旋律は雨に滲んで
滑らかな音が広くはないバーの中を静かに広がる。通りに面した全面ガラスの窓は霧雨が当たり細かな雫が伝い落ちていた。
雑居ビルの二階にあるバー『Étude (エチュード)』では、シェイカー頭のマスターとスピーカー頭の店員が心地よい空間を提供していた。店内に一歩足を踏み入れると、店の奥にある小型のグランドピアノが客の目を引く。
窓ガラスの雨粒にあたる街の光が、流れる雫に沿って、流れては浮かぶ。日付が変わる頃合いになっても、街の光は絶えなかった。
まるで雨音のような穏やかなピアノ曲がゆったりとした時間を彩っていた。スピーカー頭のスピカは、BGM代わりにグランドピアノを演奏する。優しい音は心を落ち着かせるように馴染んでいた。
その途切れることのない音も、客からのリクエストがかかれば、スッと消えて、流行りのポップな曲調に変わる。弾むようなメロディーがバーの中に流れ出し、誰かの鼻歌が聞こえてきた。
テーブルの端を指で叩いてリズムを合わせていた客が、我慢できなくなったように、傍らに置いた楽器をケースの中から取り出す。照明の光を跳ね返すサックスの無機質な輝きをお供に立ち上がった男は、心地よい音をピアノの音に添わせた。
窓際に並べたインダストリアルなバーテーブルに肘をつき、洒落たカクテルグラスを傾けた青年が、ぐるりと長針を一回転させ、楽し気な様子でグラスをテーブルに置く。そのまま流れるように、傍らに置いたヴァイオリンケースから取り出した相方を肩に当て、弦に弓を滑らす。
軽快なリズムに合わせて、それぞれの楽器が歌い出せば、店の中は即席の三重奏が始まって、客たちは酒を片手に楽しんだ。
誰かが歌詞を口ずさみ、別の誰かがコーラスで参加する。小型のグランドピアノが高らかにメロディーを奏で、ヴァイオリンの弓が音を操り、サックスが吠える。最後の音が惜しむように伸び切ったところで、店中の人が拍手で演奏家たちを称えた。
「流石だね」
重厚な時計頭の青年がヴァイオリンを片手に立ち上がると、グランドピアノの前に座るスピカに声をかけた。
「まさか、ヴァイオリンで割り込んでくるとは思わなかった」
スピカは手慰みに軽い曲を奏でながら、青年に言葉を返す。
「流行曲をヴァイオリンでアレンジするのにハマっててね」
得意げにグルグルと長針を回しながら話す時計頭の青年。その言葉に「勉強熱心だなぁ」と零したのは、サックスを片手にグランドピアノに近付いてきたレコーダー頭の男だった。
「リサイタルの成功おめでとう」
「ありがとうございます」
近くにある市民ホールでリサイタルを終えたばかりの時計頭の青年は、長針をぐるりと回して声を弾ませる。
「不安だったので、無事終わってホッとしてるんですよね」
「不安そうに見えなかったけど?」
楽屋に花束を持って激励に行ったスピカは、謙遜するような時計頭の青年の言葉に肩をすくめる。
「僕にだって見栄はあるからね」
「ソロは初だったっけ?」
「はぃ!」
照れたように秒針がグルグルと廻り、時計の文字盤の数字が薄っすらと光を帯びる。一つ階段を昇ったような自信に満ちた幼馴染の姿が、スピカには少し眩しく見えた。
鍵盤から指を離す。微かな余韻が店内に流れるが、人の話し声に掻き消される。
時計頭の青年とレコーダー頭の男は、笑いながらしゃべっていたかと思うと、徐に楽器を構えだした。
「スピカ、入れよ」
レコーダー頭の男に促されるも、素直に二人の間に入って演奏する気が無くなり、スピカは軽く首を振った。
「二人で楽しんで……あたしは、ちょっと休憩」
ひらひらと手を振ってカウンターに向かう。
「付き合い悪いなぁ」
「まぁまぁ……じゃぁ、アレやるか」
「了解です」
二人は楽し気に曲を奏でだす。店内にサックスとヴァイオリンの二重奏が広がって、スピカの胸がギュッと締め付けられた。
幼馴染の時計頭の青年は海外で有名な賞を手にして、さっき地元の市民ホールでリサイタルを成功させた。
レコーダー頭の男はマスターの知り合いらしく、プロのサックス奏者だ。仲間に誘われて彼方此方のコンサートに引っ張りだこだという。
つまり、二人とも音楽を飯の種に出来ていて……音を合わせていた時は感じることのなかった何かが、演奏が終わったとたん目の前に飛び込んできて、いたたまれなかった。
(音は好き……)
でも、音楽は楽しめない。それが非常に苦しくて仕方がなかった。
バックヤードに入って、繊細なグラスを丁寧に洗う。冷たい水がシンクの中に跳ねて流れた。くすみのないグラスがシンク横のスペースに並んだ。
手の水気を拭って、店内を見回す。薄暗い店内にサックスとヴァイオリンの音色が響き、客の注文の声が密やかに零れ、注文を受けたマスターのシェイカーを振る軽やかな音が加わって消える。
「玲音、ソルベの盛り合わせを入口のお客様へ」
「了解」
マスターの声に、冷凍庫から柚子とレモンのソルベを入れた容器を出し、それぞれをアイスクリームディッシャーで掬う。ガラスの器に盛り付けて、ミントの葉を飾ってテーブルに持って行くと、顔なじみの常連さんがぺこりと頭を下げて受け取った。
空いたお皿を下げてバックヤードに戻れば、演奏が終わったのだろう……客たちが一斉に拍手をして、歓声が上がる。
同じ店内にいるのに、何故か非常に遠かった。
遠いと思ってしまう自分が妙に惨めで、そう感じてしまう自分に落ち込む。
マスターが作った料理を運んで、空いたグラスや皿を回収する。
(切り替えなきゃ……)
ふと、窓の外を見ると、窓ガラスが濡れていた。しとしとと降り続く雨は、止みそうにない。窓の外、通りを歩く人々は色とりどりの傘を広げて歩いてる。その傘の群れが、街のネオンの光と共に雨に滲んで、輪郭をボンヤリとさせていた。
スピカは窓から目を逸らすと、バックヤードに入って食器を洗い続けた。




