111話-4
Side 鳳蝶
不快な音が耳に届いた。それが私自身の手に持っていた紙をぐしゃぐしゃに握った音だと、取り繕うとした頭の片隅で気づけてしまう。冷静ではないのに、住道として落ち着いて対処しなければと必死になって考えようとしてしまう。
声を押さえつけてあくまで平然とした態度で見えるように体にぐっと力が入った。自然と目に力が入る。
「私を脅す、おつもりですの?」
私の言葉に目の前の女は、目を閉じて少し考えるように首をかしげた。気に食わないのが首をもたげてしまうのを押さえこむ。開かれた井場さんの瞳がこちらを覗き込むように見つめてくるのが不快だった。
「私ははしたない住道さんを指摘しただけで、何も要求していませんよ」
「要求しないのに見せたんですの?」
「損得じゃなく私は倫理観で指摘して」
嘘つき。
ふっと恐れで冷え切っていた頭の中にそんな言葉が私の声で響いた。冷え切っていた頭がふつふつと熱が巡り、思考が冷静になっていく。
「倫理観でご指摘になるのなら、どうして尚順さんがいらっしゃるところで指摘しなかったんでしょうか。そんなに尚順さんに見られたくなかったですの?」
「……私は住道さんが一般常識で考えて恋人のいる人に付きまとわなければいいと思って指摘しただけですけど」
「だったら、どうして井場さんはお昼に割り込んできたのでしょうか」
いまさらと小さく彼女が呟いた。そう、今更だ。昼の休み時間にお弁当を一緒に囲むのに、井場さんが入ってきたのは嫌だった。尚順さんが受け入れたから愛想笑いで受け入れただけであって、個人的に受け入れる気はなかった。
「仲良くしてもらえないんでしょうか?」
「人の男に色目を使って近づいてくる人に仲良く」
「ですから、住道さん、折川君には恋人がいますよね」
また遮られた。そしてスマホの画面を見せてくる。けれど、もう思考がしっかりしてきた私は笑顔で切り返すことが出来た。どっちにしろお互いに詰んでいるのだから、問題はない。そして、その詰んだ状況は私が周りからどう言われる事になろうと、私以外と彼の関係性を破壊する力しかないからだ。
私と彼の関係は変わらない。
そんなものは春にとっくに壊れて、だけど今確かに維持されている。
「でしたら、あなたがそれを恋人の方に見せれば良いのでは? 写真部に兼部している井場せんりさん」
「は?」
呆然とし漏れ出した小さな息で発せられた、そんな声だった。彼女は私を驚いた顔で見ていた。笑顔の私を。私の笑みが深くなっていくのがわかる。
彼女は理解出来ているのだろうか。私と彼との関係よりも先に、彼と恋人との関係で揉めてあなたが居座る立場が揺らぐことに。
「ですから、どうぞと言っていますの。どうぞ写真部の部長で、尚順さんの恋人である丸宮華実さんにその写真を見せて、恋人が浮気していますよと、あなたの恋人が不貞を働いていますよと、告げ口なされればどうですかと私は井場さんにお伝えしていますの」
「バラされても構わないんですか」
震える井場さんの声が、私の心へ余裕を与えて軽くする。彼女はわかっているのだろうか。
「ええ、私は尚順さんと同じクラスメイトで、クラスの委員長で、お友達でもありますから今と変わりませんわね」
「ですから、バラされたら」
「尚順さんは優しいですの」
「は?」
またよくわからないと、呆然とし漏れ出したわずかな息で発せられた、小さな声を出して彼女は私を見ている。分からないのだろうか。
「覚えておられますの?」
「何を?」
「春、懐かしいですわね。まだ半年も経っていませんのに」
「春?」
「あら、あまりクラスのことにまだ興味がございませんでしたか?」
「ですから、何を」
「私、教室で尚順さんにキスしましたの」
「は?」
本当に覚えていないらしい。話題になったと思ったけれど、想像よりも小さく話が終わったのか。そも偶然この教室には同じ中学の方がほぼ居なかったことと、家に関係する子が居なかった影響かもしれない。
「ゴールデンウィーク休みが明けた日に、私は尚順さんに教室で告白してフラレて――」
井場さんの困惑した表情が区切った私の言葉を待っている。
「その場でキスをして、改めてフラレた私は、彼を私の家に連れて行ってエッチしましたの。初めてでしたの」
「は?」
本当に意味がわからないと言った具合で彼女が私を見ているが、私は笑顔で彼女に優しく答えてあげられる。
「ですから、尚順さんは優しいですから、恋人の方とどのようなことがあっても、きっと私とこれまで通り会って、キスをしてエッチして、それでこれからあなたが恋人と彼との仲をわざわざ引き裂いて、自由になれば、私と恋人になってくださるはずですの」
「折川君がそんな考えの人と恋人になるわけがない!」
「横恋慕するだけのあなたが尚順さんの何がわかりますの? 私は彼とキスをしてエッチをして、彼と時間をともにして理解していますの。だから、私はあなたよりも先にあなたよりも近く彼のそばに居て、彼のことを理解していますの」
高揚した気持ちで思い切りよく言い切る。もう印象がダブることがない井場さんが唖然とした表情で私の言葉を聞くだけだった。
熱を逃がすように私の手が髪を掻き上げる。暗くも澄み切ったようなすっきりした気持ちになってみれば、井場さんがこれから何をしても構わないのだと言ったことで私自身も理解が深まった。
もう真面目に向き合って話し合うこともない。足取りが軽く、窓へ近づいて教室の窓を勝手に開け放す。
吹き込んでくる風は九月の今日でも昨日とは異なり秋めいた香りを吹き込ませてきた気がした。
彼がよく撫でてくれる私の髪がさらさらと風に流れる。夏のあの日、肌と肌で感じた彼の手が恋しくなった。
座り込んだままあの女とは異なりうつむく長い黒髪の彼女に私は明るい声を差し向けた。
「では、井場さん、どうしますの?
どうぞお好きになされれば良いのではないでしょうか。
住道鳳蝶は――。
私はあなたの行動を止めませんの」




