~禿山~ 3
賀茂祭が終わる、中の酉の日が過ぎる頃、国府軍---いや結局、勅が下りなかったので---登任軍が国府を発したとの報が届いた。
鎮守府から衣川の館に移っていた頼良らは、登任軍と繁成軍の動きを見極めようとしていた。
登任軍の動きは早くはなかった。
勿来を越えても素直に北上せず、一旦東行して桃生柵へ立ち寄り、兵を合わせた。
その数合わせて、四千五百。
そしてそのまま日高見川を登るかに見えたが、河崎柵の為行が、臨戦態勢で水上を封鎖にかかっているとの報に接するや、慌てて西に進路を変えた。
登任軍がもたつく間に、五月になった。
未だ旗幟が鮮明でない清原氏を警戒して、繁成軍は一部を雄勝城に残し、その勢力圏を避けるように南下した。
総兵数は五千を越えた。
出羽から陸奥へ至る峠道はいくつかあるが、繁成軍は御物川(雄物川)沿に遡るように南下して、院内に達すると、そこから南東へ転じ、役内川沿いに登り、左手に平戈山(神室嶽)を見ながら有屋峠(役内峠)を越えた。
奇しくもこの行程は、これより約五百五十年の時を経て、常陸の佐竹義宣が秋田転封の折りに辿った道筋を、逆に進んだものであった。
山は険しく、谷筋の日陰には未だ雪が残り、行軍を妨げた。
表面が凍ってすべりやすい残雪に手間取る繁成軍を、遠くの峰上から見つめる騎馬の兵がいることは、気づかれていないようであった。
さらに繁成は、五千の兵の内二千を分けて、院内への途上で岩崎川(皆瀬川)方向へ進ませた。
その一軍は、稲庭を経て川連を経由すると、こちらも険しい山道へと分け入った。
そして、轟音を立てて湯が噴水のように吹き出す、まるで地獄のような様子の、のちに子安峡温泉と呼ばれる奇岩地帯をぬけて、荒雄岳を目指した。
こちらは本隊の登る役内川経由の峠道よりも険しく、さらに行軍は遅々として進まなかった。
---やはり、つかず離れず遠くの峰上から行軍を監視する騎馬の兵がいる。
一方の登任軍は、日高見川を離れて迫川沿いに北西方向に進み、栗原郡の此治城(伊治城)に入ると総数六千の大軍となった。
登任は此治城に北への備えとして一千を残すと、迫川の支流三迫川沿いに西進した。
そして営岡(屯岡)において、五千の大軍を岡と川に挟まれた平らな河原に滞陣させた。
少し前---登任軍が国府を発した頃、払暁の衣川の館から七つの騎影が南へ向かって発した。
山々の間を疾風のように駆け抜ける七騎は、屯岡八幡宮に立ち寄ると、ニ方向に分かれた。
先頭の二騎---頼良と貞任は、荒雄岳山中の水神峠に鎮座する荒雄河神を目指した。
もう五騎---宗任を筆頭に正任、則任、それに続く経清、永衡の二人は、池月に鎮座する荒雄川神の里宮(里の宮)を目指す。
玉造郡に鎮座する延喜式内社三座のうちの一つである荒雄川神は、元は荒雄岳の水神峠付近にあり、荒雄川(江合川)別名玉造川の水源を守り大物忌神を奉斎したという。
のちに現在の地、荒雄川河畔に遷座され、奥宮(嶽宮)と呼ばれた。
池月の里宮は、縄文の昔より人々の痕跡が残されている聖地であった。
大物忌神は出羽の霊峰鳥海山に宿るとされる神であるが、穢れを清める祓戸大神の一柱である瀬織津姫も、この社には祀られているともいう。
瀬織津姫もまた、水にまつわる神である。
---恐らくは、荒雄川神とは瀬織津姫そのものであったのであろう・・・。
ニつの社の前には、この地を守る一族---照井氏の主だった者たちが頼良らを待っていた。
七人は彼らとともに、陽が鳥海山の向こうへ沈む頃、時を合わせて荒雄川神が居ますニ社に詣でた。
---それは、これから始まる戦いの場となるであろうこの地を鎮めるが如く・・・。




