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第80話 聖なる森

 細い川を渡ると空気がくしゅりと歪んだ。

 足元に跳ねる水が妙に高く響くと、意識がふっと遠くなって。

 気がつくと俺は、“聖域(サンクチュアリ)”に足を踏み入れていた。




 空の向こうでは雷が控えめに鳴り続けて、歩き始めてしばらくすると雨が降り出した。

 はじめはぽつぽつと弱く雨粒も小さかったけれど。

 森に入るころには段々と強くなり、水滴が枝葉に跳ねて肩を濡らした。


 儀式の一行は草生い茂る道を黙々と歩んだ。

 整備された道は長く続かず、足もとに気をつけないと樹の根につまづいて、蔦に足を絡まれそうになる。

 雨のせいで辺りはひんやりと寒いくらいだった。


 神官たちを先頭に松明を掲げた王族が続き、周りを護衛が囲んでいる。

 王族一人につき三、四人がついているからそれなりの所帯で、足音が騒がしかった。


 辺りは外界から切り離されているみたいに静かで。

 一歩足を踏み出すごとに空気が澄んで、肌に触れる冷気が強くなっていく。

 まるで知らない世界に、何も分からず放り出された気分だった。




 違和感をはっきり自覚したころに川が現われた。

 周囲に気を配っていたつもりだったけど、空気の歪みと雨音のせいで水の流れに気がつかなかった。


 底がはっきり見えるくらいの浅瀬で、水は美しく透き通っていた。

 王族たちは濡れるのも構わずに足を踏み入れて、じゃぷじゃぷと流れを乱して向こうに渡っていく。

 

「水に足をつけてください」

 アイリーン王女が振り返った。


「儀式の一環です」

 そしてためらわず浅瀬に足を入れる。


 王女にならって水に入ると言葉の意味が分かった。

 冷たい水の流れる足下で、世界の位相が丸ごとずれていくみたいで。


 空間が、意識が、ぐねりと歪んで方向感覚がなくなる。

 見えない何ものかに、体中を引っ張り回されているみたいに。


「……カイル」

 ディーネがぎゅっと俺の腕をとる。

 杖を持つ手が小さく震えていた。


「大丈夫だよ。一緒に行こう」

 体を寄せて促すと、彼女はおそるおそる浅瀬に足を降ろした。


 その時にふっと気がついた。

 雨も雷もどこかに行ってしまって。

 帳を降ろされたような静寂が辺りを支配していた。


 まるで全くの別世界に入ってしまったみたいに。

 ……。


 川を越えると森はいよいよ深くなった。

 光も届かなくなり、松明の火を頼りに進んでいく。


 深閑な沈黙に包まれていると目の前がぼんやりして、自分と周囲との境目がだんだん分からなくなって。

 ときおり響く鳥の声にはっと我に返る。

 その繰り返しだった。


「ロンゴードの山を思い出すな」

 ファーガスの言葉に、眷属(トゥハナ)の目覚めを目の当たりにした“神域”が浮かんだ。

 あのとき坂を上がっていく中で、だんだん異界へと踏みこんでいく感覚を覚えたけど。


 今回俺たちを迎えたのは異形の巫女ではなく巨大な樹木で、その前には大きな鍋が置かれていた。




□□□




「森に入ってからエリィがずっと黙ってるの。怖がってるのかな」

 自身の分け身を労わるようにディーネは胸に手を当てた。


「うん……」

 イアも同じで、ずっと俺の中に入ったままだった。

 

 いつもなら好奇心旺盛に人一倍はしゃいで、ちょっとでも目を離したらあっちゃこっちゃ行ってしまうのに。

 最初の“神火の儀”からずっと、竜精(ドランシー)は息を潜めていた。

 

 目の前では神官たちが食(・)事(・)の用意をしている。

 背負っていた荷物から薪を取り出して鍋の下に敷き、石を並べて簡易な炉を造って。

 ここで休憩するのだろうか。


 一団を賄えそうなくらいに大きい鍋は底も深く、傷は見えるものの光沢が眩しくて、どうやら金でできているようだった。

 そんなもの森に放置して大丈夫だろうかと思うけど、そもそもここは人が踏み入ることのない聖地。

 この鍋はずっと受け継がれてきた聖具なのだろうか。

 

「皆々様、“神火”を」

 炉が整うと、神官たちは松明の火を薪に注ぐよう王族に指示した。


 鍋の周りに集まって、王族たちは言われた通りに松明を突き出して。

 松明の重さにふらつきながらも、アイリーン王女もその輪に入った。


 火が十分燃えあがると神官は鍋の中に水を注いで(実にいろいろな道具を持ってきたようだ)、小さく丸いものをぼつぼつとその上に落とす。

 そして護衛には休むよう言って、自らは王族とともに鍋を囲んで祈り始めた。




 俺たちは少し離れて、王女の背中が見える樹木のそばに腰を下ろした。

 なにかあれば一息で飛びこめるよう気を張ったままではあるけど、ようやく一息つける。

 聖域に入ってからずっと、妙な緊張感が拭えなかった。


「あれ、何なんだろう」

 火をあてられた鍋は湯気を立て始めていた。


 周囲にはとろんと重く同時に甘い香りが漂って。

 吸い込むと頭が重くなって、催眠でもかけられているみたいだ。


 鍋を囲む王族の背後に、それぞれの松明が地面に突きたてられていた。

 彼らはときどき立ち上がっては鍋の中に小さな塊を投げ入れる。

 それから順にぶつぶつと祈りの文句を唱えたりして、全部しきたりなのだろうか。

 

「ヤドリギにハシバミ……ナナカマドかな」

 ディーネは鍋の中や、周囲の木々を観察しては首を傾げている。


「どれも古い聖木よね。魔除けとかお祓いなんかに使うような」

 そして向こうに聳える大木を見上げた。


 今まで見たことがないくらいに太く高く、そして厳かな大樹だった。

 うねるような幹の隆起は長い年月の変遷を想像させて、太古の記憶が呼び起こされるようだ。


 “大樹の精霊”。

 複雑な皮襞を見つめていると、なんだかそんなことを思う。


「ここはきっと“聖なる森(ネメト)”なのね」

 ディーネは魔法使いとしての好奇心が溢れてきたみたいだった。

「かつてここに何かがあって、後に残された者がそれぞれに意味をつけ足して……」


 そこは“聖所”となる。

 長い年月の中で何ものかにとって、誰もにとって大切な場所になっていく。


 “場”に積み重ねられた意味は、やがて現実にも影響を及ぼしていって。

 国を統べる王さえも、この場が司るようになった。


 それは“力”。

 個人の、そして世界の行く末を左右するほどの支配。

 ……。

 

 俺には儀式のことも聖所の成り立ちも分からないけれど。

 鍋の前で祈る王女もまた、その力を求めているのだろうか。

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