第77話 巡る大地
王族たちは頽れた高台の神殿に集まって、日が暮れるまで瞑想にふけっていた。
そばに置けるのは護衛一人だけで、俺たちはファーガスにその役目を任せ(王女の希望だ)、宿泊所で帰りを待った。
イアはベッドに横になると一瞬で寝入ってしまい、エリィも疲れたのか顔を見せず、俺はディーネと茶を淹れてしばしくつろぐ。
話題は二人の将来のこと……ではなくて。
「迫力あったな、先王妃さま」
屋敷でも飲み慣れた茶を一口すすって、ディーネは溜まった緊張を絞り出すように息をついた。
先王妃エヴィレアは、圧倒的威光であの場を収めてしまった。
王の身こそが最優先──その点に関しては譲らなかったものの。
傲慢な態度を見せた騎士にも厳しい言葉をかけ、振る舞いを正すよう忠告を与えた。
騎士につかみかかった男は事実上国を動かしている“女帝”の威圧に言葉が出ず、騎士の方も大げさなくらいに背筋を伸ばして畏まって。
周囲の全員が異論なく、彼女の采配に従った。
「王女にとっては“お継母上”なんだよな」
先王妃と義理の娘であるアイリーン王女とはあの時、ほんの一瞬だけ顔を合わせた。
騒ぎを耳にして降りてきた王女は、なにごとですか、と俺に声をかけて。
人だかりの向こうに継母の姿を認めた。
エヴィレア妃も王女に気づいて、二人は数秒かそこら視線を交わし合ったけれど。
母娘の再会などという心温まる場面はなかった。
寒気か、あるいは恐怖に近かったのかもしれない。
アイリーン王女に向けられた濃碧の瞳には、背中をぞくりと撫で上げる冷たいものがあった。
それは不快よりももっと、どろどろとしたもの。
穢れたものを目にしたかのような、忌避の感情。
他者への眼差しとしてこれほど悪しきものもない。
義理の間柄とはいえ、二人の間には疎遠というだけでは済まない何かがあるようだったけれど。
結局何も言葉をかけあうことなく、母娘は背を向けてしまった。
「船に乗っててね、王族の人たちが言ってたの」
ディーネは茶の表面に生じた小さな波紋を見つめた。
「“穢れた血族”だって、王女さまのこと」
評価を躊躇うように、指先でカップを弄ぶ。
祭祀を取りしきる神官たち以外に、アイリーン王女が他の王族と話す様子はなかった。
王女の取り巻きたちには船に乗る資格がなかったし、王女はずっとファーガスと二人、乗員たちから離れて過ごしていた。
“王女さまは別に誰も気にしてませんで”。
王都に入ったときの、御者の言葉を思い出す。
誰もがアイリーン王女のことを、存在しないもののように扱っている。
エヴィレア王妃もまた継娘を頑なに無視して。
……。
“今回の儀式で、私に神授が下ります”。
王女の言葉の通りなら、明日はおそらく大変な一日になる。
それまで当たり前だと思っていた状況が一変する。
もし仮に──王女が本当に“穢れた血族”だったとして。
その彼女が王の資格を得たとしたら。
激震どころでは済まないだろう。
下手をすれば、多量の血が流れる事態になりかねない。
外側に開いた窓の向こうには、夕暮れた空が見える。
昼間と比べて心なしか雲が広がっていた。
□□□
帰ってくるとアイリーン王女は簡単に食事をとり、明日はよろしくお願いします、と挨拶だけして夜更け前に就寝した。
俺たちは交替で仮眠を取って夜警に就いた。
建物全体にディーネが結界を張ってくれたから、不意打ちなどそう簡単にはできないだろうけど。
あの“刺客”がまた来ないとも限らない。
見張りの担当になって、俺はコテージの外に出て周囲を哨戒した。
海風が運ぶ冷気で夏の夜でも涼しい。
「綺麗だね~」
イアが上を指さすと、雲の多い夜空に星々が川のように流れて、ちかちかと眩く瞬いて。
「ああ」
この一瞬何もかもが頭から消え去って、星の美しさに息を呑んだ。
空は大地の下にある。
子供のころ、村でそんな話をよく聞いた。
この世界にもともと“空”は存在しなかった。
神々はそれぞれ地上に領土を持っていたけど、人と同じようにどんどん数が増えていって土地が足りなくなり、仕方なく“空”を創ったのだ。
特に新しい神々が空に昇り、ブリギッドが加護を受ける“癒しの女神”もそうだろう。
「じゃあ地上の神様の方が古いんだね」
「そうだな。この大陸は、一番古い神そのものなんだ」
イアに話し聞かせながら、村の語り部から聞いた話を思い起こす。
「その神と比べたら、人はもちろん竜だって若造なんだとさ」
語り部はこぶしを効かせて謳ったものだ。
この世界の“根っこ”。
文字通りの“全て”の起源。
神々も人間も、あらゆる生き物はこの“根の神”から生じた、と。
大陸創成の後、根の神は眠りにつく。
創るだけ創って、後のことは放ってしまったのだ。
幸せも悲しみも、愛も憎しみも、戦争も平和も。
全てお前たちの為すがままと。
果たして神の意図した通りか大陸では争いが絶えず、無数の命が消えてそれ以上の新たな命が芽生えた。
神々の分け身たる眷属は覇権を争って嵐の大戦を引き起こし、深く傷ついて地下深く眠りについた。
そのあとで人間が大陸を掌握したけれど、安定を見るまでには多く滝のような血が流れて。
そしていま再び目覚めた眷属の脅威が迫り、人は人で王位を巡って不穏がたちこめて。
……。
結局、同じことの繰り返しじゃないか。
どんなに時代が流れても、どれだけ文明が発展しても、根っこの部分は何も変わっていない。
収束しては発散し、また収束する──永遠の螺旋。
そんな巡りめぐる世界に俺は生きている。
ちっぽけで孤独な、たった一人の人間として。
高台からは真っ暗に広がる海が見える。
一寸先さえ見通すことのできない漆黒の、闇の領域。
気を抜けばその瞬間呑みこまれてしまいそうだけれど。
「カイル」
手のひらに温かい感触が乗る。
イアが俺の手を握って。
透き通った蒼い瞳で、俺を優しく見上げている。
「ああ」
それでも、今の俺は一人じゃなかった。
天才魔法使いと鉄壁の盾がいる。
とても小さいけれど、何よりも強く頼りになる精霊がいる。
何があっても乗り越えられる。
イアと手を繋いで、交代の時間が来るまで見張りを続けた。
嵐の前。
そんな静けさの中でも、不安はなかった。