第1話『深夜二時のワンオペと、冷たい床』
深夜二時三分。自動ドアが開く無機質な電子音が、シーーーンと静まり返った店内に響き渡る。
「いらっしゃいませー」
バックヤードで廃棄弁当の仕分けをしていた宮内啓太は、条件反射で声を張った。防犯モニターに視線を向けると、入ってきたのは近所の常連であるトラックドライバーの男性だった。男性は慣れた足取りで缶コーヒーの棚へ向かい、レジへと歩いてくる。
バーコードを読み取り、電子マネーの決済を済ませる。
「ありがとうございましたー。お気をつけて」
一礼して見送ると、店内には再び蛍光灯の微かなジーというノイズだけが残された。
啓太は今年で二十六歳になる。郊外にあるこのコンビニの店長になって、ちょうど一年が経とうとしていた。
大学を卒業して入社し、現場での要領の良さを買われて若くして店長に抜擢されたまでは良かったが、待っていたのは過酷な現実だった。バイトの急な欠勤埋め、深夜のワンオペ、本部の無理難題、理不尽なクレーム処理。
(……はぁ、今日もシフト穴あいたな。また二十四時間ぶっ続け勤務か)
啓太は首を回してコリコリと音を鳴らした。手元のリストを見る。明日の朝一番で届くチルド商品の納入準備、フライヤーの清掃、雑誌の返本作業。やるべきタスクは山積みだ。
それでも、啓太はこの仕事が嫌いではなかった。自分が売り場を整え、発注を工夫した商品が飛ぶように売れていく快感。困っている客に最適な商品を提案して感謝される喜び。サービス業の面白さを、確かに感じていたのだ。
「よし、サクッとフライヤー洗っちゃうか」
啓太が掃除道具を手にとった、その時だった。
ピロリ〜ン、という呑気な入店音とともに、急激な冷気が店内に流れ込んできた。
入ってきた人物を一目見た瞬間、啓太の背筋に冷たいものが走る。
黒いフードを深々とかぶり、目元以外を黒いマスクで覆った男。真夏だというのに厚手のジャンパーを着込んでいる。そして何より、男の手ポケットの中で、明らかに不自然な突起が握られていた。
(……マジかよ)
啓太は努めて冷静に、ゆっくりとレジカウンターの中へと戻った。心臓がドクドクと警鐘を鳴らす。
「いらっしゃい、ませ……」
「おい」
男が低いダミ声で言った。ポケットから突き出されたのは、銀色に光る包丁だった。刃渡り二十センチほどの、研ぎ澄まされた刃。
「金だ。レジの金、全部出せ。早くしろ!」
刃先が啓太の目と鼻の先に突きつけられる。
啓太の頭の中で、マニュアルの文字が高速で駆け巡った。『強盗に遭遇した場合は抵抗せず、犯人の要求に従うこと。命を最優先に行動すること』。
「わ、分かりました。落ち着いてください。今あけます」
啓太は両手を上げ、ゆっくりとレジの開閉ボタンを押した。ガチャン、と音を立ててドロアーが開き、一万円札と五千円札が目に入る。
「これです。全部持っていってください。だから、落ち着いて……」
啓太は一切の抵抗を示さず、金を男の方へ差し出そうとした。犯人を刺激せず、言われた通りにして早く去ってもらう。それが正解のはずだった。
――しかし、トラブルは常に予期せぬ形で起きる。
焦った男が、金を奪おうと身を乗り出した瞬間だった。男の肘が、カウンター端に置かれていたアクリル製のPOPに強く当たった。
パシィン!
甲高い音が店内に響き渡る。
その小さな音に過剰反応した男は、「ヒッ!」と悲鳴を上げ、パニックに陥った。パニックになった人間が何をするか、啓太にも予測ができなかった。
「う、うわあぁぁぁッ!?」
男が半狂乱になって振り回した腕。その先端にある刃物が、吸い込まれるように啓太の腹部に突き刺さった。
ズリッ、という嫌な感触。
「……あ?」
激痛は、すぐには来なかった。ただ、熱い液体が腹からドクドクと溢れ出し、ズボンを濡らしていく。
男は自分が刺したことに驚愕し、金を奪うことも忘れて、そのまま店の外へ逃げ出していった。自動ドアが無情にも「ありがとうございましたー」と呑気な音を立てて閉まる。
ドサリ、と啓太はレジの中に崩れ落ちた。
「がハッ……、は……っ」
腹を押さえるが、指の隙間から溢れる血が止まらない。視界が急速にチカチカと点滅を始める。床の白いタイルの上で、自分の血が真っ赤な水たまりを作っていく。
(痛い……なんだこれ、めちゃくちゃ熱い……)
レジの下にある防犯通報ボタンを押そうと手を伸ばすが、指一本動かす筋力すら奪われていく。体が氷のように冷たくなっていくのが分かった。
(ウソだろ……俺、死ぬのか? こんなところで……?)
二十六歳。これからもっとやりたいことがあった。美味しいものを食べて、もっとお店を繁盛させて、いい恋愛だってしたかった。
だが、霞んでいく意識の中で、啓太の頭を占めたのは、あまりにも職業病すぎる後悔だった。
(あーあ……明日のシフト、穴あいちゃったな……。朝勤の鈴木さん、驚くだろうな……)
(納品処理、まだ途中なのに……。レジの精算、合わなくなったらどうしよう……)
(防犯カメラ……もっと増設しておけばよかった……。ワンオペなんて、させるんじゃなかった……)
理不尽な死への恐怖と怒り。そして、残された店への未練。
色々な思いがぐるぐると混ざり合い、やがて思考は真っ白な暗闇へと呑み込まれていく。
郊外のコンビニ。蛍光灯のジーという音と、レジの電子音だけが残された空間で。
宮内啓太の二拾六年の人生は、静かに幕を閉じた。




