第79話 忠実な僕
明け方から雲が空一面に広がって、出発の時間が来ても晴れる気配はなかった。
辺りはどんよりと薄暗く肌寒いくらいで、吸い込む空気は重く湿っていた。
「お待たせしました」
宿泊所の戸が開いてアイリーン王女が姿を見せると、俺は振り返って言葉を失った。
「わぁ~」
「とっても、きれい」
イアとエリィは王女の晴れ姿に見惚れていたし、ディーネもため息をもらす。
王女は雪を被ったみたいに真っ白な儀式装束に身をつつんでいた。
薄布を何枚も重ねた衣裳の丁寧な裁縫には、長い裾の先端にまで細やかな配慮が感じられて。
この日のために縫われた神衣は、これから国の頂点に立とうとする王女をいっそう美しく、眩しく見せていた。
「少し気恥ずかしいですね」
皆の注目を浴びて、王女はほのかに頬を染める。
薄化粧を施された表情はいつもよりずっと柔らかく、それでいて触れがたく神々しい。
花飾りの縫いこまれたヴェールは、まるで輿入れする花嫁のようだ。
「とてもよくお似合いです」
ファーガスが言うと王女はもじもじとうつむいて、けれどヴェールの下では嬉しそうに微笑んで。
ファーガスを前にしている時は、別人みたいに乙女なのだ。
やがて気が抜けそうになる低い笛の音が聞こえてきた。
それが合図。
“目覚めの夏”の最高潮を告げる儀式の刻──次代の王を喚ぶ“選定の儀”の幕開け。
「皆さまどうか」
出発しようとする俺たちに、マーヤが深く頭を下げた。
ただ一人同行を許された使用人は、服の前掛けをぎゅっと握って拳と声を震わせる。
「儀式の終わりまで、王女殿下をお守りくださいますよう」
そばに王女がいないときマーヤがふと零したことがある。
彼女が願うのはただ、主の平穏と無事だけなのだと。
王位とも祝祭とも関わりなく、静かに日々を過ごして欲しいのだと。
「マーヤ」
アイリーン王女は忠実な僕へと声をかけて。
「今日まで、本当にありがとう」
献身を労り、マーヤにそっと身を寄せた。
王女の橙の瞳が優しく瞬くと、マーヤはひっくと嗚咽を必死でこらえる。
「どうかつつがなく、本懐を遂げられますよう」
そう、絞り出すような声で主の無事を祈る
「ええ、必ず」
ほんの短い時間、固い絆で結ばれた主従が抱き合う。
祭服が汚れるからとすぐに体を離すマーヤの頬に、涙が一筋伝った。
「行ってらっしゃいませ」
顔を上げたとき、そこにはいつもの彼女が戻っていて。
再び深々と頭を下げて主を送り出す。
まるで今生の別れみたいに、マーヤはいつまでも王女の背中を見つめていた。
□□□
円形の広場は周りに巨大な石がいくつも立って、ぴりりと緊張した空気に足を踏み入れるのをためらう。
先に集まっていた王族たちはみな白装束姿で、まるで冥府へと赴く死者みたいで。
船に同乗した王族や護衛たちも揃い、小太りの男とスクゥアたちの姿も見えた。
アイリーン王女は小さく礼をして集団の一番端に慎ましく位置取る。
全員の眼が、一斉に彼女へと引き寄せられた。
王女の存在感はやはり抜きんでていた。
誰もがこの爪はじきの王族を見て目を丸くして。
彼女の美しさと、醸しだす幽玄な雰囲気に目を奪われていた。
この場の全員が思っているのだろう。
彼女は異なるのだと。
善きにしろ、悪しきにしろ。
「お集まりの皆様方──」
神官長は冗談みたいな長さの帽子を被って、震え声で儀式の始まりを告げた。
補佐の神官たちがそれぞれに長い松明を持ち、中央の祭壇を取り囲んでいる。
祭壇には薪がくべられ、焔がもうもう焚きあがっていた。
それは“神火”。
一年で最も力を高める太陽の恵みを、わずかでも地上に降ろそうとする祈り。
人が神への忠誠と感謝を示し、そして神託を仰ぐための聖言。
曇り空の下で火柱は高く、赤に橙に輝いていた。
この場で焚かれた炎はそれ自体特別なものではないはずだけど。
どうしてか目を離せなかった。
その赤い柱が、まるでこの世界とは全く異なるものであるような気がして。
それが何だか分からないうちに、一人の男が祭壇に進み出る。
ひときわ瀟洒な聖衣をまとう、若い青年だった。
「……“国王陛下”?」
ディーネがぼそりとつぶやく。
アイリーン王女姉妹にとっては義弟にあたる、先王妃エヴィレアの一人息子。
今の大陸の頂点に立つ男。
肩書きのわりにその姿はひどく頼りなくて。
細い身体には、ファーガスによく似ているという屈強な父の面影など全くうかがえない。
母に溺愛された息子は今まで何ひとつ不自由なく、安穏と生きてきたようだ。
国王としては体のいい操り人形であって、実権はエヴィレアと息のかかった貴族たちに握られている。
彼の意思が入りこむ隙間はそこになく、彼自身その立場に甘んじて。
もっとも、どうにかしようともあの母親にあらがえるとは思えない。
自身の分を悟って、母の忠実な僕として仕え生きる道を選んだのだろうか。
……。
エヴィレアの姿はなかった。
国王の後見人である彼女は儀式に参加せず、護衛でもない。
高台の宿泊所で息子の帰りと、明らかな儀式の結果を待っているのだろうか。
国王は神官から松明を受け取り、炎の中へと挿しいれた。
口の中でぶつぶつと祈りの文句を繰り返して神火を受け取る。
それが儀式へと参加する証なのだ。
それから一人一人が同じように松明と火を受け取った。
神官たちは低い声で聖歌を奏で、王族たちに神の寿ぎを与える。
アイリーン王女は最後に聖火の前に立った。
ぱちりと散る火花にも動じず、堂々と厳かに松明に火を灯す。
その姿はとても神聖なものに映った。
全員に炎が行き渡ると、神官たちが一人一人に祝福を与えた。
王族の前に立って言葉をかけながら、額に指でしるしを刻む。
古い言葉のようで俺には全く理解できなかったけど。
「いざ祠へ。浄めた体を神の褥に横たえ、声を待たん」
大体そんな意味だと、ディーネが教えてくれた。
隊列を組んで緩やかな丘を登っていく。
少しずつ木々が深くなってやがて森に入り、その奥に祠があるはずだった。
道は荒れて歩きにくく、生い茂った夏草が足元にからみつく。
普段人が足を踏み入れない神域ならば当然のこと。
わずかでも整備されていることをありがたく思うべきだろう。
背中に吹きつける風の冷たさに振り返る。
丘上から見る島の景色は美しかったけれど。
海は荒れて曇り空はますます重く、遠くでかすかな雷鳴が聞こえた。




