第95話 幻想のみぎわ
体に残ったかすかな感覚が、水の中だと教えてくれた。
目は見えなかったし息苦しさもなかったけど。
俺はまだかろうじて生きていた。
とっさに剣を構えたからだろうか。
さすがは王家伝来の宝剣、モノが違う。
竜の炎にも耐えて俺を守ってくれた。
皮肉。
王女にもらった剣で命をつないで、けれどその王女の意思に俺は負けたんだ。
全部彼女の意図した通り、なんだろうか。
……。
どのみち長くは持たない。
体はぴくりとも動かないし息もできない。
それでもまだ頭が回っているのは。
《起きて!》
小さな精霊のおかげ。
俺に必死に力と、声を送ってくれている。
《カイル、起きてよ!》
けれど竜の力を、俺の体はもう受け止められない。
ぺらぺらの布切れに水を浸すみたいに、力が体を通りぬけてしまう。
もう、終わりなんだ。
──イア。
唇は動かないけど、頭の中でイアに語りかける。
──他の契約者を探すんだ。
俺なんかよりもずっと強い、優れた契約相手がきっといるはずだから。
──俺が死ねば、“誓い”からも解放される。
人と精霊の魂を結ぶ強固な契約。
破られれば双方に不幸がふりかかるというけれど。
契約者がいなくなってしまえば運命だって行き場を失う。
《やだよ、そんなこと言わないで!》
不思議な感覚だ。
頭の中でイアが体を揺さぶっている。
ベッドで気持ちよく寝てる俺を、早く起きろって急かすみたいに。
いつもだったら文句を言いながらも、仕方がないなって体を起こすのに。
──頼む……俺は、もう……。
《いやだ!》
イアが叫ぶと、温かいものが体に落ちた。
本当に不思議だ。
涙は心の中でさえあったかくて。
しんみりとじんわりと、朽ちていく体に安らぎをくれる。
《イアは、カイルじゃないといやだ!》
ずっと一緒にいるの、とイアはだだをこねる。
まったく、子供みたいに聞きわけがないけど。
……ああ。
そんな彼女ががたまらなく愛おしい。
ぼやけた意識の中を、イアと一緒にたどった旅の記憶が駆けぬける。
考えてみれば、この短い間にものすごい“物語”を俺たちはめぐってきた。
ふつうなら生涯遭遇することもない怪物をたくさん相手にして。
おとぎ話の中でしか語られていない太古の“神”と戦った。
素晴らしい仲間と出会って冒険して。
新たな大陸の王の従者として、戴冠の手助けまでしてしまった。
一体何周分の人生だろう。
あんまりに濃すぎて思い返しても信じられない。
悔いがないとは言わない。
でも、これ以上なんて望めはしない。
それもみんなイアのおかげなんだ。
──ありがとう、イア。
本当に、本当に。
そして。
──ごめんな。
約束を守れなくて。
“安らぎの地”──この世のどこかにあるはずの楽園。
必ず見つけ出して連れていくって、約束したのに。
……誰か、頼む。
イアを。
竜たちをどうか、楽園に──
《カイル!》
イアの呼びかけはすでに遠い。
死神に触れられてほんの一瞬垣間見た異界──“死後の世界”へと、魂がいよいよ導かれる。
夢見心地。
剣を手にして、魔物とはじめて戦ったときから“死”はつねに意識してきたけど。
案外、気持ちいいものかもしれない。
疲れ切った体と心が、この世の全てのくびきから解放されて。
もはや目覚めることのない、永遠の眠りへとみちびかれていく。
……“楽園”へと。
……。
□ □ □
どれだけ呼びかけてももうカイルはこたえてくれない。
“中”にいるとその人のことはずっとよくわかるけど……わかりたくなんかなかった。
カイルが、しんじゃうなんて。
いくら力をおくってもカイルにはとどかないし、もしかしたらからだがこわれちゃうかもしれない。
もうなにもできない。
イアには、なにも。
《やだよ……》
はじめて契約したひと。
イアにもよくわからないぼんやりした使命をうけいれて、ここまでずっといっしょに歩いてきてくれたひと。
つよくてやさしくて、どんな敵にだってたちむかうゆうきのあるひと。
イアのおかげだって、カイルはいつもいってくれたけど。
そうじゃないんだよ。
カイルじゃなかったら、イアはなんにもできなかった。
カイルだから、イアの力をちゃんと使えた。
イアにはわかるんだよ。
カイルはしってたから。
いろんなことが、最初からわかってたから。
カイルにはあったんだ。
せんすとかさいのうとかじゃなくて。
もっとだいじななにかが。
それがイアをたすけてくれた。
それがなかったら、イアたちはここまでこられなかった。
……。
イアはね、おもうんだ。
“運命”なんて、むずしくてよくわかんないけど。
それでもおもうんだ。
つよく、とってもつよくおもうんだ。
イアは、カイルとであうために生まれてきたんだって。
──
?
なんだろう、これ。
なにかが、カイルの中からあふれだそうとしてる。
あつくてどろどろして。
とってもわるいもの。
イアはしってる。
これは黒い炎。
カイルのなかにずっとあった呪いが、体からでようとしてる。
ものうすごくうれしそうにさけんでる。
おどりでもおどってるみたいに、黒い体をゆさゆさうごかしてる。
まるでずっと、このときをまっていたみたいに。
カイルの中に入ってからずっと、イアはこの黒いものをとじこめてきた。
それはカイルがたたかうたびに、つよくなるたびに、どんどん大きくなっていったけど。
イアは竜だから。
最強の竜だから。
それでもおさえこむことができた。
どうどうって、おうまさんに言いきかせるみたいに。
でもカイルがしんで契約がなくなっちゃったら。
イアにはもうなにもできなくなっちゃう。
まんまるにふとった黒いものが、ときはなたれちゃう。
……。
──焼き尽くせ。
だれかがカイルの中に、これをいれた。
カイルにはこれを育てられるって、しってて。
──この世に“災厄”をもたらせ。
黒いものはカイルの中ですくすくそだっていった。
そしてじゅうぶんに大きくなって、カイルがしぬのをまってたんだ。
イアの力がおよばなくなる、そのしゅんかんを。
……。
どうしよう。
イアにはなにもできない。
《おきてよ、カイル……!》
竜なのに。
世界でいちばん強いのに。
カイルがいなかったら、イアはなんにもできない。
《お願いだから、もどってきて……!》
動かない体をゆする。
わかっているけど。
もう、目をさまさないって。
──
────
──────
《何を言うておるか》
海のそこから声がきこえる。
《それだけの力があって、できぬことなどあるものか》
きびしくてこわくて、でもちょっとさびしそうな、おとなの声。
《でもイアは、なんにも──》
《竜とは“完全なる存在”》
黒いからすの精霊は、ぴしゃりといった。
《“全”にして“一”、“一”にして“全”──神々さえ焦がれた、願いの結晶》
からすの精霊はカイルの体にてをのばす。
そしてあかちゃんにするみたいに、胸の中にだきしめた。
《惑うでないぞ、小さきもの》
その声をきいているとこころがとってもおちついて。
だんだん、ねむたくなってくる。
《お主は竜》
カイルのからだがきゅうってしぼんでちいさくなって。
中のイアも、おんなじようにちいさくなっていく。
《この世の果てに生まれた、究極の幻想ぞ》
カイルの体がからすのお腹にはいってしまう。
そこは暗くてなんにも見えないけど。
あったかくて、なんだかとても安心する。
イアは覚えてる。
このかんじ。
これはイアが……はじめて……目をさましたときの……。
……。