッチな伏字を堂々と声に出して言うなんて!俺の記憶の中のエリスはとても清楚で、貧困街で育ったとは思えないくらい上品な言葉遣いをしてたのにぃ」


 ソファの上で駄々っ子のように手足をばたつかせている林太郎に、おうがいは溜息を付いた。


 林太郎は、戦争や動乱のない平成生まれの若者だ。おうがいが林太郎と同年齢だった頃と比べると隔世の差がある。


 明治という近代国家の幕開けは、アメリカやヨーロッパの強国が植民地を求めてアジア・アフリカ進出を活発化させていた時代であった。

 列強に対抗すべく一にも二にも富国強兵といのが、明治政府が取った国策であった。その真っただ中で青春を過ごしたおうがいとは、記憶を共有するだけで、他は全くの別人といっても過言ではない。


((林太郎よ、現代に生まれ変わったエリスと、百年以上前のエリスを比べても(せん)無き事であると思わんか))


 余とお前もそうであるのだぞと、おうがいは心の内で呟いた。


 この呟きは林太郎には聞こえない。林太郎から派生し分裂したおうがいであったが、そこは年の功で、若い林太郎の精神に己の精神を干渉させない術を早くも会得していたのである。


「やだやだ、信じたくない!あの子は俺のエリスじゃな―――い!」


 理想と現実は乖離するものである。林太郎くらいの若い男子が、好意を寄せる女子にこうであって欲しいという願望を押し付けるのはよくあることだが、相手にとって甚だ迷惑である。


((よいか、林太郎。お前の前に現れたあの女子こそ、エリス・ワイゲルトの生まれ変わりだ。余が確信しているのだから間違いはない。それから、お前の女子に対する大時代的な固定観念は正さねばならんぞ))


 おうがいは幼子に諭す口調で林太郎に言った。


((例を上げて説明してやろう。ある時、外見だけで相手の性格や趣味などをよくリサーチせずに女をデートに誘った男がいた。

 会話がまあまあ弾んできたところで、「ディズニーランドとか(・・)好きでしょ?今度、連れて行ってあげる(・・・・・・・・・)から一緒に行こうよ」男がそう口にした途端に女は不愉快な表情になった。「私、ディズニーランドなんか(・・・)より、城跡とか神社仏閣に興味あるの。休日には名刹や古刹を一人で見に行ったりしているわ」と言われて驚いた。

(え、歴女?)と内心かなり困惑したのがもろに顔に出て、弾んだ会話は何処へやら、白けた雰囲気が二人を包んだ。

 彼女の話をきちんと聞いていたならば、趣味の話も会話に出ていた筈だ。だが、“若い女子ならディズニーランド”という安易な固定観念しか頭にないから“次のデートで急接近出来るかも”という下心も嗅ぎ取られ、悲しいかな、お付き合いの話はなくなってしまった。好みの子だったのになあと、反省しきりだが、もう後の祭りだ))


「それ、一体、誰の話だよ。俺に何の関係があるんだよ?」


((いや、だからね、固定観念を捨てよと、恥を忍んで過去の失敗談をだな))


「知らねーよ。大体、お前の話は長いんだよ。小説もそうだよな。前振りごちゃごちゃ書いてるし」


((……))


 林太郎は仰向けになって窓の外に目をやった。マンションや雑居ビルの上に広がる空が青い。


「空、綺麗だな。まるでエリスの瞳みたいだ」


 そう言うと林太郎は溜息を付いた。口を開けば最初に出るのは溜息ばかりだ。誰が見ても分かりやすい恋煩(わずら)いの典型的症状である。


((こりゃ、相当重傷だな))


 おうがいは林太郎の中で肩を竦めた。

 自分がエリスと出会ったのは二十五歳の頃である。林太郎は十七歳。八歳という精神的年齢差は大きい。


「俺さ、今日、エリスと初めて出会った時を思い出したんだ。エリスは泣いていた。力になってあげようと思って彼女の家に行った。古い建物の小さな借間の一番端がエリスの部屋だった。粗末なベッドと机があるだけの部屋だった。机には綺麗なテーブルクロスを掛かっていて、その上に本と小さなアルバムが並んでたっけ。花瓶に高価そうな花束が生けられてたのが印象的だったな。年頃の女の子だもの、貧しいなりに部屋を飾っていたんだ」


((そうであったな。そして、その部屋で、エリスが泣いていた理由を聞いたのだ))


 おうがいもその場面を頭に思い浮かべながら、エリスの思い出を語り始めた。


((明日には父親の葬式を出さなければならないが、全く金がない。彼女が働き出して二年になるヴィクトリア座のシャウムベルヒ座長に借金を頼みに行くと、体でも売って金を作れと、けんもほろろに追い返された。それで途方に暮れて、うら寂しい寺院の門で一人泣いていたのだ))



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